「海外ミステリを読む」(75)

 
     
 

(トマス・H・クックの作品14)

「孤独な鳥がうたうとき」(2004年作)

  (村松 潔訳・文藝春秋社・2004)
  

 ニューヨークのマンハッタンとイースト・リバーを挟んだ対岸のロング・アイランドに住むセーラが夫トニーとの9年間の結婚生活を捨てて家出するところからこの物語は始まります。

 大きな失敗をしたわけでもなければ、借金に追われているわけでも、病気に悩んでいるわけでも、不倫の愛に苦しんでもいないのです。ただ、今の生活に耐えられなくなっただけなのです。何に耐えられないからと言えば、まず一つは彼女の心の底にある「恐怖」です。

  『彼女は生まれてからずっと怖がっていた。父親を怒らせるのを
   怖がっていた。一人になるのを怖がっていた。とどまることも出
   ていくことも怖がっていた。あることにイエスと言うのを怖がり、他
     のことにはノーと言うのを怖がっていた。そして、いまは未来を
   怖がっていた。』

 だが、それだけではないのです。冷静な判断力で行動している部分もあるのです。一瞬、夫の拳銃を持ち出そうかと手に持つのですが、思い直して止めます。

   『いつか追いつめられたら、使ってしまうに違いないし、もしも
    そんな致命的な一歩を踏み出してしまったら、もっといい人
    生をという夢は永遠に崩れ去ってしまうに違いない。』

 つまり、「もっといい人生」を夢見ているのです。「喪失と不安の世界を通過して、やがて大いなるハッピー・エンドを渇望」する心理状態になっているのです。そういう個人的な欲求から周囲のことは考えずに、タクシーを呼んで逃げ出します。それが男達の人生を巻き込んで行くことになります。

 セーラの家出に最初に気が付いたのは夫のトニーでした。水産会社を経営しているトニーは家に電話してもセーラが出ないので心配になり、社員のエデイに様子を見てきてくれと頼みます。

 エデイは鍵を預かって来て、家に入りセーラがいなくなっていることを知ります。その報告を聞いたトニーは父のレオ・ラブリオーラにも話します。レオは高利貸しをしている男ですが、セーラの家出を知って何故か怒りだします。

  『おまえはおれの息子だ。おれの息子を虚仮にすれば、おれ
   を虚仮にしたのと同じことだ』

 そして、「あの女を捜し出して連れ戻せ、トニー」と断固たる口調で命令します。「さもなければ、これからは誰一人お前に敬意を払わなくなるぞ」

 息子に捜し出せと言っておきながら、レオはこっそりと自分の部下を使ってセーラを捜し始めるのです。ここから事件が始まります。

 レオの部下のヴィニー・カルーソはいつもは貸したお金の取り立てを主な仕事にしています。

  『カルーソの父親が蒸発したあと、彼を引き取ってくれたのは
   ラブリオーラだったし、彼に仕事を与えてうまくやれば頭を
   なで、へまをすればどなりつけたのもラブリオーラだった。』

  だから今カルーソはラブリオーラの手足となって汚れた仕事を一手に引き受けているのです。

 ラブリオーラはそんなカルーソに、1万5千ドル貸したままになっている男に人捜しを専門にしている探偵を捜して仕事を依頼しろと命令します。それに対してカルーソはそういう仕事には3万ドルが必要だろうと答えます。

 ラブリオーラから1万5千ドルを借りているのはモーティマーという56歳の男です。モーティマーは医者に胃癌で余命三ヶ月と宣告されたばかりですが、妻のドテイに何も残してやれないことだけが残念だと達観している男です。

 『いまや、延々と続いた味気ない歳月のあと、彼が残してやれる
  のは死者との別れのキスだけだった。いや、そんなことはでき
  ない、と彼は思った。なんとかドテイになにかしら残してやる方
  法を見つけよう。それがおれに残された最後のつとめだ。』

 このモーティマーの執念が事件の鍵を握ることになります。

しかし、彼はあくまで仲介者で、実際に働いているのはスタークという53歳の男です。モーティマーと違って、スタークは「一人の女を愛したが、暴力の渦に巻き込まれて、その愛を失った。それからはその爆発の余塵がくすぶるなかで、消えることのない残響を胸に刻み込んで生きて」いる男です。

  『(彼には)妻もなければ、子供もなく、自分のあとに生き延
   びて欲しいと思うような人間は一人もいなかった。』

 スタークがその仕事を引き受け、セーラを追い始めたことから関係する男達が交差し、そこから摩擦が起こり、人が死ぬことになるのです。夫のトニーと部下のエデイ、義父のレオ・ラブリオーラと部下のカルーソ、仲介人モーティマー、探偵スターク。それにもう一人の男が絡んできます。

 それは「マクファーソン」という酒場のオーナーのエイブ・モーゲンスターンです。若い時は一流のミュージシャンを目指したこともあったですが、今では自分の酒場で客にピアノを聴かせるだけになってしまった男です。雇っていた女性歌手が自殺したので、その後釜を求めて、店の窓に「歌手募集中」という張り紙を出したのです。職探しをしていたセーラは偶然通りがかりにそれを見て、応募するわけです。彼女は若い時に酒場で歌っていたのです。

  『(セーラは)店員の経験もなかったし、スカートも絵葉書もレコ
   ードすら一枚も売ったことがなかった。彼女が売ったことのあ
   るのは自分自身、自分の声だけだったし、それだって今では
   出なくなっているだろう。』

 あちこちで面接を受けても、何の特技もない38歳の女を簡単に雇ってくれるところはありませんでした。そんな時に「歌手募集」の張り紙を見たのです。

 ここから終幕へと一気に物語は進みます。つまり、セーラは発見されるのです。モーティマーがこの店の常連だったからです。その前にこういう場面があります。

 店に来たモーティマーがさえない表情なのを見たエイブは、「なにか厄介なことでもあるのかい?」と訊きます。モーティマーは「娑婆にいられるのはあと三ヶ月だ」と答えるのです。それに対してエイブはこれからずっとタダでいいよと告げます。そして、「なにか必要があったらそう言ってくれ」と言うのです。それを聞いたモーティマーは1万5千ドルを店の金庫に入れておいてくれと頼み、俺が死んだら妻に届けてくれと住所を告げます。

そんなことがあったあとに、モーティマーをカルーソが尾行して、全員がこの店でセーラが歌っていることを知るわけです。そして、結末は?この小説の最後の文からお察し下さい。

 『そうね、それなら、これもハッピー・エンドなのかもしれないわ。』

[深読みコーナー]

 訳者の村松氏は「あとがき」でこう書いています。

  『各章のタイトルにジャズの曲名を使ったり、登場人物とそれぞれ
     の視点から進行していくという形式は、これまでのクックになかっ
     た新しい試みだろう。』

 まず、「視点」に言及するならば、この作品は「私」という1人称でも、普通の3人称でもなく、映画のカットバック方式のように、それぞれの登場人物の視点からの描写を入り混ぜているのです。帯にも、「マンハッタンを舞台に繰り広げられるアルトマン的な群像ミステリ」と謳っています。アルトマンというのは群像劇で有名な映画監督のロバート・アルトマンのことです。彼の作品で私が一番好きなのは「マッシュ」です。「24」を見ていると私などは「マッシュ」の時のドナルド・サザーランド(「24」の主役のキーファー・サザーランドの父親です)の姿が浮かびます。

 次ぎに各章のタイトルですが、「Bird Alone」 「Blame It on My Youth」
「Mean to Me」「 For All We Know」「 Make Someone Happy」という風にジャズの曲名をつけています。原題は「Peril」(「危機」という意味ですが、日本語版の題名「孤独な鳥がうたうとき」は「Bird Alone」から採ったものでしょう。

 「Bird Alone」はアビー・リンカーンの自作の歌です。彼女については吉野 仁氏が解説で触れておりますので、もう一人この曲を歌っているレデイ・キムについて説明します。彼女はキンバリー・ゾンビックという女性で、ビリー・ホリデイを主人公にしたミュージカルでビリー役を演じて売り出した人です。日本でもこの芝居は上演されていますし、声そのものが確かにビリー・ホリデイに似ています。歌詞はこうです。日本語版の題名はこの歌詞のイメージを借りたものだと思います。

  『Bird alone,flying high       鳥が一羽、空高く

  Flying through a clouded sky   曇り空を通り抜けて

  Sending mournful,soulful sounds 悲しげな鳴き声を響かせながら

  Soaring over troubled ground   騒がしい大地の上を飛んでゆく』
     (Lady Kim のアルバム「Left Alone」より)

 このように今までの作品にはない色々な工夫を凝らした作品ではありますが、それが内容にまでは反映されていないようです。これが実験作に終わるのか、次作に実を結ぶのかは現時点では何とも言えませんが、この作品だけを取り上げるなら失敗作であろうかと思います。視点が多すぎてセーラの孤独も、男たちのそれぞれの人生が中途半端になっているのです。上下二冊の大作にでもなる内容を詰め込み過ぎたのではないでしょうか。チャンドラーやロス・マクドナルドは自分の短編をふくらませて長編にしていますが、この作品はそのような長編の基になる作品という解釈ができると思います。

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