「海外ミステリを読む」(56)

 
 

[マイクル・Z・リューイン編]

 
 

(私立探偵アルバート・サムスン・シリーズ2)

「死の演出者」(1973年作)

  (1978年・皆藤幸蔵訳ハヤカワ・ポケット・ミステリ1319)
  (1993年・
石田善彦訳・ハヤカワ文庫)

 ある朝、サムスンの事務所兼自宅に電話がかかってきました。ジェローム夫人と名乗ったその女性は、サムスンに「あなたの料金はいくらですか」と問い質します。サムスンが一日35ドルだと答えると他の探偵の値段を訊いてから決めると言って電話を切りました。夕方、その女性は再び電話してきて貴方がこの街で一番安い探偵のようなので仕事を頼むことにしたので家に来てくださいと言います。

 夜になってからサムスンは約束通りにその家を訪れます。そこには娘のロゼッタ・トマネクもいました。本当の依頼人はそのロゼッタだったのです。母親は娘の為に安い探偵を探してあげたようです。

 ロゼッタの依頼というのは警察に逮捕されている夫のラルフのことでした。ガードマンをしているラルフが仕事中に銃で人を殺したというのです。でも、それは故意ではなく、そのマンションの住人が危険にさらされたので発砲しただけなのに、警察は故意に殺したと主張しているのだと言うのです。警察が何も調べようとしないので、真相を突き止めて欲しい。それが依頼された仕事でした。

 サムスンはまず医者に話を聞きに行きます。それによると、ラルフはヴェトナム戦争で敵に襲われた時に、仲間が殺された反動で敵に向かって行き、勇敢に戦い、敵を倒したのだが精神的虚脱状態から立ち直れなくなり、本土に送還され病気除隊になったのだというのです。最後に医者はラルフはビルの武装ガードマンなどになるべきではなかったと言います。

 次にサムスンは関係者たちの調査を開始します。まず、ラルフを雇った警備保障会社の経営者のロビンソン・ホルロイドに会いに行きます。最初はサムスンを警察の人間だと思ったらしく、「いくら費用がかかってもラルフを応援します」と言っていたのですが、ラルフの弁護士に雇われた私立探偵だと分かった途端に「話すことはない」と言って追い返します。ホルロイドが、この事件は警備保障会社にとってはダメージどころか、むしろいい宣伝になると話す場面などは、チャールトン・ヘストンの顔が思い出され、銃社会アメリカの影が浮かび上がってきます。つまり、客を守るためには敵を射殺するガードマンがいる会社は頼りになるじゃないかというわけです。

 本人からはそれ以上訊きだすことが出来ないと分かったサムスンは周囲から調査をしていき、ホルロイドは積極的にベトナム戦争で精神的に傷ついた若者たちを雇っていることを突き止めます。ホルロイドが何故、そういう若者を集めているかが事件の鍵の一つになります。

 もう一人の関係者は不動産屋のエドワード・エフレイです。彼はラルフが勤務しているビルのテナントで、ラルフに「あの男は私を殺そうとしているから撃て」と言った張本人なのです。ラルフはその言葉を信じて、彼を守るために発砲したと供述しています。が、エフレイ自身は警察の調べに対して「そんなことを言った覚えはない」と否定しているのです。

 サムスンは刑務所にいるラルフ本人にも会いに行きます。その時の二人の会話はこんな風でした。

  「警察は私を気違いだと思っている。エフレイさんはそんなこと
   は言わなかったと言うんだ」
  「エフレイは、どうして言わなかったと言うんだろう」
  「私には分からない。私は多分、気違いなんだろう」
  「どうしてそんなことを言うんだ」
  「私はかって、気が変なことがあった。だから、今でも変なのか
   も知れない。だから、銃を持った職業にはつきたくなかった
   が、ついてしまった。気違い沙汰だろ。そして、人を殺してし
   まった。気違い沙汰だろ。私は気違いなのかも知れないが、
   今度のことは、どうもよく分からないんだ」
              (ポケミス版からの抜粋)

 殺されたのは私立探偵のオスカー・レノックスという男です。サムスンは事件解明の突破口をこの男に求めて、調査を進めます。彼は何故その夜、その場所に現れたのか。探偵の免許を取り消された過去を持つ、この男が事件のもうひとつの鍵を握っています。

 サムスンはレノックスの過去を暴きながら、事件の真相に迫っていくのですが、底にあるものはラルフへの同情と彼をそんな状態に追いやった人間達への怒りでした。リューインがこの作品で描きたかったのはベトナム戦争で傷ついたアメリカ社会だったのでしょう。

 この作品の原題は「THE WAY WE DIE NOW」です。これから連想されるのはロス・マクドナルドの「人の死に行く道」です。この作品の原題は「THE WAY SOME PEOPLE DIE]です。明らかに意識して付けた題でしょう。

 「人の死に行く道」はリュー・アーチャー・シリーズの初期の傑作として世評の高い作品です。「ハヤカワ・ミステリ総解説目録」にはこう書いてあります。

  『批評家バウチャーがチャンドラーの「さらば愛しき女よ」以来
   最高のハードボイルド探偵小説と絶賛を惜しまなかった作品』

 自社が出版した作品の解説なので、多少は割り引く必要があるでしょうが、出来のいい作品なのは間違いありません。未読の方には、比較する上からも一読をお勧めします。文庫版も出ています。

 「人の死に行く道」は1951年作で、時代背景としてはこの作品の中にこういう描写があります。

  『未来もなく、両親もなく、この沿岸の都会の暗黒街に自分自
   身を見失った若者たち、ピストルを忍ばせ、マンガに出てく
   るような奇怪な想像力を頭につめこんで、戦争に遅すぎて
   生まれたアプレ・ゲールの青年たち』

 今では「アプレ・ゲール」という言葉も死語となりましたが、このあと、戦後という時代は、新たな紛争の時代へと変貌を遂げていきました。朝鮮戦争、ケネデイ暗殺、ベトナム戦争と大きな波がアメリカ社会を揺るがせて行ったのです。中でもベトナム戦争の影響が大きいのは言うまでもないでしょう。

 リューインはこの作品で、ロス・マクドナルドが描いてから20年後のアメリカ社会をロス・マクドナルド風に描こうと意図して、この題を付けたのでしょう。ポケミス版の末尾にはこういう解説(無署名ですので編集部作でしょう)が書いてあります。

  『「死の演出者」の原題を直訳すると、「いま我らが死ぬ流儀」
   とでもなりましょうか。明らかにロス・マクドナルドの名作「人
   の死に行く道」を下敷きにしたタイトルです。この原題名の
   意味を噛み締めながら本書をお読みになれば、リューイン
   が現在の時代をとらえるその視点の確かさも伝わってくる
   と思います。』

 日本語の題名は「死の演出者」では作者の意図が浮かび上がってこないような気がします。むしろ、「我々の死に行く道」という意味で付けた題名だと思うのです。ロス・マクドナルドが第3人称で「SOME PEOPLE」としているのに、リューインは「WE」と言っているのです。「我々」の中にも「私」も含まれるのですから、それだけ強い表現といえるでしょう。

 このように作者の意図は強固なものですが、作品の完成度が伴っていない気がします。「人の死に行く道」に比較して、明らかにリューインの負けと言っても過言ではありません。文庫版の解説では、原題との関連には一切触れていませんが、これは作品の出来と関係しているのだと思います。本を買う場合は「解説」を読んで決める人が多いのです。ですから、「解説」には「この本は出来が良くない」とは絶対に書けないのです。そのことを頭において、「解説」を読むと結構面白いものです。中には「本文」より面白いことがあります。その具体例がポケミス版の「解説」です。「現在の時代をとらえる視点」は確かだと書いてありますが、作品の出来には触れていません。出来がよければ、「ロス・マクドナルドを凌ぐ傑作」と書かないはずがありません。それに触れていないということは「凌いで」いないからです。誤解のないように言っておきますが、この作品、平均点は充分にクリアしています。私の言っているのはロス・マクドナルドの「人の死に行く道」に比較すれば負けているという意味です。

 この作品の最大の謎はリューインは何故、こんなこと、つまり、まるでロス・マクドナルドに挑戦するようなことをしたのかということだと思いますが、日本語訳が出て30年経つのに、私が探した限りでは日本では誰もこのことに触れていないようです。英語で書かれた批評のなかにはあるのかも知れませんが、手元に資料がないので分かりません。それはともかく、私にはリューインという作家を解く鍵がここにあるように思えるのです。サムスン以外の主人公を産み出すことを作者が考えたのは、この作品がきっかけではないか。そのあたりのことも、この連載の中で徐々に書いて行くつもりですが、今回は次の一点だけ指摘しておきます。

 リューインは、出来上がった自分の作品をロス・マクドナルドの作品と比較した筈です。色々思うところがあったと思いますが、ひとつだけ推理できるのはサムスンという主人公の枠の中では、このテーマは無理だったのではないかと感じたのではないでしょうか。シリーズものを書いていると、最初に自分が創り上げた枠に逆に自分で苦しむことになるものです。つまり、主人公の性格、年齢、出身地、家族などは最初に決めてから書き出しますが、あとになって、その枠が邪魔になることがあるのです。地方出身者と決めた男を東京生まれに変えるわけにはいかないからです。この作品でのリューインの失敗は殺人が嫌い、拳銃を持たない主義の男を動かす設定を間違えたことだと私は思います。リュー・アーチャーが動き回るのに丁度いい状況にサムスンを放り込んだことです。ベトナム戦争で精神に異常をきたした男が、銃を持ってうろついているのに、銃は嫌いだでは逃げ回るか、助っ人を頼むしかないからです。暴力シーンが中途半端になっているのはそのせいでしょう。

 この失敗を次作以降でリューインはどう解決していくのか。このまま書き続けていくのか、それとも変えるのか。それが今後のポイントと言ってもいいでしょう。

 最後に、ポケミス版と文庫版での訳の違いを見て行きたいと思います。以下で引用している文中の「彼」とはラルフ・トマネクのことです。

  1.(ポケミス版)  

   『彼がその仕事につき、銃を持つよう自分を説得したことは
    彼にとっては、すばらしい自制の証明だったに違いない。
    こう考えると、彼が自制を失い、思わず引き金を引いてし
    まったとは信じられない。彼のような過去を持つ人間なら
    悪魔のような、自分から青春を奪った経験を再び繰り返す
       よりは、むしろ自分が撃たれたいと思わないだろうか。』

     (文庫版)

    『彼がその仕事につき、銃を持つよう自分を説得したことは
    彼にとって素晴らしい自制心の証明だったに違いない。
    そして、過去の恐るべき逆境からの脱出。
    こう仮定すると、彼の過去の「病歴」は、むしろ自制を失い,
    思わず引金をひきたくなる衝動を抑える役割を果たすと考
       えるべきだろう。過去の悪夢、自分から青春を奪った経験
       を再びくりかえすよりは、むしろ自分が撃たれることを選ぶ
       のではないだろうか。』

      文庫版にある3行目の文章はポケミス版にはありません。従って   
      ポケミス版の訳者が漏らしたのか、それとも、文庫版の訳者が原
      文にない文章を付け足したかのどちらかです。私は後者だろうと
      思います。ポケミス版の3行目から4行目にかけての文章では断
      定してますが、文庫版ではそこまで踏み込んではいないので、少
      し意味が曖昧になっています。ポケミス版の方が読みやすい気が
      します。

  ⒉. (ポケミス版)

   『いったいラルフ・トマネクが、まかり間違えば自分が死ぬか、
    人を殺すかもしれない立場に自分を追い込んだ理由は、
    何だったのか。自分を、必要な場合は、人を殺せるほど自
    制のある人間にするためだったのか。』

        (文庫版)

    『なぜ、ラルフ・トマネクが、再び死と殺人にまつわる職業に
    つくことを認められたのか?必要な場合、だれかを殺せる
    だけの自制心をもった人間であることを証明するためか?』

   文庫版の方はちょっと意味が通らない部分があるのではないでしょ
      うか。誰が「認めた」というのでしょうか。これもポケミス版の訳の方
      が分かりやすいでしょう。

   3. (ポケミス版)

    『「おれが言おうとしているのは、今度の戦争の在り方から、
     頭のおかしくなった復員軍人がたくさんいるから、たびた
      び広告を出せば、きっと運良く望みどおりの人間がみつ
      かるということだ」』

         (文庫版)

      『「わたしがいいたいのは、今度の戦争の結果、頭のおかし
      くなった復員軍人はたくさんいるから、何度か広告を出せ
      ば、きっと運よく望みどおりの人間が見つかるだろう、とい
      うことだ」』

       これは一目瞭然でしょう。ポケミス版は訳語の選択で間違っていま
       す。「戦争の在り方」では大学生の英文和訳です。文庫版の「戦争
       の結果」が正しい訳と言えるでしょう。  

[深読みコーナー]

 この作品のラストはこうなっています。

     (ポケミス版)

     『小型トラックを買って、側面に広告を出すのだ。「アルバ
     ート・サムスン。お金はちょうだいします。質問はします」』

    (文庫版)

     『小型のヴァンを買おう。そして、宣伝する。「私立探偵、
     アルバート・サムスン。適切な料金。そして、適切な質問」』

 実は前回、不明な部分が解決できずに、触れずにおいた部分があるのです。それはシリーズ一作目の「A型の女」の原題「ASK THE RIGHT QUESTION]の意味です。直訳すれば「適切な質問をしろ」ということでしょうか。それがこの二作目のラストに出てきているのです。これは一作目のラストに使った方がよかったのではないかと私には思えます。ひょっとして、この二作目は最初このタイトルだったのではないだろうか。だが、その後、新しいタイトルを思いついたので、一作目に使ったのではないだろうか。この二作の出版は2年しか差がないので、一作目の最終校正の時に二作目の第一稿が完成していた可能性はあると思います。だとすると、タイトル変更は可能です。そんなことを考えてしまうラストの一文でした。

 作者はなぜ、こんなことをしたのでしょうか。読者サービスなのでしょうか。それとも、作者の遊びなのでしょうか。あるいは彼の父親譲りの性格なのでしょうか。このことは、このあとの彼の作品の行方にも絡んでくる問題だと思います。

 

  

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