『海外ミステリを読む』(28)
「ダシール・ハメットの生涯と作品」(1)
(第1章)「途中下車した男」
「1889年の夏、彼は私達の住む谷に馬に乗ってやって来た。」という書
出しで始る小説をご存知ですか?
この小説のラストはこうです。
『彼は、広がりつつある偉大な西部の中心からはずれた私達の小さな
谷間に馬でやって来て、成すべき仕事をなし遂げた後、やって来た場
所へと戻って行っただけなのだ。そして、彼はシェーンという名だった。』
この小説を書いたジャック・シェーファーは新聞社に勤めながら、図書
館で西部について勉強して、この作品を書いたそうです。彼自身は実
際にはそれまでクリーブランドより西へは行ったことがなかったとボブ・
グリーンは「晩秋のシカゴ」というコラム集の中で書いています。
これを映画にしたのが、あの「シェ―ン」です。アラン・ラッドの代表作で
あり、往年の名女優ジーン・アーサーが最後の花を咲かせた西部劇と
いう見方の他に、アメリカの西部開拓のラスト・シーンでもあるという見方
も出来ます。
それまで国有地での放牧は自由に出来たのに、新しい移民達が農業
を営むのを育成しようという国策がその自由を制限し、農民達に土地
を与え、その土地を守る権利も保証したのです。あの映画では牧畜業
者達が悪者のように描かれていますが、原住民であるインディアンを
追払い、白人が安心して暮せるような土地にしたのは彼らなのです。
それをあとから移住して来た農民達は国家の保護の元に、今度は牧
畜業者たちを追払おうというのですから、自分勝手だという彼ら、牧畜
業者たちの主張にも一理はあるのです。あの映画はそういう時期の農
民と牧畜業者達の対立をテーマに据えているのです。
シェーンもかっては牛の世話をすることを職業にしていた筈です。それ
には拳銃も必需品だったに違いありません。中でも拳銃を扱うのが上
手な男はいつしかそれを専門にするようになったのでしょう。
南北戦争で家や家族を失ってガンマンになった男達もたくさんいた筈
です。あの映画はカウボウイを辞めて、ガンマンとして生きていた男が、
たまたま農民の家に一夜泊めて貰ったお礼に、土地から追出そうとし
ている牧畜業者からその農民一家を守ってやるという物語です。
わざと牛を畑に入れて成長しつつある農作物を踏みつけさせる場面
がありましたが、あそこも有刺鉄線があれば防げたのですが、まだ、
辺境まで普及していなかった時代のようです。
あるアメリカ史にはこんな文章があります。
『大平原に進出しようとする農民の前には様々な障害があった。その
一つは牧畜業者で、インディアンが駆逐されたのちの強力な存在とし
て、牧畜業者たちが土地や水の使用権を主張して農民の前に立ちは
だかった。彼らの牛によって作物を踏み荒されるのを防ぐために必要
なのは安価で
、強力な柵以外になかったが、木材のない大平原にお
いてその必要を満たしたのが、1876年から大量に生産されるように
なった有刺鉄線である。これによって牧畜業者と農民との争いは前者
の完敗に終った。』
(「アメリカ史」より)
カーク・ダグラスが華麗なガン捌きを見せた「星のない男」はその有刺
鉄線に纏わる西部劇でした。この有刺鉄線を発明したのはイリノイの
グリドンという農民で、これが西部中に普及したおかげで特許を取って
いた彼は大金持になったそうです。
牧畜業者に雇われたガンマン(ジャック・バランスもあの役が代表作で
した)もシェーンと同じ経路でガンマンになったのです。映画の中では
ジャック・バランスは北軍出身で、彼に殺される農民の一人は南軍出
身という設定で、「南軍の臆病者」と言われた農民が怒って拳銃に手
をかけ、ジャック・バランスの殺し屋に殺される場面がありましたので、
時代は1865年の南北戦争後で、有刺鉄線が大量に西部の各地に
出回る前ということがわかります。
歴史の中の「もしも」を考えるのは遊びとして面白く、人気もあり、テレ
ビや本でもよく取上げられます。「もしも、関が原の合戦で西軍が勝っ
ていたら」「信長が本能寺で殺されていなかったら」というような仮定を
して、ああでもない、こうでもないと考える遊びです。
この「もしも」をアメリカに当て嵌めて、「もしも北アメリカ大陸への植民
(侵略という言葉を使う人もいるようですが)が西海岸から始められて
いたらどうなっていただろうか」と考えて見た場合、世界の歴史は別の
ものになっていた筈です。植民が西海岸から始っていたら、フロンテイ
アは東部になり、西部劇ではなく、東部劇と呼ぶことになっていたかも
知れません。
しかしながら、現実には北アメリカ大陸への植民は東海岸からイギリ
ス・オランダ・フランスにより始められました。開拓という名の下に原住
民(インディアンと呼ばれた人々)の土地を奪い、抵抗する人間を抹殺
しながら、西へ西へと進んで行ったのです。移民が開始された当時は
100万人はいたと推定されるインディアンは最後の抵抗者、アリゾナ
のアパッチ族のジェロニモ酋長が逮捕された1886年には20万を割
っていたそうです。
そして、西海岸に達した後も、馬を捨て、船に乗換えて、さらに西へと
進んだのです。そして、ハワイを侵略し、次に日本へ辿り着くと、徳川
幕府を脅して開国を迫ったのです。さらに、船を飛行機に換え、日本に
原子爆弾を投下し、ヴェトナムへ兵を送ったわけです。ハワイ人も日本
人もヴェトナム人もインディアンと同じ非白色人種であることが無関係
とは思えません。同じ敵国だったのにドイツとイタリアには原子爆弾を
使わずに日本にだけ使用したのも我々が有色人種だったからに違い
ありません。このようにすべてが西部開拓の延長と考えることが出来
ないこともないのです。自分達はフロンテイア・スピリッツだ、世界の民
主主義化だと息巻いていても当事国にとっては迷惑な部分も多いの
ではないでしょうか。
「アメリカ鉄道3万マイル」という旅行記を読んでいたら、こんな文章に
出会いました。著者はニューハンプシャー州キーン市の市会議員で、
市長選挙に立候補したが落選し、暇が出来たのでアメリカ中の鉄道
に乗りまくったという男です。
サンフランシスコに辿り着いた時の印象として、浮浪者が多いという話
に続いて、こう書いています。
『一般的な解釈では、西海岸の諸都市には浮浪者が多いのは温暖な
気候のせいだといわれている。しかし、思うにその多くは、この国全体
を支配する西へ向おうとする波に乗ってきたあげく、ここまで打ち寄せ
られたのではないだろうか。人間の流木のようなもので、彼らはここが
大陸の端の岸辺なので集っているのだ。ただ、彼らの場合は、流れて
きたのが大陸であり、この先の漂泊をせきとめるのが海である。常に
陽の沈む方角、つまり西に向って進むのがアメリカ人の本能だ。
(中略)
絵葉書のようなパノラマをも圧倒して、これが私がサンフランシスコで
得た背筋の引き締るような印象だ。私自身もこの漂泊者の衝動にさい
なまれているのがわかる。これが私達アメリカ人の血に染みついた衝
動だ。
』
外交官なら決して口にしないだろう、一般的なアメリカ人の率直な意見
でしょう。そして、彼は自らのサンフランシスコ論をこう結んでいます。
『しっかりと確立した独自の共同体感覚ー歴史的な建物の保存や大量
輸送のネットワークーによって栄えるところ。しかし、大陸の最後の岸
辺にあり、路線の端に位置するこの地は、すべての希望を失った根無
し草がひしめくところ。サンフランシスコは、アメリカの旅人をみずから
の解き難い矛盾で苛む。』
私はこれを読んで、我々日本人の日の出に対する信仰を思い浮べま
した。我々は「ご来光」と言って、太陽が昇るのを見るのが好きです。
これは我々日本人の祖先が西の方から、この島にやって来て、ここが
行き止りだと覚り、さらに遠い、東の方向への憧れの気持が何千年と
続いている。その名残りのような気がします。アメリカ人の文章を読ん
でいて、「ご来光」に触れた文をあまり読んだ記憶がありません。
日本人は追いつめられると、西を向くことはありますが(その最大の行
動が大東亜戦争)、何もないのに西への衝動を感じる人は少ないと思
うのです。東への憧憬を抱く民族と西への衝動を覚える民族。ここに
日本人とアメリカ人の決定的な違いがあるのではないでしょうか。
話が文化人類学の分野にまで進んでしまいましたので、「シェーン」の
話に戻ります。あの映画のポスターを始めとして、多くのシーンで山並
が写っていましたし、あの映画の主題歌の日本語名は「遥かなる山の
呼び声」でした。歌っていたのは雪村いずみ。彼女の最大のヒット曲だ
った筈です。問題はあの山なのです。あの山の向こうがアイダホであり、
その隣りがオレゴンだということです。幌馬車隊のメイン・ルート(オレゴ
ン・トレール)があそこだったのです。あの映画はワイオミングに到達し、
根を下した農民達が主人公でしたが、あとからの農民達の幌馬車隊は
さらに、あの山を越えてオレゴンにまで行ったのです。
映画のラストで殺し屋を退治したシェーンはまた旅にでます。少年が帰
って来てと叫んでも帰っては来ません。あのあと、シェーンはどっちへ
行ったのでしょうか。小説ではまたもとの所へ戻ったとなっていますが、
そう甘くはなかっただろうと思います。シェーンというガンマンはまた、一
人殺したという噂は当然、西部から東部に広がります。東部では農民
保護が国策ですから、ガンマンを歓迎する筈はありません。となると、
南のコロラドかユタの砂漠地帯に向うか、山を越えて、さらに西へ向う
しかないのです。もう若いとは言えないシェーンはオレゴンへの道を辿
ったような気がします。
西へ向ったガンマン達の辿りついた終点が西海岸です。海は馬では渡
れません。彼らは馬を捨て、どん詰まりの町で定住するしかなかったわ
けです。誤解を恐れずに図式化すれば、シェーンがフィリップ・マーロー
の先祖と言っても過言ではないのです。
この辺のことを小鷹信光氏は「アメリカン・ヒーロー伝説」の中で、西部
劇において法と無法、悪玉と善良な市民の中間に独り立つ流れ者ヒー
ローが、ハードボイルド私立探偵の原型となったと定義し、こう続けて
います。
『ハードボイルド小説の私立探偵ヒーローは「中間に独り立つ男」とし
て都会のジャングルに蘇った。六連発のコルトは自動拳銃に、カウボ
ーイ服はトレンチ・コートに、馬は車に変じたが、己れに課したきびし
い掟と名誉を重んずる心は不変であり、西部の男と同じように寡黙
で禁欲的な騎士であった。だが、定住を嫌い、町に背を向けて放浪
の旅に向うべき自由な大地は、すでになかった。西へ西へとさすらい
ながら行きついたウェスト・コーストが、自由な男の行き止りの街だっ
た。そこで、フロンティアは閉ざされていた。』
では次に、フロンティアのなくなった直後の街がどのような状態だった
かを見て行きます。まず、アメリカにフロンティアがなくなったのは18
69年の大陸横断鉄道の開通からであることは明かです。もう幌馬車
隊を編成し、何ヶ月もかけて東海岸から西海岸へ行く苦労はなくなっ
たのです。その頃の移住者はもはや農業が希望だったわけではない
ので荷物も少なかった筈です。手に持てるだけのものを持ってやって
来た人達が大半だったのです。ですから、移住してきたばかりで言葉
も道も知らなくても、西へと運んでくれる列車に乗ったのだと思います。
『南北戦争前の移民の大部分はイギリス・ドイツ・北欧などからで、比
較的教育と技術に恵まれており、しかもその大部分が農民となった。』
(以下の引用もすべて前出「アメリカ史」より)
映画「シェーン」に登場する農民達がここに書かれているような人達で
しょう。
そして、そのあとに「新移民」と呼ばれる人達が旧大陸からや
って来ま
す。
『1890年代にはイタリア人移民が最大となり、ついでロシア・オースト
リア・ハンガリーとなっている。これらの東欧・南欧の諸国は、当時後
進的専制国家で貧富の差が激しく、そのため人々は拡大する新大陸
の労働市場に続々流れ込んできたのだった。このいわゆる「新移民」
は、貧困で教育のない者が多く、農民として定着する資本も経験もな
く、主として東部の大都市や鉱山に集中して不熟練労働者となった。』
この結果、都会での貧富の差が増大し、高級住宅街とスラム街が出現
することになり、さらには「無知な移民と政治ボスは結びつき、政治ボス
は実業家と結び、都市行政の腐敗は目にあまった。」ということになるの
です。
新移民達は資本家と対立する工場労働者に代って、低賃金・重労働の
下でスト破りとして利用されることも多かったのです。都会ではこうした
劣悪な
環境の中で、同じ国の出身者同士が集り、お互いの利益を守
るようにな
って行ったのです。マフィアもその産物と言っていいでしょう。
サミュエル・ダシール・ハメットが生まれたのはこうした状況下で20世紀
を迎えようとしている1894年のアメリカだったのです。
『ハメットは1924年「ブラック・マスク」誌上に、自分の出生について簡
単な自伝風の手記を記している。
「私は1894年5月27日、メリーランド州セント・メリー郡のポトマック
川とパタクセント川にはさまれたあたりに生まれた。わが家の家系に
はスコットランド人とフランス人の血が流れていた。母方の姓は元来
は“ドゥ・シール”といい、アクセントはフランス風に第二音節にあった」』
(ノーランの「ダシール・ハメット伝」より)
東海岸に面したメリーランド州は1788年に州になった地方ですから、
アメリカで最も古い州といえます。つまり、ハメットの先祖は初期の移
民の一人だったと言えるでしょう。
ポトマック川と言えば、日本が送った桜で有名です。その上流ですから
つまり、首都ワシントンに近い場所で彼は生まれたということになります。
ハメット一家はその後フィラデルフィアに移り、1901年にはボルティモ
アに引越しています。
ハメットの少年時代の友人は「彼は本の虫でした。図
書館から本を借り
てきて、私に読書の楽しさを教えてくれました」と語
ったそうです。しかし、
1908年に父親が病気で働けなくなった時にサミュエルは14才でしたが、
学校を辞めて働かざるを得ない境遇にな
ったのです。彼が受けた正規
の学校教育はここで終っています。以後は人生そのものと図書館にある
本が彼の教師だったのです。
ボルティモア・オハイオ鉄道のメッセンジャーから貨物係、港湾労働者
などの職業を経験したあと、18才の時に新聞広告でピンカートン探偵
社のボルティモア支局に入社したのです。
これが彼の一生を決めたと言っても過言ではないでしょう。子供は親を
選べません。体質もそうです。ですが、就職先は自分で選べるのです。
その時は小さな選択だったかも
知れません。しかし、もしこの時に就職
したのが、別の会社だったら彼は今我々が知っているダシール・ハメット
とは別の男になっていたことでしょう。
やがて第一次世界大戦が始り、ハメットは志願兵として入隊します。本
人は海外へ行き、戦闘に参加するつもりだったようですが、メリーランド
州のキャンプ・ミード救護自動車小隊に輸送車の運転手として配属され
てしまいました。ここでハメットは風邪をこじらせて、結核にかかってしま
うのです。母親も肺結核であり、体質も受継いだのでしょう。
結核がこ
の後の彼の人生を左右することになります。良くなれば働き、悪化すれ
ば入院を繰り返していました。
除隊後、体力が回復したので、
ピンカートン探偵社のスポケン支社に勤
務することになります。ここは西部諸州が管轄だったようで、ハメットは西
部の各地を飛び回ることになり、後の西部が舞台の小説はここでの経験
から産出されたものでしょ
う。
しかし、無理をし過ぎたようで、1920年(26才)に再び入院するのです。
そして、1921年には医師の判断でカリフォルニアの温暖な気候が病気
にはいいだろうということになり、ハメットはサンディエゴにある陸軍病院
に送られたのです。この時、彼は大陸横断鉄道で西へ向
っています。
それが二月でした。六月には完治していないのに、医師に嘘をついて退
院許可を貰い、シアトルに行きます。
「ひと月、そこで過し、二度病院に通った。私の体重は再び下降ぎみで、
シアトルはまったく活気のない街だった。」
(ノーランの「ハメット伝」より)
同じ西海岸でもシアトルは肌に合わなかったようです。嫌気がさしたハ
メットはボルティモアに帰ろうと、列車にのります。
「ふいにサンフランシスコに強烈な憧れを感じた。そうだ。ちょっと途中
下車をしてみよう」
(前出書より)
こうしてハメットはサンフランシスコに入ったのです。時にハメット27才。
これが彼の人生を変えた街への第1歩でした。東海岸に生まれたこの男
は運命に引きずられるように西海岸にやってきました。夢や希望に溢れ
ていたわけではありません。貧乏な上に、結核に犯された体を抱えて、
歯を食いしばって立っていたのではないでしょうか。14才の時から、働
くことを強いられていた彼にとって西海岸に辿りついた時には、もう世の
中とはどういうものを知り尽くしていた筈です。ゴールドラッシュの時に一
攫千金を夢見てカリフォルニアにやって来た男のようではなく、追われて
西部から逃れて来たガンマンが海を前にして、行き場を失い、馬と拳銃
を売ったお金で背広を買い、さてこれから何をして生きて行けばいいの
だろうかと悩んでいる。そんな男の心境だったのではないでしょう
か。
サンフランシスコには何かあるのではないだろうか。自分に合ったこと
を見つけることが出来るのではないだろうか。そんな思いが彼を途中
下車させたに違いない。私にはそんな気がするのです。
もし、ノーランの伝記が真実ならこの解釈でいいのでしょうが、一つの
疑問があるのです。シアトルから東海岸まで大陸を横断するのにハメ
ットは何故、北回りで行かずにわざわざ南下し、サンフランシスコから
の列車に乗ろうとしたのだろうかということです。私はアメリカの鉄道事
情に詳しくないので、どなたかに教えて頂きたいのですが、1921年頃
はシアトルからシカゴに行くのに、北回り(スポーケン、セントポール経
由)では行けずに、一旦、サンフランシスコにまで南下する必要があっ
たのでしょうか。
もし、北回りでも行けたとすれば(列車の条件が悪い
路線だったとして
も)ハメットには選択の余地があり、最初からサンフ
ランシスコを目指
したことになります。それでは途中下車ではないとい
うことになるので
はないでしょうか。
しかし、何故、サンフランシスコだったのでしょうか。ニューヨークで
も
ボストンでもなく、サンフランシスコを選んだ理由は何だったのでしょう
か。私はこの選択はハメットの人生を解き明かす重要な鍵だと思って
います。最初の鍵は新聞広告でピンカートン探偵社に入社したことで、
次がサンフランシスコに来たことです。
ダイアン・ジョンスンは「ダシール・ハメットの生涯」の中でこう書いてい
ます。
『当時のサンフランシスコは、犯罪者やヤクザに牛耳られる無法の街
だった。ありとあらゆる悪徳がはびこり、どんなものでもカネさえ払え
ば手に入った。ハメットはそれが気に入っていた。バーや波戸場や殴
り合いや競馬が好きだった。そして、美しい女たちも。」
この文章では何も分りません。「なぜハメットがサンフランシスコを選
んだのかについては私は知らないし、興味もない」と言っているに過
ぎないのです。
一方、ノーランはこの件に関しては娘のメアリーの言葉を引用してい
ます。
『サンフランシスコにいると、パパがくつろいでいるのがわかった。パ
パはこの街に属していた。住むことはできてもそこの一員にはなれな
い土地がある。でけど、サンフランシスコは、パパの街だった。』
娘には父親の真情は決して分らないのです。ハメットに限らず、すべ
ての娘に共通して言えることです。所が、それが出来ると信じるのが
女です。ノーランはそれが分っていて、ここに引用しているのです。つ
まり、彼にも分らないのです。
私はどうしても気になるのです。ハメットは何故サンフランシスコを選
んだのだろうかと。