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「海外ミステリを読む」(68) |
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(トマス・H・クックの作品7) 「闇をつかむ男」(1991年作) (佐藤和彦訳・文春文庫・1997) この小説の主人公はニューヨークに住む作家のジャック・キンリー。彼の書く作品はフィクションではなく、ノンフィクションです。それも犯罪に関するものがテーマです。 『アメリカの出版界では「トウルー・クライム」、つまり犯罪ノンフィクション キンリーはそういうジャンルの作家として成功し、すでに著書も数冊あり、現在はニューヨークのアパートで一人暮しをしているという設定です。 第1章はキンリーが著作の為に調査した実在の犯罪者達(モデルはあるでしょうが名前はクックの創作。この虚実入り乱れがこの作品の読みどころの一つです)の名前が次々に出てきます。前置きがないだけに、この人物は誰なのだろうかと戸惑います。あるいはここで読むのを止める人もいるかも知れません。そう感じたら、この章は飛ばして下さい。主人公キンリーの心理状態を説明するだけの、内容にはあまり関係のない章です。 第2章はキンリーが飛行機で生まれ故郷に帰るところから始まります。物語はここから始まるのです。その町はジョージア州のシクワイア郡にあるシクワイアという町です。地図でみると、ジョージア州にはクック郡はあってもシクワイア郡はありませんのでクックの創作でしょう。子供の頃からの親友のレイ・テインドルが死んだと彼の娘のセリーナから電話で知らせてきたからです。山の中の谷間で一人で死んでいたので町の地方検事命令で解剖したが、死因は心臓発作だったとセリーナは告げます。 『「父はいい人だったわ。谷間でひとりで死ななければならなかっ 事情の分からないキンリーにはその問いに答えることは出来ませんでした。この時、キンリーは親友との最後の会話になってしまった前回帰郷した時の別れが脳裏に浮かんでいたのでしょう。駅に見送りに来てくれたレイが「キンリー、おまえ・・・」と何かを言い掛けたのですが、その時にはキンリーが乗った列車が出発してしまったのです。レイは最後まで言おうかどうかと迷っていたのでしょう。最後にやはり話してしまおうと決心したのが遅すぎたのです。 早くに両親を亡くしたキンリーは祖母に育てられたのですが、彼女を一人残して都会へ出たわけです。その祖母が二ヶ月前に死んだ時には色々な後始末をすべてレイがやってくれていたのです。今度はそのレイが死んだと聞いたキンリーは葬式に出席しなければと思い帰郷したのです。 前日、ホテルに一泊したキンリーは次の日、レイの家を訪れます。そこにはレイの遺体があり、娘のセリーナが待っていました。レイの遺体の入った棺の前でセリーナは父親はこの数週間の間に変わってしまったとキンリーに打ち明けます。 『「あいつは昔から少し変わっていたよ、セリーナ」 そして、「パパを私から引き離したものが何か知りたいの」とキンリーに訴えます。 『「分からないが、セリーナ、知らないほうがいいかも知れない そのあと、離婚して別の場所に住んでいる元妻のロイスを始め、親戚や知人たちが次々に弔問にやってきます。夜には客がいなくなり、セリーナの頼みでキンリーは一人でその家に泊まり、レイと共に一夜を明かすことになります。 一人になったキンリーはレイの仕事部屋を覗きます。レイは若い時は町の保安官をしていたし、今は地方検事局で働いていますので捜査の資料を沢山残しています。そこには他にはキンリーが贈呈した、彼の著作が並んでいて、壁には次のような文章を書いた紙が貼ってありました。 『大量死の時代にあっても、ミステリーは不法に奪われた人々の生命 これは勿論、クック自身の言葉であり、この作品と、これ以後の作品を書くにあたってのクックの覚悟のようなものであろうと思います。「不法に奪われた」人間の命は、たとえどんな人間であれ、大事なものであり、誰がどうやって、何の為に命を奪ったのかをあくまで追求すべきである。そう言っているのだと思います。 クックは前作「夜 訪ねてきた女」のあと、二冊のノンフィクションを書いています。それはこの作品の主人公キンリーが書くような犯罪ノンフィクションです。そのうちの一冊は「七つの丘のある街」と題されて日本語版が出ています。訳はこの作品と同じ佐藤和彦氏です。冒頭に引用した文章は佐藤氏が「七つの丘のある街」の「訳者あとがき」に書いた文章なのです。氏はこの「闇をつかむ男」の「訳者あとがき」では、こういう文章を書いています。 『さて、本書はクックの長編小説としては九作目にあたり、大雑把に区 実は私は先月、こう書きました。 『クックの作品はこのあと、本国では次々に出ているのに、四年間翻 訳者の弁が正しいのなら、私の推理は単なる悪態に該当すると言われても仕方がありません。この場を借りて出版社編集部にお詫びを述べさせて頂きます。ただ、本当に売れるという判断があったら、怠慢な訳者の尻を叩いて急がせる筈だという疑問は残るのですが、また悪態になってもいけませんので、これ位にしておきます。何はともあれ私の思い違いだったようです。 話を佐藤氏の「訳者あとがき」の戻しますが、「七つの丘のある街」は「アメリカ国内の女性被告としては最年少で死刑判決を受けた18歳の女とその夫の凶暴な犯罪旅行とその後の顛末をえがいた」ものであり、「クックは関係者へのインタビューをはじめ、警察の資料、マスコミ報道、裁判記録などを丹念に収集し、ほとんど心理学的分析などを加えないで事件を淡々と再現する手法を取っている。」と表現しています。つまり、クックは「七つの丘のある街」を「犯罪ノンフィクションの王道ともいえる手法」で創りあげたわけですが、「闇をつかむ男」ではこの時に取得した方法を生かして、ノンフィクションを装ったフィクションを描いたと言っていいと思います。 レイの葬式が終ったあとで、セリーナはキンリーに「パパが死んだ日の午後、パパの仕事部屋でさがしものをした人がいるの」と言い出します。調べてみたらレイの仕事関係のファイルからなくなっているものがあったというのです。 レイの埋葬が終った夜もキンリーは一人でレイの家に泊まりました。 『その夜、遅く簡単に寝つけそうもないと思ったキンリーは、廊下を その結果、セリーナが言った通りで、ある一部のファイルだけがなくなっているのでした。 『かなり長い時間、キンリーはレイの仕事部屋にとどまり、残ってい そのあと、ますます眠れなくなったキンリーは車で埋葬したばかりのレイの墓に向かいます。墓の前で何かを感じたキンリーは次の日にはレイの死について調べることを決心します。 『まずは入手可能なレイの死に関するもっとも基本的なデータから こうしてキンリーは調査を始めて行きます。 レイが調べていたのは30年前にこの町で起こった事件のことだということはすぐ分かります。当時、16歳の少女エリー・デインカーが殺されたとして、チャーリー・オヴァートンという男が捕まり、裁判の結果、死刑判決が下され、死刑も実行されている事件でした。レイは犯人として処刑された男の娘ドーラ・オヴァートンと親しくなっていて、彼女が父親の無実を信じていたので、事件を調べ直していたのだということが分かってきます。 この事件、殺された少女の死体が未だに発見されていないのです。彼女が着ていた衣類に彼女の血が大量に付着していたことが決定的な証拠とされていたのです。死体は一体どこにあるのか。キンリーはレイの捜査の跡を辿るわけですが、最後は死体探しになります。当時の裁判記録を引っ張り出して次から次へと読んで行きながら、生存者に会って、裁判時の証言の矛盾や嘘を暴き、そこから一歩一歩真相に近づいていくのです。 作者は裁判記録そのものを作り挙げているわけです。それを読者は、あたかもノンフィクションを読んでいるような感覚で読むという仕掛けですから、読む方も普通のミステリを読むよりは努力がいるでしょう。しかし、読み終わったあとに残る充実感はその努力に報いてくれるでしょう。 死体はどこに行ったのか。その謎を追うキンリーは最後に思ってもいなかった事実の前に愕然として立ち尽くすことになります。都会と違って田舎では誰がいつからそこに住み、その一家がどんな生き方をしてきたのか誰もが知っているわけです。その中から共同体として忘れることにした事実、外部の人間には秘密にしておく方がいいと決められた事実が生まれてくるのです。キンリーはそれを暴き出すことになったわけです。最後にはキンリー自身が知らなかった自分の家族の秘密まで白日の下に曝け出すことになります。 これ以上はルール違反になりますので書けませんが、ヒントだけを与えるなら、キンリーはあくまで第3者としての立場、親友の為にという立場で調査したのに、自分も関係者の一人だったことを知ることになります。そして、レイはそれを知っていたのです。最後に会った時に、レイが言おうか言うまいかと迷っていたのは、そのことだったに違いないとキンリーは知ることになるのです。 構成もすばらしいし、予想外のラストも見事です。これまでの作品が軽く終えるほどの重厚な作品です。ぜひお読み下さい。 [深読みコーナー] この作品の冒頭にデイラン・トマスの詩の一節が掲げられています。「だれも知らない女」でも同じようなことをしていましたので、クックはデイラン・トマスが好きなのでしょう。作家の中には好きな詩の中から作品の題名を拝借する人もいます。あるいは作中人物に詩を読ませたりしています。グリンリーフは私立探偵ジョン・タナー・シリーズの中の「熱い十字架」でタナーの大学時代の恋人の文学少女との会話の中で、この詩人の代表作の一節を取り上げていました。 グリンリーフが作中で引用したのはデイラン・トマスの詩の中でも、もっとも有名な一節です。 『あのやさしい夜の中へおとなしく入ってはいけない クックが「だれも知らない女」で引用しているのは同じく「死の入口」の中の「ロンドンの空襲で焼死した子供の悼みを拒否する詩」の一節です。 『最初の死者たちとともに地下深く ロンドンの娘は横たわる クックはこの詩の最後の一行を「だれも知らない女」の冒頭に置いています。 「闇をつかむ男」では20歳の時の第1詩集「十八篇の詩」の中の「緑の導火線を通って花を咲かせる力」からの一節を引用しています。 『水溜をかきまわす手は デイラン・トマスの作品の中でも、特に難解な、この詩をクックが何故、この作品の冒頭に掲げたのかは分かりません。自伝も伝記もない今の段階ではあれこれ推測するしかありません。完成度からの難解さではなく、若書き故の難解さを持つこの詩のポイントは私には「ぼくは唖なので」にあるような気がします。第1連では「ぼくは唖なので萎れ曲がった薔薇にはいえない」、第2連では「ぼくは唖なのでぼくの血管にはいえない」、第3連がクックが引用した部分で、第4連で「ぼくは唖なので時候の風にはいえない」と書き、最後はこう結んでいます。 『そして、ぼくは唖なので恋する男の墓にはいえない デイラン・トマスの研究者として著名な松浦直巳氏は、こう解釈しています。 『「よじれた蛆虫」は書きながら唖のように黙って語りかける詩人の クックは何故、第3連が気に入ったのか私には分かりません。「かきまわす手」は自然界の摂理を意味し、「経帷子」は死を象徴的に言っているのでしょう。「絞首刑の男」がキリストで、「絞首刑吏の石灰」が死、「ぼくの土」が生きている人間なら、最後の二行は「私は神の前で人間がどのような生の果てに死を迎えることになるのかうまく言えない」と言っているような気がします。 ここに引用したのはすべて松浦直巳氏の訳です。「闇をつかむ男」が引用しているのは誰の訳か明記してありませんが、比較してみるのも面白いでしょう。また、クックはこの詩のどこに惹かれて自分の作品の冒頭に掲げたのか考えてみるのも作品のより深い読み方でしょう。 (引用文献) 「デイラン・トマス詩集」(松浦直巳訳・彌生書房) 「緑の導火線ーデイラン・トマスの詩の解釈と鑑賞」 |
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