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 『海外ミステリを読む』(48)

「スティーヴン・グリーンリーフ」(8)

   

「血の痕跡」
    ー
私立探偵ジョン・タナー・シリーズ第8作ー
  
 
             (原作1992年・黒原敏行訳)
               (ハヤカワ・ポケット・ミステリ1611・1994年)
         (ハヤカワ・ミステリ文庫・1999年)

    この作品の舞台は80年代のアメリカ。陽気なレーガン大統領が就任した
    のは1981年で、それ以後アメリカは好景気に沸き立っていました。な
    のにこの作品は暗いのです。ですから、時代のせいではなく中年男のタナ
    ー自身が暗いからなのです。それがこの作品を理解するキーといえるでし
    ょう。

    タナーの暗さは前作を引き継いでいます。

        前作「匿名原稿」の冒頭はこうでした。

    『このやっかいな性癖が遺伝によるものなのか、環境によって培われた
     ものなかは分からない。ともかく、私はこれまで常に社交家であるよ
     りも隠遁者だった。私が嘘をつくのは殆どの場合、面倒な人づきあい
     を避けるためだったし、アルコールを摂取するのは、すっぽかす度胸
     もなく、断る口実も思いつかないため避けることの出来なかった社交
     の場を何とか乗り切るためだった。』

        そして、この作品の冒頭はこうなっています。

    『私の特徴の一つに、酒飲みだということがある。断っておくが、アル
     中ではない。』

    自分でアル中ではないという弁解をする男はその一歩手前にいるに過ぎない
    ことにタナーはまだ気が付いていないようです。酔っ払いは嫌いだが、酒は
    好きだ。そう信じたいのです。その為にタナーはこういう店を探すのです。

    『節度ある酒飲みしか受け入れないバーを探すことだ。アルコール消費
     量の多いこのサンフランシスコでも、しばらく時間がかかったが、私
     はようやくこちらの注文にぴったりの店を見つけた。』

        そのバーには名前がなく、レストランの奥でひっそりと営業していて、40
    人程の常連達はバーテンの名前にちなんで、グイードの店と呼んでいます。
    トム・クランドールとはその店で知り合ったのです。トムは昼は救急車の運
    転手をしていて、クラブ歌手をしている奥さん(クラリッサ)と暮らしてい
    ます。トムはいつも本を一冊持って店に来ます。そして、タナーと会話する
    か、一人で本を読んで過ごすのです。奥さんが夜の仕事なので帰りが遅いか
    らでしょう。タナーとトムはその店ではこんな付き合い方をしていました。

    『話題は多方面にわたるが、仕事の話はめったにしない。私は十数年間、
     私立探偵をやってきて、何度も嫌なものをみてきたし、トムはほとん
     ど毎日そういうものにどっぷり浸かっているので、グイドーの店での
     ひとときをお互いの日常のおぞましい側面で汚さないでおこうという
     暗黙の了解ができていた。』

    だから私生活についてはお互いに話さないようにしていました。それが通常
    の二人のきまりのようになっていたのです。だが、ある日、トムは本を持た
    ずに店に来るとタナーに向かって、「ちょっと訊きたいことがある」と言い
    出しました。タナーが「いいよ」と答えると、トムはこう言いました。

    「どこかの野郎に女房を盗まれそうなときは、一体どうすりゃいいんだ?」

    その相手というのは実業家のリチャード・サンズだというのです。

    『私はトムが話を誇張しているのではないかと疑い、かつそうであれば
     いいと願っていたが、彼がここまで取り乱すのにも充分な理由がある
     ことは容易に理解できた。彼の妻を誘惑しているのは、ただの男では
     ない。リチャード・サンズは企業買収でのし上がった大富豪なのだ。
     レーガン政権が生み出した規制緩和と海賊敵気風を利用し、生来の厚
     顔無知なはったり屋の性格を生かして、威圧、威嚇、恫喝といった手
     法によって西海岸のいくつもの企業に侵入し、占領して、自己の傘下
     におさめてきた。』

    トムは相手がそういう大物なので自分に勝ち目はないと悲観していました。
    だから、タナーに脅しをかけるだけでもいいからやってもらえないかと言い
    出しました。だが、タナーはこう答えます。

    「私は家庭問題は扱わないんだ。もう何年も手がけたことがない」

    それに対してトムは「おれは誰かに話を聞いてもらいたかっただけだ」と平
    静を装ってタナーと別れます。

    そのあとはトムからは状況を知らせる電話が何度かかかってくるだけで二人
    会うことがないままでした。

    ある日の朝、タナーは突然、新聞の死亡記事にトムの名前を発見して驚きま
    す。トムは深夜に歓楽街で死んでいるのを発見されたというのです。タナー
    は彼との最後の電話の会話を思い出します。

    「まるで迷路のようだよ、マーシュ。複雑怪奇な事情がひそんでいるん
     だ。一言で言えば、リチャード・サンズは邪悪な怪物だ。おれは今、
     自分の弟のものも含めた、血の痕跡を辿っているんだ。今にあっと驚
     かせてやるよ」

    タナーはトムがリチャード・サンズの手下に殺されたなと直感し、自分で助
    けてやれなかったことへの償いのように、事件の真相を探るべく動き出しま
    す。依頼人はいません。強いて言えば自分自身でした。

    タナーはトムの葬儀に参列することから捜査を始めます。まず、同僚の男に
    話を聞きたいと申し出ます。男が承知したので、そのうちに電話するからと
    告げて別れます。

    次に、妻のクラリッサを見つけて近づき、トムのことで話を聞きたいと言い
    ました。

    『「誰の役に立つの?何の役に立つっていうの?」
     「私がトムの身に何が起こったのかを知るのに役に立つのです」
     「そんなことを知ってどうするの?」彼女はため息をついて目を閉じた。
     車もドレスも贅沢のきわみなのに、ひどく疲れた感じがする。「なぜ、
     そんなことを知ろうとするの?」
     「何かを探し出すことぐらいしか、得意なことがないものでね」
     「それで充分な理由になるとは思えないわ」
     「私にはそれで充分なんです」
     私達は悲しみと期待の入り混じった気持ちで、しばらくお互いに見つめ
     合った。

    最後はトムの母親に会います。彼女はクラリッサが息子にはふさわしくない
    相手だったと嫌悪を隠しませんでした。そして、トムはエレン・シモンズと
    結婚すべきだったのだとタナーに話します。エレンはトムとは小学二年の時
    からの幼馴染だったのです。母親はそのエレンという女性が今どこに住んで
    いるかは教えてくれましたが、トムの兄弟のことを尋ねると、兄弟はいない
    と言って立ち去ってしまいます。しかし、最後の電話でトムははっきりと弟
    のことに言及していたのをタナーは覚えていました。母親にとって息子はト
    ムだけだと言いたいのだと思ったのですが、何か謎があるのかも知れないと
    いう印象も残ります。

    こうして、タナーはトムの人生を探る旅に出るのです。それが事件の真相を
    探る旅であることをタナーは知っていたからです。

        タナーは葬式のあと、エレン・シモンズを彼女が両親と住んでいる家に行き
    話を聞きます。彼女もタナーと同じ意見でした。つまり、トムは計画的に殺
    されたに違いないと。

    「戦争に行くとき、私は彼に聖書と処女をあげたわ。でも、どちらも私の
     手元のは戻ってこなかった。別に恨んでいるわけじゃないけれど」

    さらに、彼女はタナーこう言います。

    「もし、彼を殺した人間がいるのなら、その人間は裁きを受けるべきです」

    それに対してタナーはこう答えました。

    「検死報告を待ちましょう。それでもし不審な点が出てきたら、あなたと
     私で、正義が行われるよう努力しようじゃありませんか」

    別れ際にタナーはコロンボ警部のような質問をします。

    「最後にもうひとつだけ。トムには兄弟がいたんですか?」

    だが、エレンは「知らないわ」と曖昧に答えただけでした。小学生の時から
    の幼馴染が、そんなことを知らないはずがありません。タナーは嘘だなと察
    知します。

        トムの弟のニッキーのことを教えてくれたのはクラリッサでした。ニッキー
    は偏執性精神分裂症で治療を受けていたので、家族は隠していたというので
    す。それを聞いたタナーはトムが事件の鍵を握ると判断し、サンズの背後関
    係と平行して、トムを探し始めます。

    その過程で血液製剤を製造する企業が貧困者に無料で治療行為を提供しなが
    ら、蔭で新薬の実験に利用したことを掴みます。そして、その会社のオーナ
    ーがリチャード・サンズだと分かり、事件の真相が浮かびあがるという構成
    になっています。

    この作品は企業の不正をテーマにしています。だが、それは一企業人の不正
    に留まらず、八十年代という時代風潮そのものが生み出したものなのです。
    国中が金儲けに狂乱していた80年代。人々は病人や貧困者を押しつぶすこ
    とを気に病むことはないのだと自らに言い聞かせて、金儲けに奔走していた
    80年代。タナーはこのような80年代という時代を
リチャード・サンズに
    置き換えて裁きたかったのではないでしょうか。

    タナーはすでに中年に達しています。時代風潮は自分一人でどうすることも
    出来ないということを知っている年令です。時代に合わせて面白おかしく生
    きるか、背を向けて怒りを心に秘めて生きるかの選択しかないことを知って
    いるのです。それが中年に達した男の生きる道なのです。

    タナーはリチャード・サンズに代表されるような生き方に背を向けて生きる
    ことを選んだ男だから、トムへの同情も重なって鬱々として楽しめないので
    す。悩むトムを助けてやれない自分に腹がたつのです。

    『最悪の時期には、精神分析医を訪ねてみようと思うこともある。問題
     は、私のような自主独立を信条としてきた人間にとっては、それは失
     敗を認めることであり、ただでさえ身にしみているおのが不甲斐なさ
     を一層はっきり証立てることにもかならないという点だ。というわけ
     で、私はこの方法をとることを一日延ばしにしてきた。』

    だが、快方には向かいません。タナーはそんな自分を立ち直らせる為に事件
    の真相究明に乗り出したようなものです。トムを助けることが出来なかった
    自分が許せず、リチャード・サンズに代表される時代風潮が許せずに事件の
    真相を暴くことを決心するのです。

    アメリカの80年代はレーガンが大統領に就任した1981年から1987
    年10月19日のブラック・マンデーまでを指すと考えるのが普通です。こ
    の時期は日本流に言えばアメリカの「バブルの時代」ということが出来るで
    しょう。

    この時代をどう評価するかという研究書ー日本語で書かれた、あるいは日本
    語に訳されたーで、論文ではなく、我々にも簡単に理解できる、一般的な啓
    蒙書はまだあまり出ていませんが、その中の一つにこんな本があります。

    「マネー・イズ・グッドー80年代マネー・カルチャーのヒーローたち」
     (ジョン・テイラー著・吉田利子訳・文藝春秋社1993)

    この本から幾つかの文章を読んでみましょう。

    『レーガン大統領の最大の功績は、アメリカに楽観的な精神をもたらし
     たことだとさえ言える。』

    『怯えとペシミステイックの渦に足を取られていた1970年代から逃
     れて、アメリカ人は全身全霊をあげて楽観主義にのめり込んでいった。
     惨めな話など思い出したくもない。いい気分になりたいのだ。

    『1980年代とは、形あるものを何一つ生産しなくても夥しい金を儲
     けることが出来た時代であり・・(後略)』

    『1980年代には、ときとして非情さと政治的陰謀とこれみよがしの
     極端さが一つになり、冷笑的で世間を恐れない態度となって現れた時
     代でもある。』

    『非情が崇められる時世になった理由の一つは、ウォール街が企業の世
     界で前よりも派手な役割を演じるようになったことにある。企業買収
     に火をつける企業乗っ取り屋やさや取り業者などの台頭で、アメリカ
     株式会社内部の権力地図が塗り替えられた。1950年代に栄えた経
     営者層はこの何十年か、あまり株主の介入を受けずに会社を動かして
     きた。だが、1980年代になると、株主はおとなしくしておらず、
     積極的に会社の経営に口を出すようになった。株主の儲けをどんどん
     大きくしていくことが出来ない経営者は、敵対的買収の脅威にさらさ
     れて自分の身も危うくなる。それまで簡単に社員を一時解雇してきた
     経営者や重役たちは、今度は自分が株主から同じ目にあわされかねな
     いことに気づいた。』

   タナーはこういう時代背景をリチャード・サンズに仮託して、この物語を展
   開しているのだと思います。この時代を生きた一人でありながら、何もする
   事が出来ずに、マネー、マネーと浮かれ騒ぐ人々をじっと見詰ているしかな
   かった自分に腹を立てているから、タナーは酒の量が増え、精神も安定しな
   いのです。この本の暗さはそこにあるのです。作者はそこを読み取って欲し
   かったのだと私には思えます。

   小説より実際にあった、この時代の乗っ取り事件について知りたい方には下
   記の本をご紹介しておきます。

  「企業買収の8日間戦争」
  (ドーマン・L・コモンズ著・落合稔&田畑正英訳・日本能率協会1990)

   TOB(公開株式買い付け)とか、グリーンメール(TOBをかけると脅し
   て企業にプレミアムつきで株を買い取らせる)といった経済用語に慣れない
   方には読みにくい点もあるかも知れませんが、80年代の典型的な企業乗っ
   取り事件についてのノンフィクションであり、下らぬオカルト小説よりはる
   かに面白いことは保障します。筆者は乗っ取られた企業のCEO(最高経営
   責任者)だった人で、客観的に乗っ取りを見つめ、アメリカ社会の経済シス
   テムのどこに欠陥があるかを真摯に指摘し、アメリカという国の持つ自浄能
   力を呼び起こす力のある作品だと感じました。
    

       
   

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