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 『海外ミステリを読む』(50)

「スティーヴン・グリーンリーフ」(10)

   

「偽りの契り」
   ー
私立探偵ジョン・タナー・シリーズ第10作ー
  
 
           (原作1994年・黒原敏行訳)
              (ハヤカワ・ポケット・ミステリ1641・1996年)
         
    「代理母については、どの程度のことを知っている?」

    この物語はこのショッキングな言葉で始まります。サンフランシスコの大物弁
    護士ラッセル・ジョーゲンセンはタナーを自分の事務所に呼び出し、こんな風
    に話を切り出したのです。二人は20年来の知己でした。

    サンフランシスコの高級婦人服専門店を経営するスチュワート・コルバート(
    40才)と妻のミリセント(35才)の間には子供が出来なかったので、二人
    は自分達の精子と卵子を使って代理母による子供を作ることにしたのです。コ
    ルバート家の顧問弁護士であるラッセル・ジョーゲンセンはそれを依頼され、
    代理母となる女性と契約書を交わし、彼女の次の排卵日である五日後にそれが
    実行されるという状況でした。

    ラッセルがタナーに依頼したのは代理母のグレタ・ハモンド(37才)が無事
    に契約通りに行動出来る女性かどうかを調べるということでした。というのは
    グレタ・ハモンドを選んだのはスチュワート自身だったからです。彼女はかっ
    て彼の秘書をしていた女性だというのです。

    気が進まないタナーでしたが、自分が断っても誰かが引き受けるのだからと自
    らに言い聞かせて承諾します。大事な仕事だから失敗しないでくれとラッセル
    に念を押されたタナーはこう言い返します。

     「ほかの人間の人生に関することならうまくやれますよ、ラッセル。どう
      にもならないのは自分の人生だけです」

    だが、この言葉が天に向かって唾を吐く結果に終わるというのがこの作品です。

    仕事を受けたタナーは早速グレタ・ハモンドの調査に取り掛かります。定石通
    りにアパートを見張り、彼女の捨てたごみをチェックし、翌朝には彼女が入っ
    た店にあとから入って行きます。彼女に顔を見せ、接触するという方法を採用
    したのは、彼女が住むアパートに「貸室あり」の張り紙があるのを見たからで
    した。

    タナーはカウンターの、彼女から三つ離れた席に座ります。グレタが常連らし
    く、カウンターの中の男性と話している間、タナーは新聞の貸間欄にボールペ
    ンで印をつけ、さも部屋探しをしているような演技をしています。そして、注
    文した料理が運ばれて来た時に、「このへんにいいアパートはないでしょうか」
    と話かけます。

    これをきっかけにグレタを会話に引き込むことに成功したタナーは、さらに話
    を巧みに進め、計算したように彼女の方から「私が住んでいるアパートに空室
    があるみたい」と言わせます。それに応じたタナーは夜に話を聞きたいので訪
    ねて行ってもいいかと頼みます。一瞬躊躇したグレタですが、結局は承諾しま
    す。

    グレタが出勤したあと、タナーはそのアパートに行き、オーナーのハプウッド
    夫人に会い、部屋を探しているという口実で、グレタの私生活をあれこれ聞き
    出します。そのとは夜まで時間を潰して、彼女が仕事から帰る時間に再び、ア
    パートを訪れ今度は彼女自身から色々話を聞きだします。

    次の日、タナーはラッセルの事務所を訪れ、「合格か、失格か?」と返事を迫
    られるとこう答えます。

    「グレタ・ハモンドがコルバート夫妻にとって望ましい代理母にならないと
     考える理由は一つも見つからなかった。」

    それを聞いたラッセルは「まわりくどい言い方だな。合格という結論に自信が
    持てないのかね?」と問い返します。すると、タナーは「自信は持てません。
    こういう問題で自信を持って結論を出せる人間はいないはずですよ、ラッセル」
    と答えます。

    ラッセルはそれももっともだと思い、結論はコルバート夫妻に委ねることにし
    ます。

    タナーの方はこれでこの仕事とは縁が切れたと思っていたのですが、その六週
    間後、ラッセルから叉、電話がかかり体外受精は無事終了し、計画は実行され
    ているが、その後彼女が順調で、生活にも異常がないか確認して欲しいのだと
    頼まれます。

    『私はちょっと考えた。この一件にまたかかわり合うのは気が進まなかった
     が、そういうプロとしての勘も、グレタ・ハモンドにもう一度会ってみた
     いという個人的な欲求には打ち勝てなかった。』

    タナーは仕事としてではなく、個人的に彼女に会いたくなっていたのです。引
    き受けるとすぐその日の夜に彼女のアパートを訪れます。近くまで来たので一
    杯奢らせてもらおうと思って寄ったのですと誘います。すると、彼女はしばら
    く考えてから、近くのバーの名前を挙げ、そこに20分後に行くから先に行っ
    て待っていてくれと答えます。

    そのバーで二人は再会し、スプライトとビールを飲みながら話をします。帰る
    と言い出したグレタをタナーは送ります。アパートの入口に達した時に予想外
    のことが起きます。

    『グレタは手を一振りして、入口に向かって四歩あるいたところで足を止め、
     何かを決意したような素振りを見せると、私のそばまで戻ってきた。そし
     て、ささやきが届く距離まで顔を近づけてきた。
     「ミセス・ハプウッドは最近わたしのことを気にかけてくれているの。と
     てもいい人で、心配かけないようにしているんだけど夜休むのが早いの、
     あと、そうね、一時間ほどして来てくれたら、寝酒を一杯さしあげるわ」』

    何と、彼女はタナーを誘ったのです。それに対して、タナーは「いいね」と答
    えてしまいます。その言葉を聞いたグレタは近くに24時間営業のドラッグス
    トアがあるから何か買うものがあったらそこで買えばいいとアドヴァイスして
    アパートに入って行きます。これはコンドーム持っていないのなら買って来い
    という意味らしく、タナーはちゃんと買ってからグレタの部屋に入ります。

    そのあと、二人は「愛の行為」を交わします。体外受精をした女性のその後の
    状態を調査することを依頼された探偵の、最もしてはいけない行為ではないで
    しょうか。

    『いうまでもなく、私はこれを前もって計画していたわけではない。グレタ
     は現在、私の手がけて調査の対象なのだから、職業倫理上も大いに問題が
     ある。賢明な行為とはとうてい言えなかった。』

    と反省はしていますが、彼女の方の心理も自分勝手にこう解釈します。

    『愛と肉体の交歓なしに人工的に妊娠したことが大元の原因だったのだろう。』

    つまり、彼女は順番が逆になったにしろ、これで普通の生殖行為になると自分
    で納得したかったのだろうというわけです。一方、自分のことに関してはこう
    語っています。

    『抑制された口調で希望を語る彼女の目をのぞきこんだ私は、なぜか彼女が
     例の契約にサインしなければよかったのにと考え始めていた。』

    次の朝、タナーはラッセルに電話して、異常なし、すべて順調だと報告し、自
    らにも、会いたい気持ちを捨てようと言い聞かせます。今度こそこの件は終わ
    ったのだと。

    ですが、その五週間後、またラッセルから電話がかかってきて、グレタ・ハモ
    ンドがいなくなったと言われます。君の調べ方は甘かったと非難されたタナー
    は彼女を探すことを引き受けます。

    作者はここまでに三分の一を費やしています。このあと、タナーはグレタの過
    去を掘り返して行きます。それは同時にコルバート一族の血なまぐさい、恩縁
    の過去が浮かび上がるという仕掛けになっています。それは先輩作家のロス・
    マクドナルドが描いた世界でもあるわけですが、作者は自分でも気が付いたの
    でしょう。こう書いています。

    『その力のないかすれ声は私をチャンドラーかジェイムズ・M・ケインの世
     界にいざなった。』

    ですが、ここで作者が意識しているのはあえて名前をださなかったロス・マク
    ドナルドだろうと私はみています。

    コルバート一族の膿を搾り出し、グレタの産んだ子供を無事に依頼人であるミ
    リセント・コルバートに引き渡して、タナーは仕事を終えます。ラスト・シー
    ンは子供の様子を窺いに訪れたタナーにミリセントが子供の名付け親になって
    下さいと頼み、タナーはそれを引き受ける場面です。

 [深読みコーナー]

    この作品、構成上で混乱というか間違いがあるような気がするのですが、「あ
    とがき」を書いている訳者の黒原敏行氏は全く触れていないので、私の勘違い
    かも知れませんが、気になるので書いておきます。

    それは生まれた子供のことです。冒頭ではスチュワートの精子からY染色体を
    持った精子だけを取り出してあるので子供は男の筈だと説明されています。目
    的はコルバート一族の後継者だから男の子でなければいけないわけです。しか
    し、実際に生まれたのは女の子でした。では、誰の子供なのかという謎がこの
    作品の鍵になるのです。母親は誰で、父親は誰なのか。種明かしになるのでこ
    れ以上は伏せますが、問題は父親候補として、タナー自身も含めていることで
    す。

    子供を無事引渡したあとで、タナーはグレタと再会します。その場面でこうい
    う描写があるのです。

    『「おれの子供なんだろう?」
       私は低い声で訊き、体を緊張させて返事を待った。
        「なぜそう思うの?」
       眉の後ろから、無邪気で、さりげない、狡猾な声音の問いが発せられた。
     「きみの予定表についていた丸印だ。初めおれは、おれたちの夜を覚えて
     おくためだと思った。でも、あれは排卵日を知るために生理の日につけた
     印だった。そうだろう?」』

    私は女性の体について詳しくないので、間違っているかも知れませんが、妊娠
    すれば排卵はないのではないでしょうか。タナーとグレタの「愛の行為」は体
    外受精の六週間後のはずです。ですから、そのとき、グレタはすでに妊娠して
    いた筈です。ですから、いくらコンドームに穴を開けておいたり、彼女が事後
    すぐにバスルームに駆け込んでコンドームの中身を指で自らの体内に挿入した
    としても、タナーの子を宿す筈がありません。

    さらに、このあと、グレタもこんなことを口にします。

    「あなたはこの事態を阻止することができたわ。少なくとも、何か手を打と
     うとすることができた。あなたは昔、弁護士だった。裁判を起こして契約
     の無効を訴えて、父親が誰かを判定してもらって、親としての権利を主張
     することもできた。あの子をコルバート夫妻の手から取り戻そうとするこ
     とができた。なのに、あなたはしなかった。しようとしなかった」

    タナーが本当の父親であるのに何もしなかったと非難しているように読み取れ
    ます。

    この混乱の原因はどこから来たのでしょうか。二人の「愛の行為」が体外受精
    か人工授精の前なら、これはありうることです。つまり、作者は途中で構成を
    変えたのではないでしょうか。長編の場合はよくあることです。しかし、途中
    で構成を変えるとあちこちで辻褄が合わなくなるので、それを全部修正しなけ
    ればなりません。それを完全にチェックしなかったので、このような結果にな
    った。という解釈が出来ます。

    この作品は子供をあやしているミリセントとタナーの会話で終わります。名付
    け親を依頼されたタナーは「すばらしい、胸をえぐるつとめ」を自らにいうシ
    ーンで終わるのですが、これもタナーが本当の父親であれば、一層効果のある
    言葉になるでしょう。

    本当のところはどうなのでしょう。体外受精だったのか。それとも人工授精だ
    ったのか。この二つの言葉の使い分けに実はヒントがあるのです。それとも、
    グレタはタナーとの「愛の行為」の時にはまだ妊娠していなかったのか。この
    ことを頭に入れて読めば、一層楽しめるでしょう。あとはご自分で判断を!

   <代理出産に関する参考書>

    「代理母ーベビーM事件の教訓」
        フィリス・チェスラー著・左藤雅彦訳。平凡社・1993年

    「プロポーズー私たちの子どもを産んで下さい」
        向井亜紀著・マガジンハウス・2002年

    「不妊治療は日本人を幸せにするか」
        小西 宏著・講談社現代新書1602・2002年

    「先端医療革命ーその技術・思想・制度」
        米本昌平著・中公新書874・1988年

    「生殖革命と人権ー産むことに自由はあるのか」
        金城清子・中公新書1288・1996年

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