「海外ミステリを読む」(67)

 
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(トマス・H・クックの作品6)

「夜 訪ねてきた女」(1990年作)

  (染田屋 茂訳・文春文庫・1993)
  

 私立探偵フランク・クレモンズのもとを訪れた中年男ハロルド・フィリップスは、妻のヴァージニアがトラブルに巻き込まれている様子なので探って欲しいと仕事を依頼します。24歳の若い妻とは結婚して一年にしかならないし、パーテイで知り合ったので、彼女の過去については全く知らないのだと依頼人は言います。フランクが500ドルの前払い金を要求すると、男は「金は問題ではない」と言って、1,000ドルを置いて帰ります。

 客が帰ったあとに、手紙や請求書に目を通していると、シリーズ2作目の「過去をなくした女」でフランクの協力者となったファルークがやってきます。深夜営業の違法バーの経営者のファルークは夜眠れないフランクにとっては、今では仕事を越えた友人という存在です。

 「夜の空気を吸いに行こうではないか」とファルークに誘われたフランクは気乗りがしないまま付き合うことにして、一緒に外に出ます。彼の事務所は前作と変わっていませんので、ヘルズ・キッチンと呼ばれる地区にあります。

 二人は公園で遊ぶ家族連れや喧嘩をしている若者達をよそ目に見ながら歩いて行き、十番街で「運勢占います」というネオンサインを見つけます。それは数週間前に出来た、ジプシーが経営する店です。

  『「ああ、私も気付いていた」と、ファルークはいった。「観察していた
    んだ」
   「観察してた?」と、びっくりして、フランクは尋ねた。「何故だね?」』

 フランクにはファルークが占いなどを信じる男だとは思えなかったのです。ですが、ファルークは何故か興味があるらしく、自分の運勢を見てもらうから付き合えとフランクをしつこく誘うのです。そんなファルークにフランクはしぶしぶ付いて店に入ります。

 ファルークがやせた老女に運勢を観てもらっている間、フランクは暗い室内に座っていました。その時、仕事場と居住部分を仕切るカーテンの向こう側にこっちをみている女を見つけます。

  『彼女がこちらを見ているのは間違いなかったが、それをほのめか
   すヒントは小さなしぐさ一つ見せなかった。ただ、黒い瞳を激しく
   燃え上がらせ、したたるような赤のすだれごしに、フランクのいる
   方をにらんでいるだけだった。
     フランクは女に、ぎこちなくそっと頷いてみせた。その瞬間、二人
   がすでに原始的な共謀関係に結ばれている気がして、奇妙な感
   動を覚えた。「お前の知っていることを知っている」という、愛のさ
   さやきにも似た重大な情報交換をすませたあとのような気分だっ
   た。
   不意に彼女は立ち上がり、フランクにもう一度ねばりつくような鋭
   い一瞥を投げると、部屋を出て行った。』

 そのあと、フランクが占い師とファルークのほうに目を転じると、占い師はめくったタロットのカードを見て、これでおしまいだから帰ってとファルークに言うのが聞こえます。「危険が見えたのかね?」とファルークが訊くと、「これ以上は話せない」と占い師は二人を追い返すのです。 

 外に出たファルークはこれがジプシーの昔からの詐欺の手口だと一笑に付します。つまり、言われた方は気になって仕方がないので、その店に何回も通うようになるか、お金を沢山出して自分の本当の運勢を教えて欲しいと頼むわけです。ですが、ここでは詐欺ではなく、本当にトラブルが待っていることへの伏線です。

 そのあと、二人はまたフランクの事務所に戻ります。暇な二人なのです。真夜中にファルークが帰ったあと、フランクは一人でウィスキーを飲み始めます。不眠症の彼はなかなかベッドの入ろうとしないのです。デスクの前の椅子に座ったまま、酒の酔いでうつらうつらするだけです。そんな浅い眠りの途中、物音で目を覚まします。侵入者の気配を察したフランクはデスクの引き出しから拳銃を取り出して、廊下に出てみます。が、足音がしただけで姿を見ることは出来ませんでした。

 そのあと眠れないまま朝を迎えたフランクは散歩に出ます。すると、昨日の占いの店の前にパトカーが止まり、前作にも出ていた、顔見知りのタネンボーム刑事がいます。何があったのかと訊くと殺しだというのです。殺されたのは昨夜ファルークを占った女性で、犯人は死体のそばで凶器のナイフを持っていた若い女性だというのです。それが昨夜、フランクと見詰め合った女性だったのです。彼女はフランクが見ている前で連行されていきました。

 散歩を終えて、事務所に戻ったフランクはふと郵便箱に何かが入っているのを見つけます。配達が来るには早すぎる時間ですから、昨夜のうちに誰かが入れたに違いありません。これが深夜の侵入者の目的だったのだなとフランクは思います。

 郵便箱にあったのは一通の封筒で、中に入っていたのは赤いビーズが一つだけでした。フランクにはそれがあの占いの店の中で仕切りに使われていたカーテンに付いていたものだと分かりました。フランクにはそれを届けたのが、犯人として逮捕された女、彼を魅了した黒い瞳のジプシー女だと感じたのです。日本語版のタイトルの「夜 訪ねてきた女」はここからきているのです。

 フランクは彼女が自分に何かを伝えたかったに違いない。自分を雇うつもりだったに違いないと勝手に解釈して、事件の究明に乗り出していくわけです。当の本人は「余計なことをするな」とフランクの援助を拒むのに、彼は何故か無料で彼女の無実を証明しようと走り回るのがこの物語です。

  フィリップから依頼された有料の仕事を「昼の仕事」、ジプシーの事件はボランテイアでの「夜の仕事」という風に、二つの調査を平行して進めていくというのがこの作品の内容です。しかし、二つの内のどちらに彼の関心があるかと言えば、夜の仕事の方です。昼の仕事で生活費を得て、夜に自分の好きなことをする。そんな感じなのです。裏を読めば、探偵仕事に嫌気がさしている男の姿を描いていると言えるかも知れません。

 彼を夜の仕事に駆り立てているのは事件への興味ではなく、ジプシーの女への関心です。ファルークもそんなフランクに付き合うのですが、ファルークがジプシーのことにあまりに詳しいので、フランクは「きみはどうしてそんなにジプシーのことに詳しいだ?」と尋ねます。すると、ファルークは自分の母親がジプシーだったからだと告白するのです。

 調べていくうちに、女は弁護士には名前はプーリ・ダイだと名乗った事が分かります。だが、ジプシーの世界に詳しいファルークはそれは名前ではないとい言い出すのです。フランクは「名前でないのなら、何なんだ?」と訊きます。

    「社会的な身分だよ」とファルークは断定的にいった。「重要な
    役割だ。ジプシーの言葉、ロマニーで部族の女という意味にな
    る」

 事件はジプシー内部の掟に係っていること、プーリ・ダイは犯人ではないが誰かを守るために沈黙を守っているらしいことをフランクとファルークのチームは探り出します。

 フランクは彼女が庇っているのは男だろうと考え、本人にもそれを伝えるのですが、彼女は「あなたは調査を打ち切りにしなければいけないわ」と真相を話すことを拒むだけでした。

 彼女が殺してもいないのに、殺したと自白した理由は何なのか。誰を庇っているのか。それがこのあと明らかになり、作者は「昼の事件」と「夜の事件」を一瞬交差させて見せます。それがどういう交差なのかはご自分でお読み下さい。

 作者はこのあと、作風を大きく変えて行きますので、この作品はフランク・クレモンズ・シリーズの最後の作品であるばかりではなく、一般的なミステリのジャンルに属すると言われる作品の最後の作品でもあります。訳者はこのあとの作品について、「あとがき」でこう書いています。

  『クックが私立探偵小説にこだわっていないのは明らかであり、むし
   ろマンネリズムを振り払うように、一作ごとに失敗を恐れず、新たな
   領域へ作風を広げているように思われる。』

 訳者の染田屋 茂氏はさらに、タブーを破って、この作品の結末の一部を明かしながら、こう記しています。

  『本書のすぐあとに書かれた小説「雨の降る街」では、本書の結末
   を受けたかのように、男手ひとつで娘を育てるニューヨークの犯罪
   専門カメラマンが主人公で、たまたま遭遇した女性浮浪者の飛び
   降り自殺事件に興味を持ち、その女性の過去を追っていくストーリ
   ーだが、主眼は主人公の思春期の娘や別れた妻との関係などに
   おかれ、あえてミステリーの成立要件を満たそうという意図は希薄
   であるように思われる。』

 クックの作品はこのあと、本国では次々に出ているのに、四年間翻訳されていないのは、日本の出版社がクックの作風の変化が日本で受けるかどうかを見ていたのでしょう。1996年に「緋色の研究」が賞を取ると、これで大丈夫だと判断したらしく、翌年、「闇をつかむ男」の日本語版を慌てて出しています。今の日本では出版は文化事業ではなく、営利事業に過ぎないことの証明と言っていいでしょう。尚、この「雨の降る街」は未だに(2004年10月現在)翻訳されていません。過渡期の作品として、売れ行きを心配して出さないのでしょうが、クック・ファンとしては是非読んで見たい作品です。

 作風の変化の兆しはこの作品でも見られます。例えば、フランクが何故、ジプシーの女に惹かれるのか自分でもよく分からないという場面で、こういう描写をしています。

  『どうしてそんな気持になるのかははっきりしなかったが、おそらく
   彼女の目の輝きや浅黒い肌、黒い瞳、ゆるいウェーブのかかった
   長い髪などが原因なのだろう。』

 そして、そのあと、こう付け加えています。

   『とても重大なことがそうした小さな要素、一見取るに足りない、
    ささいな要素に還元されてしまうことはよくある。だが、そうい
    ったものが、やむにやまれぬ願いを生み出し、心の奥底で平
    穏をかき乱し、もう一度限界を試したいという衝動を作り出す
    のだ。』

 このような文章はこれまでの作品には見られないものです。このあとの作品では人間同士の葛藤ではなく、一人の人間の一つ一つの心理を掘り下げていくようになります。狂気とは何か。人は何故他人を殺すのか。そういうテーマを掘り下げていきます。

[深読みコーナー]

 この作品でクックが描いているのはジプシーという特殊な民族の世界です。

 『ジプシーとは何か。それはインドを最も古い故郷とする、さすらいの
  の人々である。ジプシー(Gypsy)というのは、ほんらい英語である。
  これはエジプト人、つまり、エジプシャン(Egyptian)が変わってで
  きたものだ。かれらは自分たちのことを、誇りをこめてロム(rom 複
  数はロマroma)と呼ぶ。それは人間という意味である。ちなみにド
  イツ語ではチゴイネル、フランス語ではボエミアンとかツイガーヌと
  いう。ジプシーはジプシー以外の一般ヨーロッパ人を、多少侮蔑を
  こめて、ガージョと呼ぶ。』

 ここに引用した文章は、日本語で読める、ジプシーに関する最も一般的な文献である「ジプシー」(相沢 久著。講談社現代新書583)からの抜粋です。この本にはこういう文章もあります。

  『アメリカには約10万のジプシーがいて、その内3万は流浪生活を
   していたといわれる。実際は10万以上いるのではないかと思われ
   るが、確かなことは分からない。』

 この本が書かれたのは昭和55年ですから、データ的には現在は変わっているでしょうが、目安にはなるでしょう。クックはそんなアメリカン・ジプシーの世界を自分流に料理して、この作品を作り上げているのです。ヨーロッパ・ジプシーの世界を描いた作品はフランス・ミステリの中にはかなりあるのですが、アメリカン・ジプシーを描いた作品で翻訳されている作品はあまり多くはないのです。その代表的なのが、「ゴーリキー・パーク」の作者マーテイン・クルーズ・スミスの次の2作品です。

  「琥珀色のジプシー」(中野圭二訳・ハヤカワ文庫・昭和60年)

  「ジプシーに捧げる歌」(望月麻子訳・ハヤカワ文庫・昭和60年)

 この二作品はニューヨークのイースト・サイドで古美術の店を経営するジプシーを主人公の探偵役にしたミステリです。一言で言えば、70年代のアメリカン・ジプシーの世界を描いた作品ということになるでしょうか。

 最後にもう一つ、紹介しておきましょう。

  「ジプシー・キング」(ピーター・マーズ著・山本和郎訳・読売新聞社)

 これはサブタイトルが「摩天楼のどぶねずみたち」という、ジプシーの中の「悪」たちの生き様を描いたノン・フィクションです。ジプシーの犯罪の手口などを直接本人達から訊いて書いているだけにリアルです。この作者の、他の作品としては「セルピコ」があります。映画にもなったので、ごらんになった方も多いと思いますが、あの映画の原作者です。

 これはとにかく、凄い内容で、訳者が「あとがき」で「ただただ、驚きの世界としか言いようがありません」と書くくらいです。この本によるとジプシーの男の犯罪はマフィアの犯罪と違って、殺しはやらないし、女は売春はやらなくて、スリと詐欺が中心と言う事です。彼等のやり口は陽気で、ユーモアさえ感じます。占って貰いに来た女性から大金を巻き上げる手口などは思わず笑ってしまう程、見事です。冒頭でファルークがジプシーのいつもの手口だと言っていたことの実際のやり方がこの本では詳しく描かれています。

 しかし、「ジプシー・キング」はジプシーの中でも悪い連中だけを取り上げているわけで、全てのジプシーがこの本に描かれているような人々ではないのは言うまでもありません。かってはばらばらだったジプシー達も自らの民族的個性を自覚し、人権を守り、生活を向上せようという努力が今現在も続けられています。ジプシーとしては恐らく最も名前の知られた存在である俳優のユル・ブリンナーも1978年の「第二回世界ジプシー会議」では司会を務めて、仲間の地位向上に努力しています。

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