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「海外ミステリを読む」(55) |
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[マイクル・Z・リューイン編] |
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(私立探偵アルバート・サムスン・シリーズ1) 「A型の女」(1971年作) (1978年・皆藤幸蔵訳ハヤカワ・ポケット・ミステリ1308) 今日(2003年)の時点でのマイクル・Z・リューインの「アルバート・サムスン・シリーズ」に対する一般的評価は「海外ミステリー事典」(新潮選書)の下記の文章に集約されるでしょう。 『高踏派R・マクドナルドのスタイルをひいた作風で、その時
『70−80年代に至って、アメリカ社会の変革と同時にハード 『寡作でサムスン・シリーズは71-91年の20年間に7作しか 舞台となるのはインディアナポリス。インディアナ州の州都で、人口82万。全米で12番目の都市。この作品では10番目と書いてありますので、この30年の間にどこか二つの街に追い越されたのでしょう。。ミシガン湖の近くにあり、この街で毎年5月に開催される「インディ500」は知らぬ者はいないでしょう。また、ジェイムス・ディーンの生地であり、墓所であるマリオンは、この街から90キロの場所にあることも有名です。スティーヴ・マックィーンもこの街の出身です。 ネオ・ハードボイルド派の特徴の一つが舞台を地方都市に求めたことです。それには様々な理由が考えらますが、一番大きなものとしてはマンネリからの脱出が考えられます。サンフランシスコ、ロス、ニューヨークを舞台にしていたのでは先輩作家達の二番煎じになる恐れがあるからです。ハメットはサンフランシスコを、チャンドラーはロスを、ウールリッチはニューヨークを熟知していたから、あれだけ書けたといえるでしょう。同じ街を舞台にして、彼等が書かなかった部分を、彼等とは別の視点から描くのは作家としての、相当な腕力が必要です。例えばマックス・アラン・コリンズが、すでにエルロイが書いているブラック・ダリア事件を書いたのは、あの街とあの時代をよく知っていたことに加えて、資料収集で得た自信があったからでしょう。両方共、文春文庫に入っています。読み比べるのも面白いでしょう。 「ブラック・ダリア」ジェイムズ・エルロイ(吉野美恵子訳) その他の理由としては、地方都市も昔に比べて発展し大都市に近づたということも挙げられるのではないでしょうか。街がロスやニューヨークに近づけば、犯罪も似てくるのです。ですから、同じような殺人事件を描いても違和感がなくなったわけです。西部開拓時代と同じように、街にはメイン通りが一本しかないようでは、犯罪事件も複雑にはなりえないからです。工場が出来て人口が増えてくると様々な問題が発生します。古くからの住民と新しい住民との対立、移民達がそれぞれの民族、それぞれの国の習慣を持ち込みますので、そこからも対立が生じます。さらに宗教の違いが加わるからです。ニューヨークで起こったと同じトラブルが地方都市にも広がっていったのです。 ですが、自分が知らぬ街を舞台にしては小説は書けません。知らないのに知ったかぶりして書くととんでもないことになります。私の専門というか、得意分野は山なので、その方面での一つの例を挙げますと、関東の地でしか生活したことのない、ある有名な作家が大和平野を舞台にしたことがあり、主人公を二上山に登らせて、頂上から大和平野を見下ろして、あれが大和三山だなどと述懐させる場面を書いたのですが、それが大津皇子の墓がある雄岳の頂上だったので、その作家がそこに登っていないし、ちゃんと調べていないことが暴露されてしまったことがありました。雄岳の頂上は少なくても30年前から、京都の吉田山の頂上と同じで周囲は背の高い樹木で覆われているので、眺望はよくないのです。下界は何も見えないといっていい位です。昔は当然ながら、二上山の雄岳頂上から大和三山が見えたはずです。それがいつの頃からか木が大きくなって見えなくなったのでしょう。問題は、それがいつの時代からなのかということです。その辺りをちゃんと調べておかないとこういう失敗を犯すことになるのです。 このように知らない街を書くのは難しいから、作家は自分のよく知っている街を書くことになるのです。知っている街ならば、簡単な調査で済むし、失敗も最低限に抑えられるからです。リューインがインディアナポリスを舞台にしたのはこれまで誰もこの街を舞台にしてミステリを書いていなかったことと、自分がよく知っていて、安心して書ける街だったという二つの条件が重なったからだと私は思っています。 彼の作家になる前の経歴は「海外ミステリー事典」ではこうなっています。 『マサチューセッツ州スプリングフィールド生まれ。インディアナ この経歴で分かるように、彼は生まれてはいないけれど、少年の頃から住んでいたので、インディアナポリスという街をよく知っているはずです。生まれた街は先祖のしがらみなどが染み付いていて、かえって書きずらいものなのです。愛憎が混じるからです。その点、彼のようなケースの場合が一番書きやすいでしょう。 次のような文章が出てきます。サムスンが依頼された仕事を果たすために街を歩きまわっている場面です。 『(そこは)わたしの少年時代には、きれいな水が流れていて、そ これが自分の知らない街だとすると、この数行の文章のために、図書館に通い、人に話しを聞いて、この知識を仕入れる必要があるのです。遠い場所ならば取材費は数万かかるでしょう。ですが、自分が暮らしたことのある街なら別です。この文章は作者の実際の経験したことだと思います。従って、取材費も時間もかからないでしょう。 この作品の中には、こういう文章もあります。 『インディアナポリスは、ワシントン市を設計した人の助手が設計 こういう知識は住んでいる人ならば誰でも知っていることでしょうが、他の街に住む人は調べなければ分からないこのです。ミステリを読む人の中にはこういう細かいことを知ることが楽しいという人もいるので、決して疎かには出来ないのです。まして、嘘や間違ったことは絶対に書けません。それを読んだ人は事実なのだと信じてしまうからです。 自分がよく知っていて、安心して書ける街なので、プロットにだけ気を使っていればいいというところから出発したリューインは、このシリーズ第一作目ではロス・マクドナルドが好んで描いたテーマに挑みながら自分らしさを出そうとしています。 「わたしの生物学上のお父さんを探してほしいんです」 依頼人はそう言い出して、サムスンをびっくりさせます。父はB型で母はO型。なのに自分はA型だから、実の父親ではない筈だと彼女は主張し、本当の父を知りたいのだと説明します。そして、100ドル紙幣を置いて帰ります。 サムスンは他に仕事の注文はないので、早速、この仕事に取り掛かります。まず、知り合いの新聞社の編集長に電話で聞くと、クリスタル家はこの街での名家で、大金持ちだというのです。 ここから、サムスンはこの家族の過去を探ることになるわけです。物語はすべて過去にあり、現実の殺人事件はありません。サムスンは過去の殺人を追いかけて、迷宮入りしそうだった古い事件を解決に導きます。このような街の旧家の隠された過去を暴くという設定は、まさにロス・マクドナルドの世界です。でも、リュー・アーチャーと違う点は、サムスンは歩きまわって、人に会って話しを聞くよりも、記録を調べることに重点を置いている点でしょうか。図書館で過去の新聞を調べ、クリスタル家にある古い手紙や書類をエロイーズに持ってこさせて調べるのです。今ならコンピュータで調べることが出来ることも、この時代はまだ出来ません。これしか方法はないのです。とは言っても、現在でもコンピュータで調べられることは浅いことが多く、結局は図書館などでより詳しい資料を紐解く必要があります。事前調査、例えば参考文献のある場所とかなどに便利という程度ではないでしょうか。今日では発表されている資料が多すぎて、どれが真実で、どれが真実を隠すための嘘なのかを見抜くことが要求されています。 依頼人が16歳の少女ということもあり、色恋の話もありません。ひょっとしたら、こういう設定もマーロウやアーチャーが女性の依頼人と色恋沙汰を起こし、物語に華を添えるという設定に抵抗したのかも知れません。これは少女の両親の過去だけが語られる作品です。ですから、問題はA型の女ではなく、何故、この子はA型なのかということなのです。 リューイン編の最初ですので、この作品の中に出てくるサムスンの経歴や趣味・趣向を作者がどう設定しているかを見ておきましょう。まず、彼の経歴ですが、エロイーズの父親が自分の過去をあれこれ探られていることに気が付いて、逆にサムスンの過去を調べて、本人に話すという形でこう語られます。 『君は私立探偵で37才、この市の生まれだ。君は大学に入っ 『八時までに、私は夕食といつもの掃除をすませた。そのあ 従来のハードボイルドな私立探偵のイメージからは考えられない姿です。勿論、作者はマーロウやアーチャーを意識して、こういう設定にしているのです。ロス・マクドナルドの二番煎じだと言われるのが、余程いやだったのだなと思えて仕方がありません。 上の文章は、そのあとこう続きます。 『私はクロスワード・パズルをやっとやめて、わが娘に宛てて 夜寝る前に、パズルをやり、離婚した妻と暮らしている九才の娘に手紙を書く私立探偵。それがサムスンだと作者は言っているのです。この設定もハメット、チャンドラー、ロス・マクドナルドを意識してのことでしょう。彼等の作品の中で、子供が台詞のある登場人物として描かれているのを読んだ記憶がないからです。 『私はときどき、神経が過敏すぎて、この商売にむいていな 『私はピストルが嫌いだ。自分でもピストルは携行しない。』 このように、リューインはハメット、チャンドラー、ロス・マクドナルドとは違う探偵像を創り出そうとして、このシリーズを始めたというのが私の解釈です。 [参考資料] まとまったリューイン論はまだ日本では書かれていません。小論でさえ、最近ではお目にかかりませんが、昔はいくつかありましたので、それをご紹介します。いずれも「ミステリマガジン」です。 1.「インディアナポリスの格安探偵」 2.「普通の生活感覚に根ざした新鮮さ」 3.「リューインの軌道修正」 文庫版に池上冬樹氏が「ハードボイルド史に残る記念すべき傑作」と題して解説を書いておられますが、これは氏の上記の二つの文章を基にしているようです。 [深読みコーナー] 文庫版の解説の冒頭に池上氏はこう書いています。 『お待たせしました。現代ハードボイルドの雄、マイクル・Z・ 文庫版が出た時には、ポケミス版はまだ廃版になっていなかった筈です。そのことを頭において、この文章を読んで見ると、ポケミス版の皆藤氏の訳が悪かったので、改訳が出てよかったと読めないこともないのです。訳者変更の経緯の説明を省いたのなら、別な表現にすべきだったのでないかという思いがします。 同じ原作も訳者が違えば、どう違って来るかを見てみたいと思います。尚、本文で私が引用したのは、すべて皆藤氏の訳です。 次に引用するのは冒頭のエロイーズの登場の場面です。 (A) (B) 両方の最後の三行を読んで見てください。(B)の訳文では埃が多いのは単に街の汚染のためだと言っていますが、(A)の訳では、商売が繁盛していないので客が少ない。従って椅子に座る人も少ないから埃がついたままだと読めます。 原文は同じなのです。訳者によって、こんなに違ってきます。翻訳小説ではいかに訳者の存在が大きいかを感じ取って下さい。因みに、(A)がポケミス版の皆藤氏で、(B)が文庫版の石田氏の訳です。
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