「海外ミステリを読む」(70)

 
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(トマス・H・クックの作品9)

「夏草の記憶」(1995年作)

  (芹澤 恵訳・文春文庫・1999)
  

 この物語の主人公は中年の医師ベン・ウェイド。他の登場人物は高校時代からの友人のルーク・デュシャン。ベンの初恋の女性ケリー・トロイ。ベンの恋敵で、ケリーの心を射止めたトッド・ジェフリーズ。ケリーを襲った犯人として逮捕され、投獄されたライル・ゲイツ。すべてアラバマ州の田舎町チョクトーの同じ高校の出身者です。あとは高校の仲間や親達、教師、保安官だけです。

 物語はケリー・トロイが町外れのブレイクハート・ヒル(「心臓破りの丘」)で襲われた事件をベンの回想により語られて行くわけですが、中心はベンのケリーとの出会いから別れまでの「報われなかった恋」の一部始終です。ベンは恋の勝利者にはなれなかったのですが、ケリー・トロイを襲った犯人でもありません。ですが、全くの部外者だったわけでもありません。本当は何があったのかをベンが語って行くわけです。

 巻末の「解説」で吉野 仁氏はこう書いています。

  『個人的に本書は「記憶三部作」のなかで、もっとも胸にこたえた物語
   だった。16才の夏でしか感じることのできない、恋憧れる少女が持つ
     まぶしいまでの輝きと激しく屈折した少年の思い、そして永遠に失わ
   れたまま、どうにも満たすことのできない寂寥感をこれほど感じさせる
   小説はほかにない。最後、涙を流さずにはおれない作品である。』

 結論として、氏はこう評しています。

  『現在と過去を巧みに交差させ、ブレイクハート・ヒルで起こった悲惨
     な出来事を一方の軸にしながら、クックならではの見事な青春恋愛
   ミステリーに仕上がっている。』

 私もこの評価には異論がありません。でも、吉野氏はクックがこの作品で採用している手法については言及していませんので、それについて考えてみたいと思います。吉野氏はクック論にまで話を広げてしまい、枚数的にそのことに触れる余地がなかったのでしょう。

 私はこの作品を読みながら、プルーストの「失われた時を求めて」に似ているように感じました。クックは「時」を自由に出し入れしながら物語を進めるという手法を採用しています。

  『彼女は、ごく見慣れた事物の雑多な取り合わせのなかから人知
      れず、なんの前触れもなく立ち現れる。』

  『記憶のなかで聞くケリーの声は、驚くほど実在感があり、驚くほど
   間近から聞こえる。』

 このようにいつの時期の事なのか、はっきりさせずに書いたり、「ときに、呼び出された記憶がいきなり、終幕の場からはじまることがある。」とケリーの葬式の場面の描写になったりするのです。

 記憶には勝手に向こうからやってくるものと、こっちが意識して思い出す記憶があります。プルーストはそれをこういう言葉で表現しています。

  『私の作品は無意志的記憶と意志的記憶の区別に貫かれていま
   す。』(「プルーストを読む」鈴木道彦著・集英社新書47ページ) 

 ベンは「生き直す」という表現で、過去に立ち戻るのです。

  『それでも、私は繰り返し、あの日を生き直していた。』

 そこでは「彼女がまだ彼女自身であったころの、若く溌剌としていて、希望に胸を躍らせ、心高鳴らせていた姿」を見る事が出来るからです。 

  『だが、ケリー・トロイを私の身近に留めているのは、実はそうした生
   々しい物理的なきっかけよりも、私の記憶そのものなのだ。私の記
   憶は、彼女に残されいた時間を繰り返し再生する。』

 だが、それはいつしかその先に行ってしまうのです。

  『記憶の余弊は、諦めが悪くなることだ。過去の出来事を再体験す
   るだけにとどまらず、過去の事実から起こりえたかもしれないことま
   で思い描く。』

 起こりえたかもしれないこととは結局、願望であり、夢になってしまうわけです。

  『だが、その後の出来事をたどりはじめると、私の追想には修正が
   加わる。実際に起こったままを再び体験し直すのではなく、その
   後、自分が知りえたことをあの時点ですでに知っていたものとして
   あの瞬間からあとの出来事を追体験していくのだ。それは言うなら
   ば夢だ。』

 よく読んでみると、この作品の現実の経過日数はたったの一日なのです。ケリーの母親のシャーリー・トロイの葬式のあった一日の間に、ベンがケリーと最初に会った6才の時の思い出から、高校で転校してきたケリーと再会し、恋に落ち、その恋のトラブルから彼女の人生を崩壊させてしまい、さらにそれから生きた三十年間の出来事を順番を入れ替えながら語っているのです。プルーストがマドレーヌというお菓子から過去の思い出に飛ぶように、クックは自分達の高校時代の話から、現在の妻や子供達の話に飛んだり、事件の関係者だった人物の葬式から、その人が当時事件にどう関わっていたかの話に飛んだりしています。

 本当は何があったのかをミステリ仕立てに語る口調は、ハードボイルド調ではなく、むしろ本格派の作品に近いかも知れません。つまり、読者は作者が残しているヒントや隠している言葉に注意しながら謎を追求していくという読み方が要求されるのです。でないと、年代的にはいつの出来事なのか、現実に起こったことなのか、それともベンの空想の話なのか区別がつかなくなります。さらに作者がわざと隠していることが何なのかも考えながら読まないと罠が見抜けないことになります。

 再会し、同じ授業を受け、校内新聞を二人で発行し、親しくなって行った二人ですが、気の弱いベンはなかなか愛を打ち明けることが出来ませんでした。ですが、心の中では彼女と結婚して、この町で一緒に暮そうと考えるまでになっていたのです。しかし、そんな自分の思いをケリーに打ち明ける前に、ケリーは学園祭でジュリエットを演じ、ロメオを演じたトッド・ジェフリーズが好きになります。裏方として、二人の恋が進行する過程を目にしながらベンはどうすることも出来ずに手をこまねいているだけでした。彼に出来るのはこれだけでした。

  『自分のものにならないのなら、ケリー・トロイなどこの世から抹殺して
   しまいたい、そんな考えが私のなかに芽生えはじめていた。』

 愛が強ければ強いほど、失恋した男には憎しみが湧くのです。ベンの心に芽生えた、その邪悪な思いはある瞬間行動に出てしまうのです。と言っても肉体的な暴力を振るったわけではありません。言葉という精神的暴力です。それは「私のはらわたから生まれ、長いこと腹の底でとぐろを巻いていた、下劣でさもしい生き物が解き放たれたかのように」相手に向って行ったのでした。

 その結果、事件が起きたのです。ですから直接手を下さなかったにしろ、ベンにその責任があるわけです。ベンは生まれた町から出て行きたいと願っていたにも関わらず医者になると、町に戻ってきます。それは「ひとりの人間の軽率で心ない行動から生じた結果のすべてを、三十年という歳月をかけて」修復するためだったのです。しかし、自分が何をしたかは隠し続けてきました。そのために彼には様々な声が聞こえてくるのです。それは彼の良心の呵責と言ってもいい声です。自分の青春時代を思い出したいけれど、それは決して楽しい思い出だけではないわけです。自分の「軽率な」行動の責任を彼はまだ果たしていないからです。町に戻り、その埋め合わせはしているつもりですが、それでは足りないと自分でも分かっているからです。

  『遠く過ぎ去った、あの夏の日を生き直すたびに、私の心のなか
   だけが濁り、澱み、呼吸する空気を失っていく。それでも、私は
   繰り返し、あの日を生き直してきた。そのたびに、ふさぎ込み、
   不機嫌になり、ともに暮らす者たちを戸惑わせてきた。』

 三十年間、隠し続けた秘密をベンは堪えられずにケリー・トロイの母親の葬儀のあった夜にルークに打ち明けることを決心した場面で、この物語は終るのです。ベンの良心に訴える声は、ずっとルークの声となって聞こえていたからです。ですから、ルークに話すことで、ベンは解放されると思ったのでしょう。

  この物語の冒頭の文章はこうです。

  『これは、私の記憶にあるなかでもっとも暗い話である。』

  そして、最後の文章はこうです。

  『私の記憶にあるなかでもっとも暗い話を語りはじめた。』

 ベンがいう「もっとも暗い話」が読者がここまで読んできた話なわけです。

[深読みコーナー]

 外国から映画を輸入し、日本で上映する場合に、宣伝文句やポスターは日本向けに考えたものに変えることが多いのです。時には、日本用にカットを削ったり挿入したりする事があります。小説の場合も同じようなことが行われます。この作品のペーパーバック版の表紙にはこういう文章が刷り込んであります。

 『A MESMERIZING TALE OF LOVE AND BETRAYAL』

 「これは愛と裏切りの物語」だと宣伝しているのです。日本の出版社はこの「裏切り」という言葉は「売り」にしないことにして、その代わりに「記憶」シリーズという売り方を採用したのです。原題の「ブレイクハート・ヒル」を「夏草の記憶」と変え、「ミステリの枠を超えて迫る犯罪小説の傑作」という言葉を裏表紙に載せたのです。

 冒頭の原文はこうです。

  『THIS IS THE DARKEST STORY THAT I EVER HEARD』

 直訳すると、「これは私がこれまでに聞いた中で最も暗い話である」となるでしょうか。題名を「夏草の記憶」とした関係で、ここは「私の記憶」という訳を採用しているわけです。私はむしろこの日本語訳の方が、作品の内容をうまく表現しているような気がします。作者は作品の中の別の箇所ではちゃんと「MEMORY}という言葉を使っているのですが、ここだけは使っていないのです。

  『WHEN I HEAR KELLI'S VOICE IN MY MEMORY』
  (記憶のなかで聞くケリーの声は)

  『IT IS MY MEMORY ITSELF』
   (私の記憶そのものなのだ)

  『IT IS THE CURSE MEMORY』
      (記憶の余弊は)

 ですから、冒頭の文も

 『THIS IS THE DARKEST STORY IN MY MEMORY』

 でいいと思うのですが、作者はそうは書いていません。意識して使い分けているのです。

 そこにこの作品を解く鍵があるような気がします。「記憶」の中には「聞く」(聴覚)と「見る」(視覚)の両方の経験が含まれるのですが、作者はそのうちの聴覚による経験のみに限定した使い方をしているわけです。実際に耳にした経験だけではなく、心の中に聞こえてくる声も含めて使っています。例えば、こういう箇所です。

  『I HEARD MY MIND PRONOUNCE THE WORDS I STILL
   COULD NOT BRING MYSELF TO SAY:I CAN』
   (私が言いだしかねていることを、私の心が声にならない声で代弁
    するのが聞こえたー私にはわかる。)

 事件はベンの「言葉」によって引き起こされたのに、ベンはそれを隠したままにしているから、自責の念は「声にならない声」で彼を責め続けているのです。

  『私には、朝な夕な、理由を問い続ける彼らの声が聞こえる。そう
   した声は、ときに、草葉の陰から聞こえてくる。あるときは父の声
   で、あるときは
シャーリー・トロイの声で、またあるときはストーン
   保安官の声でも

 その声は三十年間、執拗に彼を攻め続けたのです。 最初はこのようにしてやり過ごしていたのです。

  『私は黙然として立ち尽くし、混乱と嘆きに満ちた彼らの囁きに、
   ただひたすら耳を傾ける。私にはわかっている。私が口を開か
   ないかぎり、彼らには知りようがないのだ。』

 ですが、ついに耐え切れなくなくなり、告白せざるを得ない所まで追い詰められる過程を描いたのが、この作品なのです。そこには「SEE」(見る)行為はありません。あるのは「HEAR」(聞く)行為だけです。だから「MEMORY]ではなく、「HEAR」を使ったのではないか。というのが私の解釈です。

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