『海外ミステリを読む』(29)
「ダシール・ハメットの生涯と作品」(2)
第2章「霧の街」
『サンフランシコはいかに見出されたのだろうか。』
海野弘氏はその著「カリフォルニア・オデッセイBーめまいの街」をこのよ
うな書出しで始めています。この本の中から幾つかの文章を拾ってみます。
『1769年になってスペインの探検隊がようやく陸路をたどってサンフラン
シコ湾を発見し、海からこの湾に入ったのは1775年、ファン・マヌエル・
デ・アヤラの船が初めてだった。なぜ、これほど発見が遅れたのだろう。
それまでもいく艘かの船が、西海岸沿いに良港を求めて航行していたの
だが、見つけられなかった。なぜなら、その入口があまりに狭く、しかも、
この地方特有の白く濃い霧がたちこめて、それを隠していたからである。
かなり大きな地図で見ても、太平洋岸から見れば、サンフランシコ湾への
入口、つまりゴールデン・ゲートは、ほんの小さな切れ目に過ぎない。そ
の奥に巨大な中海が広がっているとは殆ど想像出来ないのだ。』
『霧は海で発生する。春に強い北西風が海岸沖に吹き、海流の向きとの関
係で、海面の水をどんどん沖の方に運んでしまう。すると、アップウエリン
グ現象といって、海底の水が上がってくる。(中略)
海岸の表面の水が沖へ流れさることで、プランクトンを多く含んでいる海底
の冷たい水が上がってくるのは海の生物にはいいことらしい。しかし、冷た
い水は、海表で温かい空気に触れ、霧を発生させるのである。こうして海岸
でできた霧は、まるで白い川のようにサンフランシコ湾に流れ込んで行く。』
日本に来ている、中南米出身のサッカーや野球の選手がテレビに出て話し
ているのを聞いていると、スペイン語かポルトガル語のどちらかなのはかっ
て、中南米はスペインとポルトガルの支配下にあったからなのです。中でも、
スペインはインカ帝国を滅ぼしてから、北上し、メキシコに達したのです。さら
に西海岸を占領し、ロサンゼルスやサンフランシコはスペイン領土だったの
です。だからカリフォルニアにはロス・アンジェルス、ロス・ガトス(ロス・マクド
ナルドの生まれた場所)、フレズノ、サクラメント、サン・デイエゴなどのスペイ
ン語の地名がたくさん残っているのです。
一方、ロシア帝国はアラスカを支配下の置いたあと、島伝いに南下し、サン
フランシコには砦まで作っていました。しかし、アラスカの経営に失敗したロ
シアは撤退し、後に残ったスペインもアメリカとの戦争に敗れ、カリフォルニ
アを手放します。その結果、1848年にカリフォルニアはやっと、アメリカ領
土となったのです。
この1848年という年はサンフランシコという街にとっても運命的な年でした。
つまり、この年、この街の近郊で金が発見されたからです。いわゆる「ゴール
ド・ラッシュ」の始りです。
『1848年頃、カリフォルニアの人口はわずか1万5千人だった。それが4年
後の1852年には25万人に急増しているのは、いうまでもなく、ゴールド・
ラッシュによるものである。(中略)
それまでのサンフランシコは人口千人程度のただの漁港にすぎなかった。
多くの良港を持つ地理的条件から、それは捕鯨船の母港として重要な拠点
とはなっていたが、その他にこれといった魅力があったわけではない。もしも、
近くで近郊の発見という思いがけない大事件がなかったら、とても急激な発
展などあろう筈もないただの街であったわけだ。それが、ただの一事件をき
っかけとして、一朝にして大きな都市と化した。いってみればサンフランシコ
は、金の発見と共にふって湧いた街なのだった。そして、このことが、良きに
つけ、悪しきにつけこの街の性格を決定した。』
(「サンフランシコ」佐山和夫著より)
金を求めて数万の人々が命がけで大陸を横断してやってきました。それだ
けではありません。噂を聞いて、世界の各地からはるばる海を渡って
サン
フランシコにやって来た人の数も万を越えたそうです。
『所で、こんなにも急に多くの人々を受け入れてしまった街が、平穏でいら
れるはずのないことは十分予想のつくところ。肌の色の違いはもとより、言
葉も素性も、それに生活様式も、何から何まですべて異なった人々の寄り
集りなのだ。おまけに誰もが成功の甘い香りにおびき寄せられた一癖も二
癖もある男たちである。治安も何もあったものではなかった。あったのは、
夢と野心に浮かれた興奮ばかりだった。事実、1849年から56年までの
間に、少なくとも千人の男たちがサンフランシコだけでも殺されている。
(中略)
カリフォルニアの金ブームは1854年には急激にその熱気を失っていった。
それまで採れていた金も、そのころにはもうあまり期待出来なくなっていた
からである。それでも夢を捨てきれぬ男たちはコロラドへ、ネバダの山へと
移っていった。あとにはいくつかのゴースト・タウンが残っただけである。』
(同上書より)
『(ゴールド・ラッシュが終った後も)1880年ぐらいまでは、サンフランシコは
西海岸で独占的な繁栄を誇る都市であった。しかし、それ以後、シアトルや
ロサンゼルスが目覚しく発展してくる。サンフランシコの停滞は、あまりにも
急激な集中のために人口が過密になり、住宅、交通、公害などの問題が起
ったこと、強力な組合が作られ労働賃金が高かったこと、が原因と見られて
いる。
サンフランシコは金と銀のラッシュによって一挙にふくれ上がったオープン・
シテイであった。オープンには酒類販売、賭博、売春などが自由だ、社会が
流動的である、制約できない、野放しであるという意味がある。人々が全国
からやって来て、自由に利益を追求したので、公共的な都市計画が間に合
わなかった。(中略)
鉱山や鉄道によって荒っぽく稼いだボナンザ(ひと山当てた成金)・
キング
たちによってサンフランシコの市議会も牛耳られ、政財界は腐敗していた。』
(「カリフォルニア・オデッセイBーめまいの街」海野弘より)
1906年には大地震がサンフランシコを襲います。この街の海側には100
キロにわたるサンアンドレアス断層(世界最大の断層の一つ)
が海岸沿い
に走っているのです。1989年の「ロマプリータ地震」
もこの断層が動いた
結果でした。
1906年の地震は神戸の時と同じで明方に発生し、地震の後
の火事が被害がさらに増えたのです。私も神戸に長く住んでいて、親戚や
友人がいたので地震の後で見舞に訪れたのですが、断層から外れていれ
ば多少のぼろ家でも倒れないで残っているのだなと感じました。
死者667名、行方不明352名の犠牲者を出したこの地震から街は市民や
政府の努力で早い時期に復興し、1921年にハメットが住むようになった時
にはもう立直っていました。ですが、立派になったのは街の外観だけだった
ようです。「大地震ーサンフランシコの崩壊」と
いう本を読んでいたらこんな文
章がありました。この本はドキュメン
タリー風に地震前夜から復興までの当
時の様々な人間ー軍隊、警察幹
部、市長、悪徳弁護士、そして、たまたま公
演の為にきていたエンリ
コ・カルーソーなどの動きを追う形を取っています。
『サンフランシコでは生命の値段は安かった。ランダーロイン地区とバーバリ
ー・コースト地区では、ウィスキー一壜の値段で殺人が行われることもあっ
た。』
『売春もまた、サンフランシコを蝕んでいた。デイナン警察署長はこれには手
を下せなかった。それは市当局を牛耳っているユージン・シュミッツ市長と弁
護士のエイブ・ルーフのためだった。』
『女と酒に不自由しない都市というイメージを売り物にするサンフランシコでは
売春の取締りの強化は死活問題につながりかねかった。ワイロのやりとりは
当り前、性的快楽はいつでも味わえたのである。阿片窟は良質の品を法外
な値段で提供するところが多かったが、ここも繁盛していた。この都市を支え
てきたのは女と麻薬だった。陶酔を味わえる街、変った経験がなんとなく期待
できそうな街。そんなイメージが出来上がっていた。サンフランシコは、清教徒
的なニューイングランドとは別世界だった。売春を大目に見る傾向は昔からず
っと続いてきたのである。』
この本はこのあと、地震が発生してからの被害の様子、市民それぞれの反
応、市長を始めとする幹部達の動き、そして、復興への動きを追っています。
そして、市が完全ではないにしてもほぼもと通りになったと告げています。
ですが、市政の腐敗、市の暗黒部がどうなったかについては口を塞いでい
ます。つまり、語らないことでそっちは変っていないと語っているのです。
ハメットはこれらのことをすべて知っていて、この街に住む事にしたに違いあ
りません。ハメットは自分の体がこれ以上の過激な肉体労働には長く耐えら
れないだろうと考え、体を使う仕事ではなく、頭を使う仕事をしたいと考えてい
たと思うのです。そして、その頭を使う仕事のなかには文筆労働が入ってい
た筈です。はっきり言えば作家になってやろうと決めていたと思います。
子供の頃から本を読むのが好きだった少年は親のせいで学校を断念せざ
るをえなく、15才から大人に混じって働いてきました。色々な職業につき、
中でも探偵という職業を長く続けました。小説を書くとしたらまず、自分がよ
く知っている世界を舞台にするのが当然です。9割以上の作家がそうしてき
ました。ハメットもその一人だったのです。
彼がよく知っている世界は時間を持余している上流階級の生活でもなく、日
々の食事代を気にせずに文学とは何かを論じられる世界でもありませんで
した。自分が生きるためには他人を殺すことさえ厭わない連中が住むような
世界こそがハメットが一番よく知っている世界だったのです。彼はそれを文
章にしてお金を稼ごうと決めてサンフランシコに途中下車したのだと思いま
す。一方でボルチモアに戻って、ゆっくり体を回復させてから再出発だという
案もあった筈です。もし、ハメットが一人だったら、そうしていたかも知れませ
ん。しかし、その時、自分の体以外にもハメットを束縛する事態が発生してい
たのです。入院していた時に知合った看護婦ジョゼフィン・アンナ・ドーラン(
彼女は従軍看護婦として少尉の肩書があったそうです)が妊娠したと彼に告
げたのです。彼は男としての責任から彼女との結婚を決意していたのだと思
います。そのことも彼の選択に影響があったに違いありません。親の財産の
ない男が妻子を抱えて生きて行くには職が必要です。職を捜すにも、ボルチ
モアのような古都よりもサンフランシコのような都会の方が機会も多いだろう
と思ったのでしょう。そして、何よりも、この頃のハメットはボルチモアより、サ
ンフランシコのような街の方がよく知った街になってしまっていたのです。ボ
ルチモアに帰っての清教徒的生活よりも、女と酒に不自由しない街の方が
性に合っていたとも言えるでしょう。
二人の出会いはワシントン州タコマにある病院でした。タコマは今イチローや
佐々木がいるシアトルのすぐ近くにある街です。彼女はその時のことを数十
年後にインタヴューでこう語っています。
「すべての患者たちの中でもサミュエルは目立っていました。とても知的で
印象的な人、そう思いました。身のまわりもいつもきちんとしていました。
それにとても優しかったのです。」
リリアンの回想記と同じで、女が自分が好きになった男のことを振返って語る
時には女のプライドの部分は割引く必要があります。下らぬ男を好きになった
と語るのは自分に男を見る目がなかったと白状することになるからです。
一方、ハメットの方は未発表の作品の中で、この時のことをこう語っていると、
ノーランは書き記しています。
『たちまちのうちに笑顔に変る、そばかすを浮べた丸い顔、小さな体に元気一
杯の娘・・・彼女は本当に楽しい相手だった。消燈時間になると、よく二人して
病院を抜出し、ちょっと足をのばして四本の木で囲まれている平らな場所ま
で歩いていった。遅くまで、そこにいて、木々の間から空を仰ぎながら愛し合
った。』
その後すぐ、ハメットはサンデイエゴに移され、ジョウス(ジョゼフィンの愛称)
は故郷モンタナ州へレナにある病院に転属(陸軍関係の病院だから、この言
葉を使うのでしょう)になり、二人は別れたわけです。ノーランの「ハメット伝」
には妊娠が分ったのは二人が別れ別れになったあとだと書いてありますが、
妊娠が分るまで事後三ヶ月以上はかかりませんから、その間に二人の転院
と転属が続いたことになります。何か問題があったのかも知れません。
ハメットは1920年11月にタコマに来て、翌1921年2月に転院になってい
ますから、その間に、ジョウスと知合い、妊娠という結果に終る行為があった
ことになります。そうすると、ハメットが書残している上の文章の中の野外セッ
クスは12月か1月の真冬ということになります。いくらカリフォルニアとはい
え、稚内より高い緯度の場所での真冬の野外セックスを結核患者と看護婦
が行うでしょうか。「消燈後、遅くまで」と書いていますから真夜中の筈です。
これはちょっと疑問だと私は思います。
ハメットの原稿が残っているのは本当でしょうから書いたことは間違いない
でしょう。この場面がサンデイエゴに移ってからの出来事ーつまり、別の看
護婦との出来事ならありえないことではないでしょう。サンデイエゴの春なら
真夜中の野外セックスはありうるでしょう。作家の伝記を書く場合、まず年
譜を作り、次に発表された作品を整理します。そのあとに未発表の原稿を
集め整理します。ノーランはハメットの未発表の原稿の中から、この部分が
フィクション化しているが、ジョウスのイメージを伝えるにはいいエピソードだ
と判断して、ここに挟み込んだのだと思いますが、そのことをもっとはっきり
説明しないと、読む人はこれが実際にあったことだと思ってしまうでしょう。
一度、活字になると、今度はそのことが一人歩きしてしまうのです。これは
伝記作者としては気を付けるべきことだと思います。読む方もそれ位神経
を使って読まないと、騙されることにもなりかねません。いずれにしろ、ここ
に描かれているようなことはジョウスとの間で実際に起ったことではないの
ではないかというのが私の結論です。
ハメットがタコマからサンデイエゴに移された理由もノーランはハメットの病
気にはその方がいいだろうという医師の判断だったと書いていますが、私
は素行不良でタコマから追出された可能性もあるのではないかという思い
もあります。ジョウスが同時期に転属された理由もハメット絡みだったのか
も知れません。そのことで、二つの伝記は微妙な食違いを見せています
『ジョウスもまた、彼女の故郷モンタナ州の「シャイアン病院」に転属されて
いた。だが、ハメットの子供を身ごもっていることに気付くと、彼女は病院を
辞めてアナコンダに戻った。』
(ノーラン「ハメット伝」より)
『妊娠していることに気付いたとき、ジョウスはすっかりおじけづいてしまっ
た。ちょうどその頃、ハメットは南カリフォルニアの別の病院に移されてい
た。ジョウスは具合がわるく、吐気におそわれた。心配のあまり病気にな
ったのかも知れない。彼女はモンタナ州へレナに送られ、公衆衛生局の
仕事は首になった。彼女はカリフォルニアにいるハメットに手紙を書いた。』
(ジョンスン「ハメットの生涯」より)
ノーランの本では妊娠に気付いたのはへレナに行ってからだと書いてあり
ますが、ジョンスンの本では妊娠が分ったのでへレナに転属になり解雇さ
れたと解釈できます。真実は一つの筈です。
ジョンスンの文章が出たので、ついでに付加えておきますと、これを読んだ
だけでも彼女にはハメットの作品が分らなかったのではないかという小鷹さ
んの指摘も分るような気がします。「ジョウスは具合がわるく、吐気におそわ
れた。心配のあまり病気になったのかも知れない」の部分はロマンス小説
ではないのですから、わざわざ書き入れる必
要は全くない文章です。少な
くともハメットの伝記には不似合で
す。ハメットはこのような下らぬ文章を削
ることから始めたと言っても過言ではないのです。訳者の小鷹さんが苦笑し
ながら、この文章を訳しただろうと思うとおかしくて仕方ありません。
もし彼女が妊娠しなかったらハメットは彼女と結婚しなかったと思います。男
としての責任から結婚を決意したハメットは迷ったあげくにボルチモアに帰る
のを止めて、サンフランシコを選んだのだと思います。サンフランシコなら何と
かなりそうだ。そう思ったのでしょう。
(第2章了)