『海外ミステリを読む』(30)
「ダシール・ハメットの生涯と作品」(3)
第3章「禁酒法」
今回は禁酒法について少し勉強したいと思います。固い話になるかも知れ
ませんが、これから先、アメリカの小説を読む時や映画を見るときに必ず
役に立つ知識ですので我慢して読んで下さい。
私はこの方面には素人ですので、先人の研究からの受売りであることをま
ず最初にお断りしておきます。英語で書かれた本は当然ですがたくさんあ
りますが、私の語学力では即訳は出来ません。発表できるのは数年先に
なります。そこで、図書館で日本語での研究書を探した所、このテーマの研
究者は少ないということが分りました。中でも学術論文ではなく、一般読者
を対象にした啓蒙書は岡本勝氏の「禁酒法ー酒のない社会の実験」(講談
社現代新書)だけしか見つかりませんでした。
(講談社現代新書はこれ以外にもアメリカ史についての本がいくつかありま
すので、興味のある方はお読みください)
というわけで、この章は岡本勝氏の研究論文を集めた「アメリカ禁酒運動の
軌跡」(ミネルヴァ書房)とこの新書版を中心に進めて行きますので岡本氏
の研究の解説といってもいいでしょう。
まず、最初に「禁酒法」という日本語がそもそも正しい訳ではないということ
を頭に入れておいて下さい。この法律は正確には「酒類製造・販売・運搬等
禁止法」と訳すべきで、日本語訳でもそれを使用べきだったのです。それを
単に「禁酒法」と短縮したから日本での様々な誤解を産んだのです。小説や
映画で禁酒法の時代なのにこんなことをして違法ではないのだろうかと思う
シーンに出合ったことがあると思いますが、その混乱や誤解はこの訳から
来ているのです。
よく読んで下さい。「酒類製造・販売・運搬等を禁止するという法律」なのです。
つまり、お酒を作ってはいけない。売ってはいけない。運んではいけない。こ
れだけなのです。肝心の「お酒を飲む」ことは法律としては禁じていないので
す。作ることを禁止すれば、飲むことも出来ない筈だという発想なのです。
ここにこの法律の矛盾があったのです。なぜ、こんな法律になったのか。そ
れを考えることはアメリカの建国からこの時代までの歴史が絡んで来ている
のです。
最初にの新大陸に来たピューリタン達は信仰の自由を求めて海を渡ってき
た人達でした。彼らがアメリカ建国の中心になった人々です。腐敗した教会
から離れ、聖書の正しい教えに戻るべきだと考える人々が作った国なので
す。
『植民地時代の酒は「神より賜れし良き飲物」という言葉からも容易に想像
されるように、誰からも愛される生活の必需品であった。それは今日のよう
に嗜好品としてではなく、当時非衛生的と考えられた飲料水に代る飲物と
しても使用された。(中略)
このように植民地時代の酒は、階層、職業、年齢を問わず広く使用された
のであるが、とりわけ牧師は飲酒と縁の深い職業と言えた。酒で訪問者を
もてなすという社会習慣は、コーヒーがまだ一般に出回っていなかった植民
地時代には特に強く、もし出された酒を断ると、それを勧めた人を侮辱した
行為とみなされることもあった。従って、酒に弱く人前で泥酔しやすい人物
は、聖職者としての適性に欠けていたとさえいえるのであった。(中略)
しかし、飲酒習慣が日常生活の中へ入り込んだ社会に、酒類が豊富に出
回るようになると、過度の飲酒が深刻な問題となることは不可避であった。』
(
「アメリカ禁酒運動の軌跡」より)
こういう状況の中から教会による節酒運動が始るわけです。「禁止」ではあ
りません。「節酒」であることに注目してください。悔改める気配がなければ
破門されますが、しかし教会ですから救われる余地があるわけです。
こうした教会による過度の飲酒を諌める行為がアメリカにおける禁酒運動
の起源として位置づけられているのです。しかし、適量の飲酒は
許される
が、酩酊して他人に迷惑をかけたり仕事が出来なくなるような過度の飲酒
は許されないという植民地時代の習慣が結果として、中途半端な法律を作
ってしまったということではないでしょうか。確かに「適度の飲酒」はむしろ
体にいいでしょうし、「過度の飲酒」は本人の為にも、共同社会の為にも「悔
改める」必要のあることでしょう。
しかし、それを法律で規制しようとすれば
様々な問題が起きてくるわ
けです。
初期の頃に「節酒」という場合はアルコール度の高い蒸留酒のことを
指し、
ワインやビールなどの醸造酒は含まれていませんでした。それが時代と共
に、つまり「節酒」では効果がないと判断された結果、すべてのアルコール
を含む「絶対禁酒」へと進んで行ったのです。1826年に初めてアメリカ禁
酒協会がボストンに設立されましたが、この時期にはまだ、「蒸留酒の禁
酒」を主張する組織でした。
『禁酒法が提唱されるようになった背景として、次のようなアメリカ社会の変
化に留意する必要がある。1840年代後半に始るアイルランドやドイツか
らの移民の増大は、アメリカ社会に緊張と文化的摩擦を招いた。主食であ
るジャガイモの大凶作や革命の失敗のため、祖国を離れてアメリカへ渡っ
て来た人達は、主に北部の都市に住みついた。移民たちは、アングロ・サ
クソン系に代る新たな労働者階級を形成し始めた。彼らの中には、安息日
を無視して、同じ民族的背景を持つ者が経営する居酒屋で、母国語を話し
ながら飲酒し、深夜町の通りを泥酔状態で騒ぎ回る者もいた。
そこで、禁
酒運動家たちは、プロテスタント的倫理観に合致すると自らが考える「素
面」という生活習慣を、その多くがカトリック教徒の移民に認めさせる必要
性を感じた。しかし、以前の同質的だった社会と異なる多元化した環境の
中で、「道徳的説諭」の有効性は疑われ、法律による強制が指示されるよ
うになった。それまで個人的な道徳
問題としてとらわれていた過度の飲酒
が、社会問題として扱われ、その解決策として酒類の製造・販売を禁止す
る法律、つまり「禁酒法」
が提唱されたのである。』
(「禁酒法ー酒のない社会の実験」より)
今でも国論を2分することもあるプロテスタントとカトリックの対立がこの禁
酒法問題ですでに存在していたのです。当時は自分達が国を作ったのだ
という意識がプロテスタントの人達に強く、後からやって来たカトリックの人
達が旧大陸の悪習をそのまま持ち込んで来たという反発があったようです。
最初の禁酒法は1851年にメイン州で成立しました。正式には「1851年
居酒屋・酒場禁圧法」という名前のこの法律は「いかなる者も、その雇人
や代理人を含め、医療と産業目的以外で、全部もしくは一部がアルコール
性飲料を、直接的または間接的に製造及び販売してはならない」というも
のです。しかし、この法律は州法であった為、他の州や国外で製造された
ものの搬入については全く規制していませんでした。ワインはいいのだし、
隣りの州から来たものだといえば売れるわけですから効果の程は想像出
来るというものです。それでも、メイン州に続いて、10の州と2つの準州で
禁酒法が成立しました。
南北戦争の時代に下火になった禁酒運動も20世紀に入ると、女性が運
動に参加し、次第に州レベルから連邦レベルへと、盛り上がりを見せて
行きました。一つには酒場と政治の結びつきに反対する人々が増えて来
たためでもあったのです。例えば当時、シカゴでは市会議員の25%が、
ミルウオーキーやデトロイトでは三分の一、シンシナテイでは半分が酒場
の経営者を含めた酒類関連業界の人間でした。彼らがボスとして政治権
力を握り、禁酒に反対する人物を市長や知事に担ぎ上げるようになった
のです。その見返りとして、当選した人間は自分を推薦してくれた人達の
便宜を図るようになり、政治の腐敗が生まれるのです。
このようにして生まれた酒場と地方政治の腐敗した関係はそれまで禁酒
運動に反対もしくは無関心だった多くの人々を禁酒法賛成に追いやった
のです。その上、肝心の酒造メーカー側が一本にまとまることが出来な
かったのも敗北の原因の一つに挙げられています。ビールなどの軽いお
酒を作る醸造業者は禁止を強いお酒(蒸留酒)に限定し、自分達は法の
規制外に置こうという作戦を取ったからです。もし、業界が一致団結して
反対運動を展開していたら、1917年という時期に全国禁酒法として議
会に持出せるところまで進んでいたか疑問です。もし、提出時期が遅れ
ていたら議会の通過は困難だったと思います。
日本流に言えば地方税法だった禁酒法が国税、つまり全国禁酒法として
議会を通過したのは1917年です。これが議会を通過したのは第1次世
界大戦が起った為でもあったのです。当時のウィルソン大統領がドイツへ
の宣戦布告の教書を議会に送った時に、丁度、この法案が審議されて
いたのです。大統領は禁酒法支持議員の協力を得る為にこの法案の通
過に協力したからです。もし、この大戦がなければ禁酒法は議会を通過
したかどうか分らなかったのです。
『ドライ派(禁酒派)にとって幸だったのは、彼らのプロパガンダを一般国
民が好意的に受け入れる時代思潮が生じたことである。戦争がもたらす
禁欲的傾向、酒造業界を牛耳るドイツ系市民への反感、過度の飲酒と
精神障害との因果関係を論証する科学的・実証的研究の進展、そして
機械化が一層進む新産業国家における素面の必要性の主張などが、
1910年代の禁酒法運動支持の世論形成に大きな影響を与えたと考
えられる。』
(「禁酒法ー酒のない社会の実験」より)
とにかく、こうして全国禁酒法は合衆国憲法修正第18条として議会を通
過しました。その第1節はこうなっています。
『本修正条項が批准されて1年を経過した時点で、アメリカ合衆国及びそ
の管轄下に置かれたすべての地域において、アルコール飲料を目的と
して製造、販売、運搬をすること、また国内はもとより外国への搬出並び
に外国からの搬入は、ここにすべて禁止される。』
1919年1月16日にこの法律は成立しますが、条文にあるように一年間
の猶予期間があった為に発効は1920年1月17日でした。
問題はこの
一年の猶予期間でした。何故、こんなことになってしまっ
たかは日本の法
律の成立の過程と同じです。議会はあらゆる業界、個人の代表で成立っ
ていて、すべてが平等なわけです。それが民主主義なのです。
日本の排ガス規制一つをとって見ても、市民の健康を守ろうとする議員も
自動車メーカーを支持母体に持つ議員も同じ権利があるわけです。そこ
で対立したままでは何も生まれませんから、双方がすこしづ
つ譲歩し、
妥協するわけです。
禁酒法も最初に提出された時には「所有」という言葉も禁止条項に入って
いたのです。つまり、密造酒を買って所有していても違法行為として規制
するつもりだったのです。しかし、反禁酒派の金持議員からの猛反対で次
のような妥協の条項が盛り込まれました。
『しかし、家屋が自らの住居としてのみ私的に占有・使用されている場合、
その家屋の中で酒類を所有することは違法行為ではない。また、もしそ
のような酒類が、当該家屋に居住する所有者やその家族
、さらには当
該家屋において歓待される偽りなき来客のため、私的飲用にのみ使用
されるのであれば、その所有について当局に届出る必要はない。
(第33項)』
一年間の猶予期間とこの条項の為に禁酒法がザル法となったと言っても
過言ではないでしょう。この法律の通過後、まず、最初にアメリカ全土で
酒の買い溜めが始ったのです。しかし、それにはお金が必要ですので、
貧乏人はそんなにたくさんの買い溜めは出来ません。もともとこの条項は
金持達が自分達の為に作ったものだったのです。小説や
映画で1920年
以後も金持の家でのパーテイ場面には必ず酒が置いてありますが、その
酒は買い溜めの酒なのです。本当は密造酒を買って飲んでいても、買い
溜めてあったのだと言えば通ったそうです。密造酒のラベルも1910年代
の製造に偽造したのです。
こうして施行が始った禁酒法ですが、様々な問題が生じて来てうまく
機能
しませんでした。まず、法を執行する人間が足りないために違法行為を充
分に取り締ることが出来なかったことが点が第一です。執行官が他の部
局よ
り下位に位置し、協力が得られず思う通りの取締りが出来ないことが
多かったのです。禁酒法部隊は警察組織とは別だったので、協力がない
場合は警察が何もしなかったのです。
その上、待遇の面で優遇されることがなかった為に買収されるケースが多
く発生してしまいました。映画でお馴染みのエリオット・ネスを隊長とする捜
査チームが買収されない人を意味する「アンタッチャブル」と呼ばれて評判
を呼んだの
は逆に言えば買収される執行官がいかに多かったかということ
なのです。
『執行官の腐敗と共に、禁酒法が生み出した否定的な現象の代表的なも
のとして、密輸入酒や密造酒の増加がある。』
(「禁酒法ー酒のない社会の実験」より)
密輸入酒は周辺の国々から入り込んで来ましたが、特にカナダからは陸
路や海路を使って一番多く入り込んできました。アメリカが輸入を禁止し
ていたのに、カナダがアメリカへの酒の輸出を禁止しなかったからです。
禁酒法で一番潤ったのがカナダだと言われています。
一方、密造酒は国内各地で大量に作られ、主に「もぐり酒場」に納品された
のです。しかし、増え過ぎて過当競争になるほどだったようです。ですから、
儲かったのはもぐり酒場の店主達ではなく、製造者と製品を酒場に運ぶ中
間業者、つまりギャング達だけだったのです。
ギャング達は新移民と呼ばれる人達の子供達が多かったそうです。その
代表的なのがイタリアからの移民の子のアル・カポネです。彼の残した言
葉としてこんなのがあります。
『私は市民が望むものを供給することで、金を稼いだだけだ。もし、私が
法律を破っているというのなら、顧客である多くの善良なシカゴ市民も、
私と同様に有罪だ。』
まさに盗人の開き直りですが、この言葉は意識せずに、この法の矛盾を
突いているような気がします。法では酒の製造・販売・移動を禁じている
わけで、飲むことは禁じていないのですから違法行為はカポネだけで、
一般市民は法を犯しているわけではないのです。しかし、法の精神に背
いていることは間違いないわけです。客がいるからカポネのような人間が
出現するわけです。過度の飲酒を戒め、健全な社会を作ることが法の基
本精神だったはずです。カポネのような人間達が増え、一般市民の間に
法を無視する風潮が蔓延するようなら、法そのものがない方がいいとい
う論理になるわけです。ある酒造業者の言葉としてこういうものがありま
す。
『法律を遵守する者が、禁酒法の施行によって破産して行く一方で、それ
を犯す者が前例のないほどの儲けを得ている。正義のすべての法則は
逆転してしまった。わが政府のあらゆる伝統と理念は覆ってしまったの
である。』
禁酒法に賛成した人達が次第に反対するようになる経過について、こん
な文章があります。
『憲法修正第18条が成立した時、これが世論によって広く支持され、ア
ルコールによる悪影響を、人々が身にも心にも受ける心配のない社会
が実現される日が早く訪れるよう、私は心より希望した。しかし、結果と
して、そうはならなかった。それどころか、飲酒行為は一般の中に一層
広がっているようだ。(中略)
多くの犯罪者が呼び集められ、彼らに大量の資金が流れた。おいしい
酒を自由に飲むという個人の権利が踏みにじられたと腹立たしく感じた
善良な市民の多くは、公然と、そして後ろめたさを感じることなく、第18
条を無視するようになった。その当然の結果として、法律全般に対する
尊重の念も、殆ど失われてしまった。犯罪が、前例のないほど多発して
いる。これがアメリカ社会の実情であることを、私は気が進まないが、認
めざるをえない。』
これはロックフェラーの書簡として、1932年6月7日付のニューヨーク・
タイムズで公表されました。ロックフェラーは禁酒法の成立に最も熱心な
企業家だったのです。
この転向宣言とも取れるこの記事は流れを廃止の方向に傾けるのに力
があったといわれています。しかし、その前に、廃止への決定的な要因
がありました。それは1929年の大恐慌の発生です。恐慌の一番の被
害者はロックフェラーのような大企業の経営者だったわけですから、こ
の転向も表向きはこの書簡のような理由でも、本音は廃止した方が大
企業の利益につながる筈だという思惑があったに違いないのです。
『巨大な企業には、神聖な何かが存在している。経済的に正当なこと
は、道徳的にも正しいと言える。』
(ヘンリー・フォードの言葉)
不況になり、お金がなくなると、それまで黙っていた勢力が声を大きくし
て叫び出すのは今の日本と同じです。その一つが、国としては禁酒法
の施行の為には何億ドルとかかる上に、酒税が入ってこないので、二
重に損をしているという論理です。これよりも説得力があったのは雇用
対策への言及でした。廃止されれば酒を作る業界、売る業界に雇用が
大幅に伸びるし、犯罪は減り、明るい社会を取戻せるという論理です。
廃止派はこのような論理を掲げ、大衆に訴え、議会を動かして行ったの
です。
さらに、ここに大統領選挙が絡んだのです。当時の共和党フーヴァー大
統領は不況打開に効果的政策を打出せないまま、選挙戦に臨んだの
ですが、対する民主党はローズヴェルトを候補者にし、いち早く廃止を
訴えて選挙戦に入り、廃止賛成派を味方に取り入れたのです。
ローズヴェルトはこの選挙戦に勝ち、議会でも廃止派が占めた為、193
3年に禁酒法は廃止されました。
禁酒法とは何だったのかを指す言葉として、有名な「高貴な実験」という
言葉が残されていますが、この言葉は1928年にフーヴァーが共和党
の大統領候補者指名の受諾演説での「高貴な動機と遠大な目的を持っ
た社会的、経済的実験」から来ています。
top
back