「海外ミステリを読む」(61)

 
     
 

(私立探偵アルバート・サムスン・シリーズ7)

「豹の呼ぶ声」(1991年作)

  (1993年・石田善彦訳ハヤカワ・ポケット・ミステリ1601)
  (1998年・石田善彦訳・ハヤカワ文庫)

 金持ちの未亡人シャーロット・ヴィヴィアンのディナー・パーテイには警察署長や弁護士、それに英国人の詩人クウェンティン・クウェイルが出席していました。インデイアナポリスにも爆弾を仕掛けるテロリストが出現したという物騒な話題が話されている時に、執事が姿を見せ、客の一人が応接室で殺されていますと告げる場面からこの物語は始まります。

 執事から死体発見を告げられたミセス・ヴィヴィアンは客にこう言います。

 「とても幸運なことに、たまたま今日のお客さまのなかには本物の私立探偵がいらしています。みなさん、ミスター・アルバート・サムスンをご紹介します」

 貧乏人の代表としてなのか、サムスンがこのパーテイに出席していたのです。万座の中、サムスンが立ち上がるとさらに紹介が続きます。

 「ミスター・サムスンは、現代には稀な、時代錯誤で、信念に忠実な、古いタイプの私立探偵です」

 この一文は作者としてはパロデイ化を意図したものでしょうが、そんな意図を越えた、大きな意味を持つような気がします。誤解を恐れずに言えば、リューイン自らがネオ・ハードボイルド派の終焉を告げる結果になったのではないか。そんなことを感じる文章です。 

この最初のパーテイの場面で、この小説の趣向が読み取れる仕掛けになっています。殺人というのは言うまでもなく、客を脅かして楽しませるパーテイの筋書きの一つです。ミセス・ヴィヴィアンは新聞広告で見て、サムスンにこの仕事を依頼したわけです。それもかなりの高額のギャラです。仕事が少なく、収入の少ないサムスンは、こんな探偵を馬鹿にした仕事でもお金の為と割り切って引き受けたというのです。

 パーテイでの仕事を終えたサムスンが帰宅するのは、前作までとは違う場所です。母親は自分が経営する食堂に隣接する住宅に、店を手伝っている若い男と同棲しているのですが、サムスンはなんと、その二階に住んでいるのです。前作まで住んでいた事務所兼自宅は建物のオーナーとのトラブルで追い出されることになったサムスンは、お金がないので母親の家の二階に転がり込んだわけです。いい年をして母親に助けを求めたり、その母親が息子より若い男と同棲しているという設定はリューインの、ハードボイルド小説への別れの言葉でしょう。それだけではまだ足りないと思ったらしく、母親に「お前はピストルを持っていないようだから、これを使いなさい」とピストルを渡すようなことをさせたり、「無名」の恋人の娘のボーイフレンドに勧められて、自分のテレビ・コマーシャルを作って宣伝したりというようなことをさせているのです。

 この作品でリューインは前作までかろうじて持ち続けていたネオ・ハードボイルド派の作家という立場を、自分で必死になって打ち壊そうとしているような気配があります。チャンドラーもロス・マクドナルドも主人公の「私立探偵」の母親を登場させませんでしたから、リューインは最初から母親を登場させたのだと思います。そうすることで、「ネオ」であろうとしたのでしょう。ですが、ここに来て、「時代の流れ」に合わせた設定を持ち出してきて、「もう、ネオ・ハードボイルド派であることはやめた」と言っているような気がします。 

 この作品では依頼人も、依頼される事件もいつもと全く違います。まず、一つがクウェンティン・クウェイルに依頼される、彼の奥さん殺しです。と言っても、実際に殺すわけではなく、実在しない彼の妻を殺して欲しいと頼まれるのです。つまり、クウェンティンはミセス・ヴィヴィアンが好きになり、結婚したいと思い始めたのですが、最初に会った時に結婚していると言ってしまったのです。ですから、結婚するにはその実在しない妻と別れる必要があるのです。それをやってくれとサムスンに依頼したのです。

 もう一つの依頼は女性だけのテロリスト集団からの依頼です。彼女達が仕掛けた爆弾が何者かに盗まれたので、取り戻して欲しいというのです。彼女達は脅しだけで実際には被害を与えていないのです。爆弾を誰もいない畑で爆発させるだけだったのです。所が、あるビルに仕掛けた爆弾が取り去る前に何者かに盗まれたのです。それが悪用されることを恐れた、心優しいテロリスト達が爆発する前に回収してくれとサムスンに頼んだのです。

 この作品は、こんな依頼に走り回るサムスンが演じるファルスの世界です。くだけた表現を使えば、吉本新喜劇の芝居のようなものです。文庫版の解説を書いた馬場啓一氏は「ユニークなハードボイルド」と題して、こう書いています。

   『物語はハードボイルドの域を外れ、一種のライト・コメデイと化している。
    これをネオ・ハードボイルドの衰退と見るか、巧みな時代感覚の先取り
    と見るかで、この作品の評価は違ってくるだろう。』

 これがこの作品に対する正しい分析だろうと思います。これに私の意見を少し付け加えるなら、この作品は「ネオ・ハードボイルドの衰退」ではなく、「終焉」だと思います。ネオ・ハードボイルド派の終焉の時期をいつにするかは難しい問題ですが、その派に属する作家自身が自らの手で、その幕を閉じたというケースは多くないでしょう。というより、リューイン一人だけだと言っても過言ではないかも知れません。普通は第三者が指摘するものですが、マイクル・Z・リューインは意識して、それをやったのだと思います。さすがに「アイアンマウンテン報告」の作者の息子らしいユニークさです。

 シリーズ第7作であり、現段階では翻訳のある最後の作品でもある「豹の呼ぶ声」は1991年作です。第6作「季節の終り」が1984年ですから、七年の空白期間があります。その七年の間に作者の中で何かが起こったのだと思います。

 リューインはこの空白の期間に二つの長編を書いています。最初が1986年の「男たちの絆」という作品です。「季節の終り」から2年後に描かれたこの作品は、パウダー・シリーズの三作目ですが、最後の作品でもあります。勿論、現存の作家ですから、今後パウダーものを書かない保障はないのですから、あくまで現時点でという話になります。

 「男たちの絆」で私が最も気になったのは、これまで脇役として登場させていたサムスンを登場させなかったという点です。最初の二作に登場させていたサムスンをなぜ、この三作目で消したのか。作者のサムスン離れの伏線と思えなくはないのです。そのせいかこの作品は前二作に比べて面白さに欠けているような気がします。作者の熱気が感じられないのです。

 それから二年後の1988年には「そして、赤ん坊が落ちる」という作品を発表しています。この作品はサムスン・シリーズでは、最後まで「恋人」と呼ばれ、名前が与えられていなかったサムスンの恋人、アデル・バフィントンが主人公です。彼女はソシアル・ワーカーとして働きながら、一人娘のルーシーを育てています。そして、サムスンも脇役として登場します。

  『アルバート・サムスンは素晴らしい男性だ。一緒にいるだけで心が安らぎ
   いつも自分の悩みをあらわさないように配慮してくれる。彼女は長年の友
   人であるこの中年の男への深い愛情がわきあがるのをおぼえた。』

 このように主人公にとっての「大事な人」という役どころで描かれています。「男たちの絆」はまだ幾分かはネオ・ハードボイルドの肩書きを被せられる作品ですが、この「そして、赤ん坊が落ちる」は軽さが表に出てきて、「おだやかな、しかし確実に持続するサスペンスで読む者の心を奪う」(「文庫版」の解説の渡辺武信氏の文章)ような作品ですので、その範疇には入れられない作品です。出版社も扱いに困ったのか、この本はポケミス版ではなく、ハードカバー版で出しています。そのあとに文庫版に入れたのです。なお、ハードカバー版の「訳者あとがき」にはリューイン夫人は実際にソシアル・ワーカーとして働いていた経験のある人だという文章があります。

 この作品から三年後に書かれたのが、シリーズ七作目の「豹の呼ぶ声」です。六作目の「季節の終り」ではロス・マクドナルド流のハードボイルド作品を読者に届けたリューインでしたが、七年の歳月の間に彼の中で何かが起こり、結果としてか、あるいは意図してか、ネオ・ハードボイルド派としての自分の作品は「季節の終り」が最後だったと告げる作品になってしましました。ひょっとして作者は「季節の終り」というタイトルに、そういう意味を込めたのかも知れません。原題は「OUT OF SEASON」ですから、「季節外れ」と訳した方がいいのかも知れません。事実、もうこの頃には「ネオ・ハードボイルド」は「季節外れ」になっていたのです。

 リューインはこの作品のあとも、ホームレスを主人公にしたり、一家で探偵商売をしている作品を発表していますが、ネオ・ハードボイルド派の最後を飾る作家として取り上げてきた私としては、これ以後の作品はジャンルが違うように思えますので、リューイン編はこれで終りにしたいと思います。ただ、サムスン・シリーズの新作が出版されたという情報がありますので、翻訳されたら読んでみたいとは思っています。今の時代にサムスンをどのように動かすのか興味がありますので、途中挿入と言う形で取り上げるつもりではいます。

(次回からの予告) 

 「季節の終り」は1984年の作品ですが、ネオ・ハードボイルド派がネオであった時代は70年代で終わっていると言っていいでしょう。そして、このあと、80年のミステリが書かれたわけですが、新しい流れを産み出した作家としてはトマス・ハリスに代表される異常犯罪者の世界を描いた作家、アンドリュー・ヴァクスに見られるアウトローに生きる男たちを描いた作家達、あるいは特異な体験を生かしたジェイムズ・エルロイなどが挙げられるでしょう。そんな中から私はトマス・H・クックを取り上げてみたいと思います。

 トマス・H・クックは時代の潮流におもねることなく、自分を貫き通した作家です。初めて読む人には、彼の作品は重苦しいと感じられるかも知れません。特に、書き出し部分が読みづらいと言ってもいいでしょう。人物紹介にしても突然、名前だけを数人並べて、一体これは何者なのだと読み返す必要があるくらいです。しかし、読み進むにつれて、彼の作品の持つ世界に引き込まれていきます。

 トマス・H・クックが我々に語るのは「死」についてです。人は何故人を殺すのか。人はなぜ狂気に捕らわれるのか。彼は色んな方法で「死」と「狂気」について語っています。それをミステリの約束事の中から始めたのですが、いつのまにか、それは本人も意識しないうちにだと思いますが、ミステリとノヴェルの枠を取り払ってしまうところまで行ったのです。

 デヴュー当時は、トマス・H・クックはこれまでの範疇では分類できない部分があり、評価がしにくい作家だったようです。例えば、北上次郎氏は「ハードボイルドな男たち」の中で「普通小説に近づいた80年代ハードボイルドへの流れは、クックによって今、新たな方向に行こうとしているのか」と書いたことがありました。北上氏には珍しく疑問形の文章です。つまり、ハリスやヴァクスのようには解りやすい作家ではなかったようです。

 最初は傍流に見えたトマス・H・クックですが、時代に流されることなく、自分の道を歩み続けた結果、20世紀最後の瞬間にはハードボイルド・ミステリのトップの座にいたのではないか。ハメットを始祖とするこのジャンルの王道を継ぎ、ハメットが目指しながら到達出来なかった域にまでミステリを高めた作家。それがクックではないか。私はそのように見ています。

 というわけで、次回からはトマス・H・クックの作品を読んで行きたいと思っています。

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