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「海外ミステリを読む」(65) |
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(トマス・H・クックの作品4) 「過去を失くした女」(1989年作) (染田屋 茂訳・文春文庫・1991) クックの作品の特徴の一つは、ラストは下手だけど導入部は上手いということです。この作品ではパーテイの場面から始めています。場所はニューヨーク、マンハッタンのアッパーイーストサイド。前作「だれも知らない女」のラストで、カレン・デブローのあとを追ってアトランタを去ったフランク・クレモンズはニューヨークに来て、今は私立探偵をしながら彼女と一緒に生活しています。カレンは画廊を経営していて、その夜は自宅に顧客や友人を招いているのです。一緒に暮しているのですからフランクももてなす側として客の相手をしています。カレンの客は私立探偵などという下層階級の人間とは縁のない、金持ちの人達なので、珍しい生き物でも見るようにフランクと会話します。そんな中の一人が、日本で言えばハナエ・モリのように有名なデザイナーのイマリア・コヴァロです。問題を抱えていた彼女は、この時紹介されたフランクが私立探偵だと知って翌日、彼の事務所を訪ねて行き、物語が始まるのです。 導入部の最後で作者はこの作品の舞台の背景を見事に描き出しています。客が帰りパーテイが終わった午前三時、カレンはもう寝ましょうとフランクをベッドに誘いますが、フランクは「ちょっと歩いてくる」と言って、外出してしまいます。不眠症かどうか知りませんが、これでは二人の仲は終わりかけているのが一目瞭然です。 カレンのアパートのあるのはパーク・アヴェニューです。 『パーク・アヴェニューには殆ど人影がなく、ダウンタウンに向うに ニューヨークの真冬の寒気は玄関のドアを開けて、外に出た瞬間に感じるものだと思いますが、パーテイの酔いで感じるのが遅れたとしましょう。 『ミッドタウンはもぬけの殻になってしまったかのように人気がな 彼は西へ向い、ミッドタウンを通り抜け八番街にでるのです。パーク・アヴェニューは本来4番街なのですから、フランクは5番街、6番街と横切り、8番街にまで行ったわけです。 『パーク・アヴェニューの豪華なコンドミニアムからほんの十五分 この部分の二十行ほどはフランクの、今の満たされない気持を表現しているようにみえますが、実はこの物語のメインテーマを奏でていると言えるのです。フランクが「心の安らぎ」を得られる場所と言っているのは、彼の事務所がある地区でヘルズ・キッチンと呼ばれていた場所なのです。より分かり安く言えば、映画や舞台で有名な「ウエスト・サイド・ストーリー」の舞台となった一画だということです。 フランクの事務所は西49丁目という設定ですが、ハメットも「影なき男」でギャングの経営するナイト・クラブを西49丁目に設定しています。つまり、西49丁目と書くだけでギャングのいるような場所だとアメリカの読者には分かるのでしょう。「影なき男」は30年代のニューヨークを舞台にしていますが、ハメットはこの作品の中で主人公のニック・チャールズが読む新聞の見出しとして、「ヘルズ・キッチンのギャングの抗争」という表現を使っています。 ニューヨークの金持ちが住むアッパー・イースト・サイドと貧乏人が住むヘルズ・キッチン。歩いて15分程で行き来が出来るこの二つの地域ですが、そこには純然たる差別が存在します。後者から前者に這い上がろうとする人間は他人を押しのけ、時には騙し、殴りつけなければなりません。前者に住む者は後者の排除に全力を注ぎます。つまり、そこにあるのは階級闘争です。アメリカにある自由とは貧乏人が金持ちになれる自由であると同時に、金持ちが貧乏人を蹴落とす自由でもあるのです。作者がこの二つの地区をフランクに行き来させているのは階級闘争の外にいる人間、金持ちと貧乏人の争いを部外者として見ている人間の地位を与えようとしているのだと私は解釈しています。ここではフランク即ちクック自身と読めるのです。 というわけで、この物語はフランクとカレンの愛の結末を描いたものでもなく、男の我がままな孤独をなよなよと描いたものでもなく、貧乏な移民の子供が成功者へ成り上がる為に何をしたのかを階級闘争を絡ませて描いた作品だというのが私の解釈です。裏切りと復讐、そして、金銭。今回のフランクは、他人の事件なので前作とは違ってむしろ淡々と事件を追って行きます。 ニューヨークの地理に詳しくない方はこの作品を読む前にマンハッタンの地図を見ておくとより楽しめると思います。市販されている現在の観光用地図には四番街ではなく、パーク・アヴェニューと記されているのと同じように、ヘルズ・キッチンという地名はありません。クリントンと記されています。 パーテイの翌日、フランクが事務所に行くと、そこにイマリア・コヴァロがいます。フランクに秘書はいませんから事務所に鍵がかかっていますので、客は外で待つ事になります。そこはさっきまではホームレスの老女が寝ていた場所なのです。ここはヘルズ・キッチンですからギャングとホームレスがたくさんいます。そこは彼女がいつも寝る場所らしく、朝の早い時間にフランクが出入りするのには彼女を跨がなくてならないのです。フランクは優しいので、彼女を追っ払うことをしないのでしょう。 イマリア・コヴァロは、昨日貴方が私立探偵だと聞いたので仕事を頼みに来たと言い出します。彼女の話では、2週間前にハンナ・カールズバーグという社員が殺されたのだというのです。 「ハンナが私によくつくしてくれたから、ちゃんと埋葬だけはしてやりた イマリア・コヴァロは費用はいくらかかってもいいから、ハンナ・カールズバーグの身内を探し出して欲しいとフランクに依頼し、彼は引き受けます。 フランクはまず、ミッドタウン北分署のレオ・タネンボーム刑事に会いにいきます。依頼人から彼が担当者だと聞いたからです。彼とは別の事件で接触したことがあるので顔見知りでした。最初、タネンボームは自分を差し置いて犯人探しをするのかと気分を害したように訊きますが、フランクがきちんと埋葬してやりたいだけで、犯人を捜すのは警察にまかせると説明すると、納得して捜査資料を貸してくれます。 フランクは事務所に持ち帰り、その資料を丁寧に読みます。 『死亡前、あるいは死亡後に強姦された痕跡はない。だが、彼女に 下調べを終えたフランクは早速、殺人の現場に向かいます。殺されたハンナ・カールズバーグのアパートは西76丁目とセントラル・パーク・ウエストの角にあります。ニューヨークでも最も家賃の高い地区で、よくテレビや映画に出てくる、セントラル・パークを見下ろすことの出来る場所です。彼女は14階に住んでいましたので、眼下にザ・レイクつまり池が見えているはずです。 『ハンナ・カールズバーグの住んでいた建物のロビーはセントラル・ ドアにこじ開けた跡があるので何者かが侵入したに違いないと警察では判断しています。しかし、現金は残っているし、部屋が荒らされた様子はありません。その上、全財産はアメリカ癌協会にに寄付するという遺書もあったので遺産目当ても考えられません。勿論、その事を知らなければ殺害の理由にはなりますが、それは近親者に限ります。だが、その近親者がいないわけです。手掛かりになる唯一の証拠である「切断された手首」から考えられるのは怨恨です。どちらにしろ鍵は彼女の過去にあるわけです。 このあと、フランクはいよいよハンナの過去を探しにニューヨークの街を歩きまわります。アトランタとは違い、この作品でのフランクはよく歩きます。それは一つにはこの作品がニューヨークのマンハッタンの79丁目以南を舞台にしているからです。ニューヨークは地下鉄が発達していますのでこの範囲なら、歩きと地下鉄で充分間に合うわけです。 その結果、彼女の過去が浮かび上がってきます。本名と言うか、昔の名前はハンナ・コヴァトク。ユダヤ人です。父親はポーランドからの移民で、バワリー通りの近くのシナゴーグ(ユダヤ教の協会)のラビ(ユダヤ教の牧師)で、妹が二人いました。父親が死んだので、生きて行くために働きに出たのです。それはオーチャード通りにあった縫製工場で、時代は1930年代の初めの大恐慌の頃です。不況のどん底にいたアメリカ産業界は仕事のない移民を安い賃金でこき使う事でコストを下げ、生き残りをかけていたのです。一方、働く側は仕事がない状況ですから、どんなに劣悪な条件でも生きる為には働かなければならないのです。経営者はそこにつけこんだわけです。 フランクは当時のハンナを知っていた女性を探し出し、話を聞きます。 「一仕事あたりの賃金を半分に下げられたの。一日十八時間働いて、 そうなった時、女工達は職場放棄に入ったのです。 「一緒にストライキを戦いぬいたわ。ああ、あの時のハンナを見せた 「彼女には闘志もあった。鋼鉄の女だったわ、ハンナは」 別の女性はこう語ります。 「彼女は生まれながらのリーダーだった。そういう人だったの。ロー クララという女性はハンナの思い出をこう語ります。ハンナが組合の集会で演説した時に参加者として聞いていた思い出を。 「彼女がこう言ったの。勿論、イデイッシュ語だったけど。“あなたが ここに切り取られた右の手首の意味があるのです。ハンナは誰を裏切ったのか。誰が右手を切ったのか。フランクはやがてその謎を突き止めます。日本語の題名は「過去を失くした女」ですが、内容的には「過去を消した女」なのです。 「彼女が何を捨ててきたなんて、誰も知りやしないのさ」 それをフランクが一つ一つ掘り起こして行くわけです。これ以上はルール違反になるので書けませんが、これまでの作品の中で最も読み応えのある作品だということは言えるでしょう。ただ、難を言えば、カレンとのことが少し描き足りない気がします。これでは彼女は単にフランクとイマリア・コヴァロの繋ぎ役、つまり、フランクを含めた貧乏人と五番街に店を持つ金持ちとの接点にしかなっていないからです。 [深読みコーナー] この作品はフランクをガイド役にしてのマンハッタンの歴史的観光案内という読み方も出来るような気がします。と言っても、正史ではなく、秘史の部分の案内です。イマリア・コヴァロの生まれ地区を「ゴッド・ファザー」など有名なマフィアの土地、リトル・イタリアに設定し、最初の事務所はクイーンズで、そこからのし上がり、今では5番街に店を構えるまでになった女性に設定し、ハンナはバワリーで育ち、オーチャード通りの縫製工場で働き、ストを指導し、やがてイマリア・コヴァロの片腕として、セントラル・パークを見下ろす部屋に住める身分になったわけです。リトル・イタリアやバワリーで育った貧乏な移民の子の成功譚の裏の部分がこの作品の内容です。 「ギャング・オブ・ニューヨーク」という本があります。映画化され、ヒットしたのでご覧になった方も多いと思いますが、この本は映画より面白い本です。これはノン・フィクションで、サブタイトルは「An Informal History of New York
Underworld」です。これがずばり内容を語っています。 『ヘルズ・キッチンという名前を最初に使ったのは、グランド通りの北側 この文章の最後、意味がよく分からない部分があります。「西34丁目の南側と北側にわたる」の部分の解釈ですが、単に西34丁目の北と南なら要するに、その通りだけになり、「広い地域」とは言えないですし、西34丁目の南側すべてと、北側すべてではマンハッタン全体に及んでしまうのではないでしょうか。翻訳時の校正ミスではないかという気がします。「西34丁目の北側と西57丁目の南側にわたる」なら意味が通じるのですが・・・ このほかにもバワリーがどんな地域だったのかとか、この作品に登場する地名がたくさん出てきます。合せて読むとニューヨークの裏の歴史に詳しくなり、これからニューヨークが舞台の小説を読む時や映画を見る時に、より興味が湧くと思います。一読をお勧めします。 「ギャング・オブ・ニューヨーク」 |
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