「海外ミステリを読む」(111)

 
     
 

(ニューヨーク・ミステリの系譜36)

「医学ミステリ(1)

  ニューヨークで病死以外の不審死が発生した場合、警察はその死体をメデイカル・エグザミナー(MEDICAL EXAMINERー略して、M.E.)のオフィスに運び込んで他殺と判明すれば捜査を始めます。一般のミステリでは他殺と分かったあとの捜査を描いているわけですが、この死因判定の段階での様々なドラマを描いたミステリは「医学ミステリ」と呼ばれています。今回はこのM.E.を主人公とした作品を取り上げてみたいと思います。

 「医学ミステリ」の第一人者のロビン・クックの作品の中には、ニューヨークを舞台にM.E.が活躍する作品がいくつかありますが、「ブラインドサイト」という作品もそのひとつです。この作品に「盲点」という日本語訳を付記していますが、正確には「ブラインドサイト」というのは「盲視」、つまり盲人には見えなくても光源が分かるという意味で、日本語の「盲点」に匹敵する英語は「ブラインド・サイド」だと思いますが、分かりにくいので「盲視」ではなく、「盲点」を使ったのでしょう。このように医学ミステリには、我々が日常使わない医学用語が頻繁に出て来るのが特徴です。

 この作品の舞台はM.E.のオフィスですが、場所は一番街と東30丁目の角で北隣にはニューヨーク大学医学部が、南隣には通りを挟んで、ニューヨーク・ミステリには必ず登場するベルビュー病院があります。昔はM.E.のオフィスはこの病院にあったそうです。主人公のローリー・モンゴメリーはM.E.に成り立ての32才の女性で、まだ一年間の試用期間中の身の上です。彼女のアパートは一番街と二番街の間の19丁目ですので歩いて出勤出来る距離にいます。

 『(ニューヨークのM.E.のオフィスは)年間1万5千から2万の症例を引き受け、
  解剖も約8千やっている。ここでは平均して毎日殺人2例、麻薬中毒死2例は
  舞い込んでくるのだ。』
         (
「ブラインドサイト」の中の一節)

 この数字を見ると、持ち込まれた死体を全部解剖するということではないことになります。半分は解剖しなくても死因が分かるのでしょうか。

 彼女は自分が解剖した死体の中に麻薬中毒死が多発していることに疑問を持ちます。麻薬中毒者に多い、夢破れた人間達ではなく、凡ての面で順調な人々の突然死だったからです。彼女はこのことを上司に報告するのですが、取り上げて貰えないので自ら調査を始めます。彼女は若い時に兄が麻薬の恐ろしさを知らずに中毒死した過去があるので麻薬には人一倍敏感なのです。死者の背景が知りたくて、自らアパートを訪れ、遺族に会って事情を聞き回るわけですが、それは普通ではしてはいけないことらしく、上司に「それは調査官の仕事だ。君は解剖をしていればいいのだ」と叱られます。つまり、M.E.のオフィスは解剖をしない調査専門のスタッフが常駐しているということです。しかし、それではミステリとしては面白くないので、M.E.が自ら出向く設定になるのでしょう。

 殺人事件を捜査している市警の刑事(ルウ・ソルダーノ)が彼女のオフィスを訪れ、彼女と知り合い、主役の一人になります。二人のロマンスも物語の背景になりますし、犯罪が絡むと後は警察の仕事になるからです。ローリーが調査している麻薬中毒死とルウが捜査しているギャングの殺しが最後に一つの事件に繋がって行くという物語の展開です。

 同じくロビン・クックの「コンテイジョン(伝染)」という作品は「ブラインドサイト」の5年後に書かれた作品ですが、続編という感じで舞台は同じです。ローリーはもうベテランのM.E.になっています。でも、この作品の主役は同じM.E.のジャック・ステーブルトンです。この作品は題名通りに原因不明の伝染病の発病をめぐる医学界、特に病院経営の内幕を描いた作品で、文庫版でも600ページを越える大作ですが、飽きさせずにラストまで読ませる作品に仕上がっています。テレビドラマ「リ・ジェネシス」に似たところがありますので、脚本家はクックのこの本を読んだのだと思います。

 ここまで主人公の職業をM.E.としか書かなかったのは、実は今回取り上げたかったのがこのM.E.とそれに付属した用語の日本語訳のことだったからです。紹介した2冊を訳しているのは医師の資格のある林克己氏ですが、「ブラインドサイト」の「訳者あとがき」にこう書いています。

 『ここに登場する女主人公はMEDICAL EXAMINERで、日本では監察医、また
  そのOFFICEは監察医務院です。これを世に流布しているように検屍官、検屍局と
  訳すことは、私は医師としていささか抵抗があったのですが、出版社の意向を受け
  て、ここでは一般の訳語にしておきました。』

 「ブラインドサイト」ではここに書いているようにM.E.を「検屍官」と訳しています。

 『検屍官に死亡現場に行かせることを義務づけている所もあるが、ニューヨーク市は
  そうではなく、政策上調査官に代行させるようにしていたからだ。』
          (「ブラインドサイト」の本文から)

 他にオフィスを「検屍局」、チーフを「局長」と訳しています。 

所が、5年後に書かれた「コンテイジョン(伝染)」ではM.E.を「監察医」、オフィスを「監察医務院」、チーフを「院長」と訳を変更しているのです。その理由について「訳者あとがき」でこう説明しています。長い文章ですが、そのまま紹介します。

 『MEDICAL EXAMINERの邦訳について、じつはまた編集部との間で論争に
  なりました。(中略)早川書房のみならず、一般にこれを「検屍官」として扱っており、
  当時わたしは編集部の意向を受けて、心ならずもそうしました。が、やはりわたしの
  思っていましたとおり、何人かの医師の読者から、なぜ「監察医」としなかったのか
  ときつい手紙や電話を受けました

  MEDICAL EXAMINERとそのOFFICEの制度は以前は日本にはなく、死体
  解剖はもっぱら大学や大病院の法医学者があたっており、敗戦後アメリカの駐留
  アメリカ軍の強い要請で、日本もアメリカと同じ施設が東京に作られ、「監察医」、
  「監察医務院」として出発、今日にいたっています。
  
「検屍」というのは、死者が出た場合、その場に出張してその死を確認することで
  その死因まで調べることではありません。

 この問題は諸外国と日本との制度の違いに基因する複雑な問題なので、究明すると長くなりますので、私なりにまとめてみたいと思います。上の文章によると、「検屍官」は死を確認するだけで、「監察医」は死因まで探ることだと解釈出来ます。林氏は上の文章をこう続けています。

 『わたしも医師なので、「検屍官」という訳語にはどうしても反撥を感ぜざるをえない
  のです。一般の読者には何か颯爽として響きが良いのかもしれませんが、わたし
  にはきわめて医師らしくない、警官か一般の役人のような気がしてしかたがありま
  せん。アメリカの田舎の州では医師でない者もMEDICAL EXAMINERの役
  目にあたっているそうですが、それではMEDICALの名がついているのはおか
  しいわけです。』

 「コンテイジョン(伝染)」の中にこういう文章があります。

 『そこでジャックはノーデルマン夫人がコロナーなどという古い言葉もわかっていな
  かろうと思い、監察医の役目を説明しなければならなかった。』

 この文章は、世間一般ではM.E.よりコロナーの方が知れ渡っていることを示しています。コロナーはイギリスで作られた制度で、不審死を調査する官吏です。コロナーは資格として法医学者である必要はありませんが、捜査権があります。そこがM.E.との決定的な相違です。コロナーが医師でない場合は専門家に診断させるわけです。M.E.は法医学者として一つの死に対する完全な解明が職務であるし、コロナーはその死だけでなく、その先まで見据えるのが、つまり伝染病なら蔓延防止に、連続殺人なら阻止に努めるのが職務と言えるでしょうか。アメリカではコロナー制とM.E.制が並立していて、郡部ではコロナー制が多く、シェリフがコロナーを兼ねている町もあるようです。コロナーは医師である必要はないからです。ニューヨークではシェリフもいないし、コロナーもいません。林氏はこの「コロナー」という言葉を「検屍官」と訳しています。

 辞書にはこう書いてあります。

 『CORONERー検視官。米国のいくつかの州ではこの呼称は廃して
           MEDICAL EXAMINERという。

 『MEDICAL EXAMINERー監察医、検死官

 これは研究社の「新英和大辞典」です。大修館書店の「ジーニアス英和大辞典」ではこうなっています。

 『MEDICAL EXAMINERー検死官

 「和英辞典」でも、「検死官」の項には「CORONER」と「MEDICAL EXAMINER」の両方が出て来ます。つまり、世間一般にはM.E.の訳語としては「検死官」も使われているということです。これは二つの制度が英語圏に存在する為です。M.E.も検死をするわけだから、「検死官」と訳してもいいではないかという意見も出て来るわけです。その上、「検死」と「検屍」のどちらを使うべきかという問題も出て来ます。「屍」の本来の意味は「しかばね」つまり死体そのものであり、「死」の持つ意味の一つに過ぎないわけですから、「検屍」は死体そのものを検する事であり、「検死」は死体を含む死全体を検することになります。ですが、日本語自体が生きていて、絶えず変化しているので、今では両者は殆ど同じ意味で使われることも多いのです。医学語の専門辞典「医学大辞典」(医学書院)でも「検屍」の項に「→検死」という表示がある位です。つまり、「検屍」と「検死」は同じ意味で使われているということです。

 [深読みコーナー]

 コロナー制とM.E.制の二重制度に加えて、日本国内の特殊制度が、この問題をより複雑にしているのです。林氏が「コンテイジョン」の「訳者あとがき」に書いているように、M.E.制が日本に導入されたのは敗戦直後のマッカーサー司令部によってです。財閥解体、農地解放などの「日本改造」を目指したアメリカ駐留軍の命令によって、日本は1947年にしぶしぶM.E.のオフィスを東京、大阪、京都、名古屋、横浜、神戸、福岡の7都市に設置したのですが、1985年に京都と福岡で廃止され、現在では正常に制度が機能しているのは東京、大阪、神戸の3都市だけのようです。

 異状死体が発見された場合、現場に駆けつけた警察の「検視官」(これが日本での正式の言葉です)の判断で死体はM.E.のオフィスに運ばれ、必要ならば解剖します。これが行政解剖と呼ばれています。「検視官」が犯罪性を感じた場合は死体はM.E.のオフィスではなく、大学の法医学教室に運ばれ、解剖されます。これが司法解剖です。所がM.E.のオフィスがない都市の方が多いわけです。その場合は最初から大学か大学病院に運ばれます。どの県でも医学部のある大学があり、医学部には法医学教室がありますので、よその県に持ち込むことはないのです。

 アメリカが持ち込んだM.E.制が日本に定着しなかったのは、森鴎外がドイツに留学したことからも分かるように、日本の司法と医学はドイツの制度を採用しているからです。そのドイツにはM.E.制がないから、既存組織である大学の法医学教室と制度がダブルことになったのです。現在、法医学者の間では、この制度の見直しを提唱する動きがあります。M.E.のオフィスを全国に設置し、行政解剖と司法解剖の両方をさせるか、M.E.制そのものを廃止して一本化するかのどちらかにしろというわけです。

 このことの是非については門外漢なので私見は差し控えますが、ミステリの翻訳の世界の混乱の原因がここにあることだけは間違いないでしょう。公的用語としては「検視官」、「監察医」、「監察医務院」という言葉があるだけで、あとは民間で勝手に「検死官」「検屍官」を使っているのが現状です。しかし、現時点での日本語の正しい使い方から言えば、「検死」は「死体の外表面を検査すること」(「医学大事典」)ですから、「CORONER」の訳には使えますが、解剖が主な職務のM.E.の訳としてはおかしいことになります。「日本ではM.E.の訳として検死官が定着している」という主張は、今日では「検死」という言葉には「外表面の検査」だけでなく、解剖による体内の検査も含む意味で使われるようになっていると主張していることになります。一方で、林氏とその意見に同調する人達の意見は、その解釈は辞書などから「外表面」という言葉が削除されるようになってからにすべきではないかということになるのではないでしょうか。辞書は生きている言葉を追いかけているのです。それが改変の時期なのかどうかは、常用漢字の問題とも重なり、テーマがずれますので、これ以上はやめておきます。

 (引用文献)

●「ブラインドサイト」(1992)
       ロビン・クック著・林克己訳・
ハヤカワ文庫(1993)

●「コンテイジョン」(1995)
       
ロビン・クック著・林克己訳・ハヤカワ文庫(1997)

 (参考文献)

●「法医学入門」(1966)
       八十島信之助著・中公新書

●「法医学への招待」(1991)
       石山いく夫著・ちくまライブラリー

 (参考サイト)

   下記のサイトを参考にさせて頂きました。

●関西医科大学法医学講座

    http://www3.kmu.ac.jp/legalmed/index2.html

●東京都監察医務院

    http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/kansatsu/

●山口大学医学部法医学教室

    http://web.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~legal/

●千葉大学大学院医学研究室法医学教室

    http://www.m.chiba-u.ac.jp/class/houi/

●司法解剖の在り方についての提言

    http://web.sapmed.ac.jp/JSLM/170316.html

 

 

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