「海外ミステリを読む」(64)

 
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(トマス・H・クックの作品3)

「だれも知らない女」(1988年作)

  (丸本聰明訳・文春文庫・1990)
  

 この物語の舞台はアメリカ南部のジョージア州アトランタです。主人公はアトランタ警察殺人課の警部補フランク・クレモンズ。彼が18歳の少女(アンジェリカ・デブロー)を殺害した犯人を捜す物語です。言ってみれば、定石通りの警察小説になるお膳立てが揃っていますが、クックはそれをありきたりのミステリにせすに、その枠を越えた作品にしようとしたと言えると思います。

 フランクは女に裏切られたという思いを抱いて生きている男です。最初に彼を裏切ったのは母親でした。牧師をしていた夫と二人の男の子を残して、家を出て行ったのです。

  『なぜ二人の少年と、会衆が貧しいために献金箱に豆や苺の袋が入る
   ような羽目板造りの教会と、夫を残して去ったのだろう。ときどきフラ
   ンクはそのことを考えながら、分かるような気がするのだった。母の引
   きつって暗い、限りなく不幸せそうな顔を覚えている。彼女は父の厳
   格さと高徳性によって裸にされ、完璧なまでに打ち拉がれていたため
   ときには鳥のようにつつかれて死んだ裸のむくろのように思えた。』

 母の気持は理解出来るけれど、裏切られたという思いは消えることはないでしょう。

 その後、彼はシーラと結婚し、サラという娘も生まれます。しかし、サラは16歳で自殺してしまうのです。

    『九才になるまでにはほとんど一人で遊ぶようになり、十一では奇妙な
   測り知れないうつろな眼になった。十三で彼との絆が絶たれ、それか
   ら三年後彼女は死んだ。なぜなのか分からなかった。学校の心理担
   当医は「先天的孤独症」と呼び、そう名づけたことで謎を解決したよ
   うな態度だったが、フランクには謎が残っていた。』

 娘の自殺で傷ついたフランクに追い討ちをかけるように、妻のシーラが家を出て行きます。

  「わたし、アトランタが嫌いよ、フランク。一度だってここに来たいと思わ
   なかったわ」

 父の死後、フランクは兄と一緒にアトランタに出てきて警官になったのです。だが、シーラはそれが嫌だったようです。それに拍車をかけたのが娘の自殺で、夫婦の絆だった娘を失った二人は気持が離れてしまったのでしょう。尚、シーラの故郷はフォート・ペインという設定ですが、ここはクック本人の故郷だと「世界ミステリ作家事典」(国書刊行会)等に書いてあります。

 男にとって母と妻と娘は女のすべてと言っても過言ではないのです。フランクはそのすべてに去られ、傷つき、酒びたりの毎日です。そんな状態の時に、十八歳の少女(アンジェリカ・デブロー)が殺され、フランクが犯人探しを始めるのです。

 まず、アンジェリカの死を伝え、事情を聞くために彼女の家を訪ねます。アンジェリカはアトランタの金持ちが住む郊外の高級住宅地にある広い屋敷に姉のカレンと二人だけで暮していました。両親は飛行機事故で亡くなったのですが、財産を残してくれたので二人には生活の心配はなく、好きな事をして暮せる身分です。

  『デブロー邸には人生の試練からはすでに救われた人達の感覚が
   漂っていた。ここでは早い霜や夏の旱魃を心配したものはいなか
   ったに違いない。邸はその周囲をすべて統治するかのようにあた
   りの緑を見下ろしていた。』

 フランクは車から降りて玄関に向かいます。

  『ベルを二度鳴らしたところで巨大な樫の扉が開いた。フランクは黒服を
   着た執事の姿を予期したが、意外にも現れたのは絵の具で汚れた画家
   用のスモックを羽織り、すりきれたブルージーンズをはいた若い女性だ
  った。』

 これがフランクとアンジェリカの姉のカレンとの出会いの場面です。姉妹は邸の中で別々の部屋でそれぞれが勝手に生活しているので、カレンは昨夜妹が帰宅しなかったのも知りませんでした。フランクはカレンに死体の確認のために署まで来て下さいと頼みます。カレンは承知し、二人はフランクの車に乗り、署に向うことになります。

 その途中、フランクは犯人に繋がるヒントを得ようと、カレンから色々なことを訊きだそうとします。

 カレンは妹にどんな友達がいたのか全く知りませんでした。

 『「でも、私はアンジェリカを非常に孤独だと思っていました」
  「あなたも同じだとおっしゃっているように聞こえますが?」気持を抑えき
  れないでフランクは言った。
  カレンは鋭い目差しで彼を見た。
  「そうかも知れません。だから、どうなんでしょう?」』

 私は孤独だ。でも、それがどうだというのだ。そう開き直ったカレンにフランクは恋をすることになります。孤独な男と女を結びつけたのが肉親の死だったことに二人の不幸があったのかも知れません。

  『ときどき横目で彼女のほうをうかがいながらフランクは妹の死を彼女が
   どう思っているのか探ろうとした。家族の中での愛がどこで始まり、どこ
   で終わったのかと言われても、とても答えられないことを経験から充分
   知っていた。彼の母は父を愛しているように見えた。なのに、あるうす
   ら寒い日の午後、彼女は成人間近な二人の少年を置き去りにして、理
   由を記したメモ一枚も残さずに、父の前から姿を消してしまったのだ。』

 このようにフランクは自分の過去を二人の美しい姉妹の過去に重ね合わせて事件を追っていきます。手掛かりはアンジェリカにしかないからです。彼女が何をしたのか。何を考えて、どう行動したのか。それを探り、その中から浮かんでくる犯人を見つけようとしているのです。

 フランクはアンジェリカの周囲にいた人間達に会い、話を聞き出して行きます。その結果、アンジェリカが誰に会い、誰と何を話したのか、どんな行動を取ったのかは掴めました。しかし、彼女の言葉と行動の意味は誰にも分かっていませんでした。何故、そんなことを言ったのか、何故そんなことをしたのか。誰にも分からないというのです。日本語版のの題名「だれも知らない女」はそういう意味なのです。アンジェリカが若くて美人で金持ちだが孤独であることは周りの誰にも分かっていました。問題は何一つ苦労がいらないはずなのに、何を悩み、何を苦しんでいるのかが誰も知らないということなのです。

 アンジェリカは妊娠していました。自ら男を誘惑したり、怪しげな画廊に出入りしたり、父親程の年の離れた画家のモデルになったりもしていたのです。挙句の果てに、住んでいる場所とは正反対の犯罪多発地区で死体を投げ捨てられていたのです。何故、そんなことをしなければならなかったのか。少女が大人になるための試練だったと言ってしまえば、それが結論になるのですが、フランクは娘の時と同じようにその答えに納得できずに執拗に追い詰めます。犯人逮捕より、そっちの方が大事だと思っているのではないかと思えるほどです。

 結果的には犯人は見つけますが、アンジェリカの心の中は、娘の時と同じように理解出来ませんでした。ですから、事件は解決してもフランクは喜べなく、嫌な思い出のあるこの街を嫌ってニューヨークへ行ってしまったカレンのあとを追って、フランクもアトランタを出て行きます。この小説の欠点はこのラストです。フランクが警察を辞めて、カレンの後を追う過程が全く描かれていないので、唐突に終わってしまいます。あたかも続編を作るために無理をしたと思われても仕方がないような結末のつけかたです。

[深読みコーナー]

 アトランタを舞台にした小説は少ないですが、一冊で充分という位に有名なのが、「風と共に去りぬ」です。作者であるマーガレット・ミッチェルは生涯これ一冊しか書いていません。自ら、この一冊に自分のすべてを注いだので、もう書けないと言ったそうです。彼女はアトランタで生まれ、生涯の大半をアトランタで過ごした人です。この作品は南部の側から見た「南北戦争」を描いた作品という読み方も出来るのです。彼女が生まれたのは1900年です。実際に戦争を体験した人達がまだ彼女の周りにいたので、彼女の知識は単に本から勉強して得たものではないのです。つまり、「風と共に去りぬ」は主人公のスカーレット・オハラが南北戦争の中でどう生き抜いたかを描いたものではなく、スカーレット・オハラという南部人の目から見た南北戦争の姿と言う読み方もあるのです。

 マーガレット・ミッチェルは「風と共に去りぬ」の中で、自分の生まれ故郷について、こう書いています。(引用は大久保康雄・竹内道之助訳の河出書房新社版から。)

  「初めてジェラルドが、ジョージア州の北部へ移ってきた頃には、アトラ
   ンタという町ははぜんぜんなかったばかりか、村落らしいものはなく、
   そのへんは一帯は未開の、見渡すかぎりの荒漠たる野原だった。」

 ジェラルドというのはスカーレットの父親です。つまり、父親の時代にはアトランタという街はまだ存在しなかったと言っているのですが、白人の書く文章で注意しなければいけないのは自分達が住み始める前には、その土地には、彼等がインデイアンと呼ぶ先住民族が住んでいたという事実は無視することです。彼等を追い出したことには決して触れないのがヨーロッパ大陸から移住してきた白人たちの暗黙の了解事項なのです。このジョージア州一帯はチェロキー族が大勢住んでいた土地なのです。白人には「未開の、見渡すかぎりの荒漠たる野原」としか見えない土地も、チェロキーの人達に言わせれば、「まだ白人に荒らされていない、昔ながらの自然が残る我々の恵の土地」だったはずです。

  「スカーレットが生まれる前の九年間、この町ははじめターミナスと呼
   ばれ、次にはマーサズヴィルと呼ばれた。アトランタと呼ばれるように
   なったのは、スカーレットの生まれた年からだった。」

 スカーレット・オハラの生まれたのは1845年という設定で、南北戦争は1861年に始まっています。

  「ターミナスからマーサズヴィルとなり、さらにアトランタと呼ばれるように
   なったこの町に定住した人たちは、みな気が強くて積極的だった。
   ジョージア州の古くからひらけた土地や遠方の諸州から、元気で活
   動的な人々が、鉄道の連絡点を中心として急速に膨張しつつあっ
   たこの町に引きつけられ、続々と集まってきたのである。彼等は希
   望にもえてやってきた。そして、停車場の近くで交差している五つ
   のほこりっぽい道路に沿って、店を開いた。ホワイトホール街、ワシ
   ントン街、それから、鹿皮の靴をはいたインデイアンたちが長い年
   代にわたって踏み固めてきたピーチトリー・トレールと呼ばれる小
   道に沿った高台に、やがて彼等は美しい住宅を建てた。彼等は、
   この都市を誇り、その発展を誇り、それを発展せしめた自分たちの
   力を誇った。」

 この文章にあるように鉄道網の発達がアトランタを大きく発展させていきました。各地からの路線がアトランタに集中した為に南部の重要な拠点になり、激戦地になったのです。北軍によるアトランタ攻撃の様子は「風と共に去りぬ」でも克明に描かれています。「だれも知らない女」ではフランクが初めてデブロー邸を訪れた場面にこういう文章があります。

   『(この邸は)その荘重さ、広大さからすると、侵入した北軍はここを司令部の
    宿舎としたのではないか。フランクは勝ち誇ったヤンキーの将軍が、この背
    の高い柱に馬を繋ぐのを容易に想像出来た。』

  その他に、アトランタを舞台のミステリを書いた作家は少ないようです。私が知っているのは以下の三人だけです。いずれもアトランタを舞台にした必然性があまり感じられない作品。

  「死の街の対決」
     (ラルフ・デニス著・小菅正夫訳・昭和50年・TBS出版会)

    元警官の私立探偵ジム・ハードマンが主人公。これが出来の悪い
    スペンサーものといった作品。

  「秋のスローダンス」
    (フィリップ・リー・ウィリアムズ著・坂本憲一訳・ポケミス1557)

      元プロ野球選手(3Aのサヴァンナ・ブレーブス)の私立探偵
    ハンク・ウィリアムスが主人公。何もかもうまく行かずに酒に溺
    れる独身男。

  「ピーチツリー探偵社」「父に捧げる歌」
    (ルース・バーミンガム著・宇佐川晶子訳・ハヤカワ文庫)

    ピーチツリー探偵社の女性探偵サニー・チャイルズが主人公。

  (追記)
   アトランタに関する手頃な参考書としては「アトランタ」(猿谷 要著・文藝春秋社)をお勧めします。興味のある方はお読み下さい。

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