『海外ミステリを読む』(45)
「スティーヴン・グリーンリーフの作品とその周辺」(5)
[70年代の作家たち(4)−ロジャー・L・サイモン]
「海外ミステリー事典」(新潮選書)のロジャー・L・サイモンの項には 「1943年ニューヨーク生まれのユダヤ系アメリカ人。ダー
トマス・カレッジを卒業後、イェ−ル大学演劇科に進み、修
士号を取得。(中略)
その後、モウゼズ・ワインとい1960年代の反体制運動か
らドロップアウトしたヒッピーくずれのユダヤ人探偵を主人
公として、アメリカ大統領予備選挙をめぐる政治的陰謀を描
いた「大いなる賭け」で一躍脚光を浴びる。ワインは60年
代の若者を代弁し、ハードボイルド小説の中でも初めてマリ
ファナやハーシーシュを常用していると公言して話題を呼ん
だ。」
薬物だけではありません。シリーズ第一作の「大いなる賭け」ではこんな描
写もあり、驚かされます。
「家に帰ると、一服ふかし、ベッドに這っていった。仰向けに
なって、ペニスをなでながら、なつかしいバークレー時代の」
(ポケミス版103ページ)
自慰をするハードボイルド私立探偵の初登場といった場面です。卑猥な言葉を
一度も書かなかったロス・マクドナルドへのアンチテーゼのような文章を書い
たこの男が、その御大ロス・マクドナルドから「この数年間に登場した<私立
探偵小説>の新しい作家の中で最も優秀な作家」とお褒めの言葉を貰ったデビ
ューだったと当時「ミステリマガジン」に「私立探偵の系譜」という文章を連
載していた小鷹信光氏が、その第1回の中で書いていました。
私にはロス・マクドナルドが本心からそう思っていたとは到底信じられません。
出版社が絡む義理と人情からか、あるいはお金のための褒め言葉だと思います。
彼にはモーゼズ・ワインの軽薄さが許せない筈です。
小鷹氏は他にはこんなことも書いています。
「モーゼズ・ワインは、60年代のなかばから70年代にかけて、ウエ
ストコーストで起こったあらゆるムーヴメントーフリー・スピーチ、
市民権運動、フリーセックス、ヒッピー、マリワナ、LSDを経験し
大学からも、既成社会のレールからもドロップアウトし、68年から
二年間、コンチネンタル・オプ社で4250時間下働きをつとめ、必
要な資格を得て私立探偵の許可証を手に入れた三十過ぎの男やもめと
して、読者の前に現れます。(中略)
その日のパン代を稼ぐために、たまたましがない私立探偵という半端
仕事を身につけただけのことで、勿論事務所などはないし、電話帳の
イエロー・ページに、私立探偵として名前が載っているかどうかも怪
しいのです。」
(「ミステリマガジン」1975年8月号より)
私立探偵モーゼズ・ワイン・シリーズで翻訳されているのは以下の作品だけです。
1.「大いなる賭け」(1973)
(木村二郎訳・1976・ポケミス1269)
「大統領候補誹謗のビラをまいている男の狙いを調べて欲しい。昔の
恋人ライラの頼みに私立探偵モーゼズ・ワインは調査を始めたが、
その直後、ライラは謎の転落死を遂げた。事件を包む陰謀とは?
現代に蘇ったサム・スペード」
(「ハヤカワ・ミステリ総解説目録」より)
2.「ワイルド・ターキー」(1974)
(木村二郎訳・1977・ポケミス1288)
「論争相手を殺した疑いをかけられた作家ヘクトからワインに依頼が来
た。アリバイの鍵を握る女メイコを探してくれという。が、ヘクトは
遊び相手の女をすべてメイコと呼ぶらしい。しかも、当のヘクトは妙
な遺書を残して自殺してしまった。」
(「ハヤカワ・ミステリ総解説目録」より)
3.「ペキン・ダック」(1979)
(木村二郎訳・1981・ポケミス1366)
伯母と一緒に中国へ行ったモーゼズ・ワインはその旅行中に殺人や盗難
事件に巻き込まれるという設定です。問題は政治的に内部抗争激しい頃
の不安定な共産中国を舞台にしたことです。何故、そんな設定を作りだ
したのかと言う点がこの作品を読む上の一番のポイントだと思います。
巻末に石田善彦氏が「ロジャー・L・サイモンの新しい世界」と題して
解説を書いておられますが、その中にこういう文章があります。
「このシリーズはアメリカが限りなく巨大な夢を見た六十年代に青春時
代を過ごした人間がどのようにして七十年代の日常へ滑り込んでいけ
るかという裏のテーマを持っていた。」
前の二作をこう位置づけたあとに、続けます。
「伯母ソニアを対比として語られる自己告白と内省、あるいはさまざま
な異なった階層のアメリカ人たちを登場させることによって多層的に
アメリカと中国をぶつけ合わせようとする試みは、七十年代に<自己
証明>を探ることから出発したモーゼズ・ワインの物語がさらに大き
な広がりと深さに到達したことを教えてくれる。」
この本の帯には「ハードボイルドに新境地をひらいた話題作」とありま
す。「傑作」ではなく、「話題作」だそうです。でも、異色作であるこ
とは間違いないでしょう。
4.「カリフォルニア・ロール」(1985)
(木村二郎訳・1986・ポケミス1466)
「シリコンヴァレーのコンピュータ会社に保安課長として就職早々、ワ
インはまたもや殺人事件に遭遇した。社の極秘プロジェクト“ブラッ
ク・ウィンドウ”の主任技師が射殺されたのだ。事件の鍵を握る女を
追い、ワインは一路東京へ飛ぶが・・・」
(「ハヤカワ・ミステリ総解説目録」より)
前作との間に六年の空白があります。スランプだったらしく、離婚し、
再婚し、引越したり、映画の脚本を書いたり監督をしていたようです。
そして、シリーズ再開のこの作品は日本が舞台です。タイトルの「カリ
フォルニア・ロール」というのはアヴォカドと蟹をまいた鮨のことだそ
うです。
5.「ストレート・マン」(1986)
(木村二郎訳・1988・ポケミス1506)
モーゼズ・ワインは作者の翳が乗り移ったのか、精神的に不安になり、
精神科医を訪れるという場面から、この作品は始まります。
「おれはコンピュータ会社の保安課長の仕事を辞めたばかりで、これか
らどうしたらいいのか分からないんですよ」
「何をなさりたいのかな?」
「発展したいのかもしれない。自分の探偵事務所を始めるとか。・・」
そんな治療を何回か続けたあとに、その精神科医が仕事を紹介してくれ
る。その仕事というのはテレビにでているコメデイアンがホテルで謎の
転落死を遂げ、警察が自殺だと判断したのに納得しない妻が調査をして
くれというものだった。
題名の「ストレート・マン」というのは漫才で言えばツッコミ役の方で、
ボケ訳は「ファニー・マン」というのだそうです。
6.「エルサレムの閃光」(1988)
(木村仁良訳・1989・ポケミス1537)
「爆弾テロで会長を殺した過激派ユダヤ人の行方を突き止めてくれ。ア
ラブ人組織からの依頼に戸惑いつつも調査を開始したワインは、事件
当日、容疑者の若者がイスラエルに発ったことを知り、自らも父祖の
地イスラエルへと旅たつが・・・。元過激派のユダヤ人探偵が、自ら
のアイデンテイテイに悩む異色作」
(「ハヤカワ・ミステリ総解説目録」より)
7.「誓いの渚」(1997)
(木村二郎訳・1997・講談社文庫)
九年振りに書かれたシリーズ第7作目のこの作品では二十歳になったワ
インの息子が登場する。彼は過激な環境保護団体に加わっていて、殺人
容疑で指名手配されているという設定。
「無実の領域」
ー私立探偵ジョン・タナー・シリーズ第5作ー
(原作1985年・日本語訳1987年・大久保 寛訳)
(ハヤカワ・ポケット・ミステリ1498)
タナーの事務所に六十代の夫婦がやってきて、自分達の娘が夫と娘と一
緒に暮らしているバークレーの自宅で何者かに切り刻まれて殺されたの
だが、警察だけでは不安なので、犯人を見つけて欲しいと依頼した。
殺されたダイアン・レンゼルは四十一才で、地域電話緊急相談センター
のスタッフとして働いていた。夫のローレンス・アッサーはバークレー
・ロー・スクールの教授で、精神異常者による犯罪研究の権威だった。
その彼が金曜日の夜帰宅して、惨殺されていた妻を発見したのだった。
気が進まないままに熱意に押されて、調査を引き受けたタナーはまず、
二人の間の娘が反抗的で両親を悩ませていたことを知る。さらにアーサ
ーの両親との不仲であるようだった。そんな事実を踏まえてタナーは仕
事を始めるが、すぐに夫のアーサーが警察に犯人として逮捕される。
やれやれこれでお役ごめんだと喜んだのもつかの間、ダイアンの両親は
今度は娘婿のアーサーが、犯行時に正気だったことを証明して欲しいと
言い出す。というのはアーサーはこれまでにも幾つかの事件で、精神異
常者の殺人を無罪にした実績があるからだった。今度はその理論で自ら
を救うつもりだと、依頼人はいうのだった。
悩んだ末にタナーはもし彼が犯人なら何故殺したのかという真相を探す
ーたとえそれが貴方たちの望まぬ結果であっても、それは警察に知らせ
ると言う条件で引き受けることになる。
そのあと、タナーは周囲の人間達に会い、話を聞き廻るという探偵とし
てのいつもの仕事を再開する。そして、犯人を見つけ依頼された仕事は
果たすけれど、残された問題は永遠に解決しない。そういう結末の作品
です。
つまり、今回は精神異常者の犯罪と法による処罰という難しい問題に取
り組んでいるのです。法が現実に追いついて行けないという事実。これ
は21世紀に入った今現在でも日本だけでなく、世界中の国家を悩ませ
ている問題です。前作でハードボイルド探偵を故郷に帰らせ、身内のト
ラブルに奔走させるという前代未聞の事件を展開させ、ファンを驚かせ
たグリーンリーフですが、今回はさらに大きな問題をミステリというジ
ャンルの小説に投げ込んだと言うことが出来るでしょう。
「訳者あとがき」には女流作家マーシャ・ミュラーのこの作品に対する
評が載っていますので、少し引用してみます。
「ステイーヴン・グリンリーフは現代を代表する第一級の私立探偵小説
の書き手であり、ロス・マクドナルドの後継者と目されている。しか
し、これまでの作品においては、グリンリーフのスタイルと主題はロ
ス・マクドナルドのパステイーシュであった。基本的には、大変優れ
た模倣者にすぎず、プロットにしても人物描写にしても、新生面を開
拓することはなかった。しかし、『無実の領域』で、グリーンリーフ
は伝統を守ろうという自意識過剰な努力をやめ、自己のルーツーとり
わけ、バークレーと、作者もその卒業生であるカリフォルニア大学周
辺ーに帰ったようである。その結果、幸いなことに、グリーンリーフ
は、これまで以上に彼の探偵の生身の姿を伝えているばかりでなく、
探偵小説に描かれたバークレーのうちで最良のポートレイトを提供し
てくれている。
多くの探偵小説シリーズものにおいて、作品が成熟を遂げるターニン
グ・ポイントがある。作者が単なる模倣者であることをやめ、確固た
る自己の声を発し、素材を独自の手法で用いる時が。『無実の領域』
はグリーンリーフとジョン・マーシャル・タナーにとって、ターニン
グ・ポイントであるように思える。」
私にはこの論の筆者はグリーンリーフの前作「探偵の帰郷」を読んでい
ないのではないかという気がします。彼女が言及しているターニング・
ポイント云々には前作が該当する筈です。私は今度の作品はグリーンリ
ーフが前作「探偵の帰郷」で歩み出した自前の作品の第二作だという認
識を持っています。この作品では第二歩を踏み出しているのだと思いま
す。
この作品のテーマとしては先に述べた精神異常者の犯罪と法による処罰
という重いテーマのほかに、バークレーという街を描きたかったのでは
ないかという気がします。ミュラーの「探偵小説に描かれたバークレー
のうちで最良のポートレイト」という文章には私も異論はありません。
前作で自らの故郷を、そして五十年代の自分の姿を作品に投影させたよ
うに今回はバークレーで過ごした自らの六十年代を投影させていると思
います。
作品の中でバークレーについて、こんな風に書いています。
『知的狂乱と社会経済上の不満がまじりあったものが定期的に吹きこぼ
れ、奇怪なことが起こり、しばしばよからぬ事態を招くあの土地なの
である。』
こう定義した上で、続けます。
『(今の)バークレーは15年前とは違うが、私が知っているほかの場
所よりはあの時代に近い。』
あの時代とはグリーンリーフがカリフォルニア大学の学生であった頃の
六十年代です。ジャック・ワインバーグがキャンパス内で逮捕された日
のこと、ジョーン・バエズが歌ったスプラール・ホール、マリオ・サヴ
ォの演説の内容についてグリーンリーフは熱く語っています。グリーン
リーフはその時、現場に居合わせていたのでしょう。そして、嵐のよう
な日々が過ぎ去り、今自分はそのバークレーで起こった殺人事件を調べ
る破目に陥っている。そのことが悲しいのだと語っているようです。
タナーにバークレーの街を歩かせながら、本当は作者自身が歩いている
のです。タナーは人と会う為にシャタック通りに行き、そこに食べ物屋
が軒を連ねているのを見ると、「食べ物が、エネルギーとイデオロギー
の主要な発露として存在した政治とセックスにとって代わった」のだと
悪態をつかせます。
さらに、テレグラフ・アベニューに出ると、こんな嘆きを見せています。
『かっては言論の自由を主張することで世界にのろしをあげた地であり
若者台頭と確固たる理想への突撃精神のシンボルであったこのテレグ
ラフ・アベニューは、もはや実体がなくなってしまったように見えた。
あまりに多くの変革を試みた結果、かえって殆ど成果がえられなかっ
たようだった。恐らくそれは、社会全体が勢いのなくなった燃えかす
以上の意味を持たなくなってしまったからであり、テレグラフ・アベ
ニューはその鏡にすぎないのである。あるいはそれはバークレーのあ
りし日が過ぎ去ったにすぎず、革命そのものがひとめぐりして、一時
は罵られたものが崇拝されるまでになっているかも知れない。あるい
は、五十歳に突き進んでいる私自身が、自分の欠点だからけの人生を
さらに生きながらえようと哀れにも試みて、過去が実際よりも意義の
あるものであってくれと請うているのかも知れない。私はため息をつ
いた。』
ロス・マクドナルドがロサンゼルスを、ハメットがサンフランシスコを
描いたようにバークレーを描くというのが、グリーンリーフがこの作品
でやりたかったことだったのではないかと私には思えます。自分の出発
点と言える町を舞台に、自分がその当時目指していた法律の世界をテー
マに書いて見たかったのではないでしょうか。
ここに、是非紹介したい一冊の本があります。
「遥かなるバークレイー彼女たちの60年代」(1977年)
(サラ・デビッドソン著・1984年・河出書房新社)
この本はグリーンリーフと同じ時期に同じ校舎即ちカリフォルニア大学
バークレー校に入学した三人の若い女性がどのような青春を送ったかを
そのうちの一人が記録したノン・フィクションです。三人はグリーンリ
ーフと友達ではなかったにしても、同じデモや集会に参加し、キャンパ
スですれ違っていた筈です。
訳しているのは南川せつ子、宮崎恵子、松葉美子の三氏です。あとがき
にこういう文章を載せておられます。
『彼女たちの身に起きたことは、六十年代に、そして日本では七十年安
保の前後に青春を送った人々の多くが、形こそ違え共に体験したこと
であろう。あの時代のダイナミズムは、当時二十代だった私達の、価
値観、生き方を根底から問い返し、ひとりひとりに行動の選択を具体
的に迫るパワーを持っていた。
私達がこの本の翻訳を思い立ったのも、まだ、「ウィメンズ・リブ」
という言葉すら誕生していなかったころ、傷つき苦しみながらも試行
錯誤を繰り返し、真の解放に向けて戦い続けた女性たちの記録に心を
打たれたからであると同時に、「あの時代」を確かに共有したのだと
いう思いが、私達三人をとらえたからだった。
この物語は、1960年代の若者たちの記録であり、激動を極めたア
メリカの一つの社会史を綴った証言の書であり、そして、何よりも「
あの時代」の共犯者への熱い連帯の書である。』
今、大学生の女性に特に読んで欲しい作品です。
その頃から四十年経った今、バークレーは人口10万(その内、2万8
千人は学生)の街ですが、市の現状を知る手掛かりを一つお伝えしてお
きます。
アメリカ国民の圧倒的な支持の下にアメリカ政府はテロへの報復として
のアフガニスタン空爆を強行しましたが、その中にあって、空爆停止を
決議した市議会が一つだけありました。それがバークレー市なのです。
報復一辺倒の国論の中で、空爆反対を決議するのは相当な勇気がいるこ
とだと思います。この事実をどう解釈するかは読者諸氏の問題ですので
私は触れません。バークレー健在と考える人もいるでしょう。アメリカ
の恥部だという人もいるでしょう。あるいはアメリカの良心だという人
もいるでしょう。「バークレーなら何が起きても驚かない」という事を
誰かが書いていたのは確かです。
このように一冊の本から、幅を広げて行く読書の方法もあるのです。脇
道に逸れたついでに、小説の中で作者が登場人物に読ませる本について
考えて見たいと思います。
作者が登場人物に読ませる本を決める時には、周到に効果を計算して、
人物に相応しい本を選ぶものです。知的水準が低い男に設定しようと思
えば毎週発刊される漫画雑誌(最近ではマンガではなく、コミックと呼
ぶのだそうですが、私に言わせれば敗戦記念日を終戦記念日と言い換え
る手法と同じです)を読ませればいいのです。電車の中で化粧をしてい
る女が、化粧のあとにバッグから取り出して読むのは大抵マンガです。
たまに女性週刊誌を読む女もいます。でも、ポケミスや「婦人公論」を
読むことはまずありません。
この作品の中のこのような文章があります。
「両足を机にのせ、ロス・トーマスの小説の続きを読みながら、通りか
ら人や車が減り、バーが空くのを待った。」
「私はアパートメントに戻り、週末の残りは「ドン・ジョバンニ」、「
女刑事の死」、「栄光の調べ」、そしてみだらな脱線行為に対する恥
知らずな憧憬と共に過ごした。」
グリーンリーフはタナーにロス・トーマスの「女刑事の死」を読ませて
いるようです。この作品はハヤカワの文庫本にもなっていますので、読
んだ方も多いと思いますが、グリーンリーフが物語作家として職人芸を
持つロス・トーマスを持ち出してきたのは何故だろうかと考えるのも面
白いかも知れません。
「黄昏にマックの店で」(藤本和子訳)の解説で渡辺武信氏がロス・ト
ーマスの作品についてこう述べています。
「殺伐でドライで、登場人物たちは人生にやや疲れ始め、表情には非情
な体験や挫折によって、ぼんやりしみが浮き出ている。作者はハード
ボイルドの伝統に忠実だが、登場人物が時として感傷に流されても、
気がつかぬ振りをするほどの如才なさを心得ているという寸法だ。プ
ロットは多少ややこしいが、描写はよく冷えていて量がある。」
この他には「神が忘れた町」、「五百万ドルの迷宮」、「獲物」、「悪
魔の麦」、「冷戦交換ゲーム」などが翻訳されています。
私が書くとしたら、ここはグレアム・グリーンの「情事の終り」を読ま
せます。暇つぶしにしろ、読んでいる本が「女刑事の死」と「情事の終
り」では読んでいる本人に対するイメージが違ってくるのは間違いない
でしょう。
売れっ子の作家や評論家の中にはロス・トーマスが面白いと口にしてい
て、今では「通向き」の作家と言われていますが、私はあまり好きでは
ありません。確かに作り方はうまいですが、文章にハートがないような
気がするのです。グリーンリーフは果たしてロス・トーマスをどう思っ
ていたのでしょうか。タナーが暇つぶしに読むのに丁度いい程度の作家
だと思っていたのか、あるいは敬愛の念から自分の主人公に読ませたの
でしょうか。そんなことを考えてみるのも一興です。これも小説の一つ
の読み方です。