「海外ミステリを読む」(72)

 
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(トマス・H・クックの作品11)

「夜の記憶」(1998年作)

  (村松 潔訳・文春文庫・2000)
  

 この作品の特徴を簡単に言えば、構成に凝りに凝っていることです。暗く、重い事件を複雑に練り上げていますので、読む方も覚悟がいります。最初の章をいい加減に読んでいると、途中で何がなんだか分からなくなりますので注意して下さい。その代わり途中で止められなくなる位に面白い作品です。これまで読んで来た11作の中の最良の作品だろうと私は思います。

 では、その複雑な構成がどうなっているのか見てみましょう。

まず、一番大きな要素は主人公の過去です。彼の名前はニューヨークに住むミステリ作家のポール・グレーヴス。ノース・カロライナ州にあるクレートンヴィルという小さな町の郊外の農場で生まれ、姉のグウェンと両親の4人で貧乏ながら幸せな生活を送っていました。

 ところが彼が12才の時に、両親が車で町まで出かけた時に自動車事故で急死してしまい、そこから運命が狂ってくるのです。両親の死後、姉弟二人で生活をしていたのですが、グウェンが17才、ポールが13才の時に、一人の男が家に押しかけて来て、グウェンを陵辱したあげく殺してしまいます。ポールはその一部始終をみたらしく、ショックのあまりその後、一年間言葉を発することが出来ない状態に陥ってしまったのでした。捜査を担当した地元のスローン保安官に彼が何も話さないので、犯人はまだ逮捕されないままです。

 家族のすべてを失い、天涯孤独になったグレーヴスは18才の時に農場を売って、バスでニューヨークに出てきます。

   『ニューヨークに到着すると、彼はいちばんごたごたした地域の、
    いちばん人通りの多い通りの、いちばん大きな建物を探し、そ
    のなかでもいちばん壁の薄いアパートを選んだ。いくら叫んで
    もだれにも聞こえないような場所には、二度と住みたくなかった
    のである。』

 つまり、彼は姉の事件から受けた傷を今も引きずって生きているのです。

   『グレーヴスは自分がいつか自殺するだろうと信じて疑わなかっ
    た。だから、自分の寝室から続く廊下に鉄の棒を取り付け、ロ
    ープを買って、ドレッサーのいちばん上の引き出しに入れて
    あった。自分がどの椅子に登るかもわかっていたし、息絶える
    前にだれの名前を呼ぶのかもわかっていた-「グウェン」。』

 このように姉が陵辱され、殺されていった姿が彼の日常を支配したままになっているので結婚も出来ず、アパートに閉じこもって小説を書いている毎日なのです。幸いなことに彼の小説はある程度の読者を持ち、彼はそれで生活は出来るようです。

 構成を複雑にしている二番目の要素は、彼が書いている作品です。それは19世紀のニューヨークを舞台にしたミステリです。その作品はスロヴァックいう名前の刑事がケスラーという殺人鬼とその部下のサイクスを追い続けるという物語です。グレーヴスは彼等が登場する小説を二十年間シリーズで書き続け十五作目を書き終えたところです。各パートの冒頭にその架空の作品の題名を記し、中から抽出した文章を掲げるという凝り方です。

 作者は架空の小説の内容をしつこい位に作中で披露していくのです。それが何故なのかは伏線の一つになっています。グレーヴスの頭の中には忘れようとしても忘れることの出来ない姉の事件に加えて、自分が書いている作品のことが常に頭の中にあるという設定です。

  『スロヴァックの習慣がいつのまにか自分の習慣になってしまって
   いても、
グレーヴスには何の抵抗もなかった。一緒に似たような
   人生を生きてきたのだから、同じようなところに行き着くのは避け
   られないだろうと思っていた。』

 つまtり、架空の人物が織りなす架空の物語が下層にあり、その上にグレーヴスが探偵役を務める物語があるという二重構造になっているのです。 

 グレーヴスが探偵役の物語はアリソン・デイヴィスという女性から週末に遊びに来ませんかという招待が入ったことから始まります。彼女は芸術家のパトロンという役割が好きで、別荘にはよく様々な分野の芸術家が招かれているのです。その場所はニューヨークの北にあるリヴァーウッドというハドソン川に面した土地にある大邸宅です。

  『アリソン・デイヴィスが彼をリヴァーウッドに招待した理由も分からな
   かったが、自分がなぜその招待を受け入れたのかもはっきりしなか
   った。』

 自分でもはっきりは分からないというのは、自分で避けてきた問題だから考えたくないというだけで、内心ではちゃんと分かっていたはずです。一言でいえば、孤独につかれたので息抜きになるいかも知れないと思ったのでしょう。だから、彼はニューヨークを離れて、リヴァーウッドに来て、いままで会ったこともない人達と会い、その土地で過去に起こった事件、自分には無関係な事件に関わることになるのです。

 招待主のアリソン・デイヴィスは到着後すぐにグレーヴスに招待した理由を説明します。

  まず、「わたくしはあなたの作品に感嘆しました」と彼の作品の熱心な読者であることを告げます。次には「あなたのことをすこし調べさせて頂いたのです」と続け、こう告白します。

  「あなたの人生には犯罪の刻印が打たれています。わたくしの人生
   もそうだし、このリヴァーウッドのすべてもそうだからです。」

 だから、あなたが最適な人なのですと告げ、招いた目的をこう説明します。

  「あなたをお招きしたのは謎を解いていただくためなんです。
   ある殺人事件にまつわる謎です。じつは、もう何十年も前
   のことですが、このリヴァーウッドで若い娘が殺されました。
   フェイという娘です。フェイ・ハリソン。わたくしのいちばん
   の親友でした。」

 事件が起きたのは50年前。地元の作業員の男(ジェイク・モーズリー)が犯人として逮捕されたのですが、絞殺に使ったと思われるロープが見つからなかった為に証拠不十分で釈放されます。しかし、釈放の1週間後にモーズリーは下宿屋の自分の部屋で死んでいるのが発見されます。不審死でしたが検視の結果、「自然死」とされ、事件は犯人不明のまま闇に消えてしまったのです。

 生き残っているフェイの母親が最近アリソンに手紙をくれて、娘の死の不可解さに今も苦しめられていると訴えたのが自分を動かしたとアリソンは説明するのです。

  「ミスター・グレーヴス、ご想像のとおり、ミセス・ハリソンは今で
   はかなりのお歳です。娘に何が起こったのか納得できないま
   ま死なせたくはありません。いま、わたくしに出来るのはその
   くらいです。あの方が求めている心の平安を与えてさしあげる
   こと。そのためにはなんらかの答えが必要なのです。フェイの
   事件に関する一つの答えが」

 しかし、この説明ではよく分かりません。すると、彼女はさらにこう言うのです。

  「真実は分かっているんです。ジェイク・モーズリーがフェイを殺
   したのです。それは事実関係を調べればすぐに分かることで
   す。ただ、残念ながら、ミセス・ハリソンはそれでは納得してい
   ません。あの方はもっと別の説明を求めているんです、ミスタ
   ー・グレーヴス。だからこそ、あなたにこのリヴァーウッドへ来て
   頂いたんです。ミセス・ハリソンの心に平和をもたらす物語を
   書いて頂くために」

 そして、最後にこう結びます。

  「それは真実である必要はありません」

 真実でなくても、殺害の動機がフェイの母親を納得させることが出来、さらにどこかのよそ者ではなく、ここにいる知っている人物であれば、それでいいというのです。矛盾した話ではあります。被害者の母親の心に平和をもたらすことの出来る物語は真実しかない筈です。

 フェイの母親とアリソン・デイヴィスはジェイク・モーズリーが犯人ではないことを知っているからこそ、それが真実ではないと思っているのではないでしょうか。二人は何か知っているのです。容疑者がリヴァーウッドにいる誰かだということは分かっていたのでしょう。だが、誰が手を下したのかが分からない。それを知りたいということなのです。

 ポール・グレーヴスはアリソンの、この依頼を引き受けます。ニューヨークに帰った彼のアパートにアリソンは電話をかけて、決断を促す場面はこうなっています。

    『「リヴァーウッドにいらして頂けるんですか?」ミス・デイヴィス
   が訊ねた。
   彼の答えはいかにも苦しそうだった。たたきのめされて服従
   を余儀なくされ、折れた歯と一緒に口から吐き出したような
   声だった。
   「行きます」』

 行きたくないが、行かざるを得ない。そんな表現をしています。この場面の前に彼の心の中の状態をこう表現しています。

   『ときには、どうしてもやらなければならないことがある。やらな
    ければ、自分の内側の闇に呑み込まれてしまうからだ。』

 「自分の内側の闇」とは彼が抱えている心の悩みですが、それは姉の事件に関わっているのです。やりたくないけれど、自分のことで悩むよりはましではないか。しかし、うまく行くかどうか自信はない。そんなニュアンスの文章です。

 こうしてグレーヴスはリヴァーウッドに行き、フェイ・ハリソン殺害事件の犯人捜しを始めるわけです。

 グレーヴスは事件の真相を突き止めるのですが、アリソンには言えないことだったのです。彼女を傷つけることになるからです。そこで、彼は嘘の報告をします。犯人は見知らぬ通りすがりの男だったと嘘をつきます。

  『男には残忍さを満足させる喜び以外の動機はなかった。男が
   フェイを殺したのはそのためでした。殺すという行為の快楽の
   ためだったんです。そして、彼女を片付けてしまうと、ロープ
   を持ち去ったんです。記念に。』

 この話を聞いたアリソンの反応はこうでした。

  『彼女の目が怒りできらりと光った。それじゃ、あなたはフェイの
   死を解決することなしに
リヴァーウッドを出ていくつもりなの?」

 ご期待に添えず残念ですと答えるグレーヴスですが、アリソンの怒りは治まりません。激怒した女性の常として、甲高い声で、言うべきではないことまで口走るのです。言わないのは貴女のためなのだという男の気遣いに気がつかないのです。

  『彼女は甲高い声で詰問した。「フェイの死の答えを出さずに
   放っておくの?あなたはこれまでもそんなふうにしてきたの、
   ミスター・グレーヴス?」彼女のいかにも軽蔑しきった非難の
   口調が彼に重くのしかかった。「あなたは受け容れてしまった
   の、お姉さんに何が起こったか永久にわからないなんてこと
   を?」』

 この一言がこの小説の衝撃的なラストへの引き金になっています。つまり、グレーヴスは日常を支配している姉の事件から一時でも逃れようと、自分とは無関係のフェイ・ハリソン殺害事件に関わることを承知したのですが、事件の調査をしている課程で、他人事とは思えなくなり、自分がかかえている問題に重なってしまっていたのです。だから、彼女の、このひとことがより深い傷を与えてしまったのです。

 作者は二つの殺人事件をそれぞれきちんと描きながら、一つに結びつけています。リヴァーウッドにはもう一人のゲストが招かれていました。ほかに大勢のゲストがいれば別ですが、二人だけですので、食事の時やそのほかのいろいろな場面で会話を交わすことになります。そのゲストの名前はエレナー・スターン。女性の劇作家です。彼女はグレーヴスと話すうちにフェイ・ハリソン殺害事件に興味を抱き、彼と一緒になって事件の真相を究明することになります。その過程でグレーヴスは彼女に惹かれ、心を開くようになっていくのです。

  『彼女と別れてしまえば、あとはまたあの孤独のなかにー彼の内
   側に巣くっていることを彼女が見抜いたあの孤独のなかにー
   戻っていくしかなかった。いまや、生まれて初めて、それは耐
   え難いことに思われた。』

 しかし、頭のいい彼女は彼の言葉と態度から彼の姉の事件の真相まで見つけてしまうのです。エレナーに知られた時の彼の心の状態を作者はこう表現しています。

  『彼女の目はあくまでも深く、恐ろしい光をたたえていた。彼は
   自分の魂が、絞首台の床にぽっかりあいた穴に体が吸い込
   まれるように、すっと落ちていくのを感じた。』

 そして、ここから一気にラスト・シーンが始まります。ここまでにすでにフェイ殺しの犯人を知っている読者は最後にグウェン殺しの犯人をも知ることになります。

[深読みコーナー]

 この作品ではほとんどのページがフェイ・ハリソンの事件に割かれていて、グレーヴスの姉の事件は主人公であるグレーヴスの心理描写のなかの出来事のように扱われていますが、作者の本当の狙いはその逆だったことが最後に分かるという見事な仕掛けになっています。

 ミステリですので、作者は伏線をちゃんと敷いております。それはタイトルなのです。それは日本語版の「夜の記憶」からも推察出来ます。作者はエレナーにこう言わせています。

   「でも、フェイが死んだのは昼間だったのよ」

 フェイは明るい昼の間に森に入って行って殺されたのです。一方、夜殺されたのはグウェンです。その辺りのことを日本語版(文庫版)の表紙の絵はうまく描いています。上半分に日の光が当たっている森を描き、下半分は黒く塗りつぶし、夜の闇の世界を表しています。この作品の二重構造を一枚の絵の中に見事に描き込んでいます。

 原題はもっと踏み込んだヒントを残しています。

     『INSTRUMENTS OF NIGHT』

 これが原題です。直訳すれば「夜の道具」でしょうか。これだけでは何のことか分かりませんが、ペーパーバック版は表紙に写真でそれが何であるかを見せています。紀伊国屋や丸善、ジュンク堂などの洋書を扱っている書店のHPに入って、原題を打ち込んでみると、それが出てきます。

 その写真には「道具」が一つあるだけですが、「INSTRUMENTS」と複数形になっている所に鍵があるのです。つまり、「夜の道具」は一つではなく、いくつかあるということです。

 「夜の道具」というのは何なのかはネタ明かしになるので、これ以上は書けません。ご自分でお読み下さい。

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