『海外ミステリを読む』(4)
レイモンド・チャンドラー (1888ー1959)(4)
(主人公)私立探偵 フィリップ・マーロウ
(舞台となる街)ロサンゼルス
(主要作品)
「大いなる眠り」(1939)
「さらば愛しき女よ」(1940)
「高い窓」(1942)
「湖中の女」(1943)
「かわいい女」(1949)
「長いお別れ」(1953)
「プレイバック」(1958)
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「湖中の女」
(1)田中小実昌訳(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
私立探偵フィリップ・マーロウは化粧品会社の社長キングズリイ
から事件を依頼された。1ヶ月前、妻が湖の別荘から失踪して、
それきり行方をくらましている。情夫とメキシコで結婚するという
が来たが、その後二人がメキシコに行った形跡がないことが分
った。警察沙汰になる前に、探しだしてくれというのだった。マー
ロウはサンバーナディオの湖の別荘に足を向けた。湖は澄んで
静かだった。だが、その緑色がかった水の底に、マーロウは求め
ていたものを見つけたのだ!
チャンドラーの異色大作
(「ハヤカワ・ミステリ総解説目録」より)
(2)清水俊二訳(ハヤカワ・ミステリ文庫)
別荘の管理人が大声を上げて指さしたものは、深い緑色の水底
でゆらめく人間の腕だった。目もなく、口もなく、ただ灰色のかた
まりと化した女の死体が、やがて水面に浮び上がってきた。
マーロウは1ヶ月前に姿を消した、会社社長の妻の行方を追って
いた。メキシコで結婚するという電報が来ていたが、情夫はその事
実を否定した。そこで、湖のほとりにある夫人の別荘に足を運んだ
のだが・・・・独自の抒情と文体で描く異色大作
(同書裏表紙より)
この小説も前作と同じように田中さんと清水さんによる二冊の本があり
ます。この間の事情については「あとがき」で清水さんはこう書いていま
す。
『私が仕事をする時間がなくて、早川書房が私に話をして、小実昌さんに
お願いしたのだった。私はその後、「レイモンド・チャンドラー語る」と「レイ
モンド・チャンドラーの生涯」を仕上げて、作品の翻訳もそろえられるもの
ならそろえておきたいと思うようになった。異例のことであるのを承知の
上で、早川書房の了解を得て、文庫版を私の翻訳で出させてほしいと小
実昌さんに話をしてみたところ、快諾してくださった。
望外のご好意であ
る。改めてお礼を申しあげる。田中さんさえよろしいのならと私のむりを
通してくださった早川書房にも感謝しなければならない。』
一方の田中さんの意見も聞いてみたいと思って、田中さんの文章に一
通りは目を通してみたのですが、見つかりませんでした。ポケミス版の
「あとがき」も田中さんが書いていなくて、編集部が書いています。わず
かにこんな文章が見つかった程度です。
『「湖中の女」も「高い窓」もハヤカワ・ポケット・ミステリで翻訳させてもら
った。「湖中の女」はこれまたアメリカではたいへんに有名だが「高い窓」
は地味だけど、なかなかいい作品だ。チャンドラーの文章もすばらしい。
ミステリ・ファンでチャンドラー熱にかからない者はないとさえ言われて
いる。』
(「私の好きな海外ミステリ・ベスト5」より。1994・メタローグ社)
だが、これは外交辞令だったような気がします。田中さんはチャンドラー
よりハメットの方が好きだったんじゃないかと私は勝手に憶測しています。
少なくともチャンドラーに対して、清水さんのような惚れ込み方はしていな
かったと思います。
この作品はマーロウが依頼人のデレイス・キングズリーを訪れる場面か
ら始ります。料金はいくらだと聞かれたマーロウは返事をします。
『「一日25ドルに経費の実費。私の車のガソリン代が1マイル8セント」
「バカをいうな」と彼はいった。「話しにならんほど高すぎる。何もかもで1日
15ドルだ。ガソリン代は払うが、用事もないのに乗りまわすな」』
こんな細かい事を言っていますが、キングズリーは化粧品会社の社長で、
お金持ちなのです。ハリウッドがある為に化粧品の会社が伸びたという事
実に基いた設定なのでしょう。生活の為にハリウッドで働いたチャンドラー
はその辺りのことも詳しいのだと思います。
さらに、次の文章はキングズリーがいかに金持であるかを示しています。
『私たちのキャビンは村から3マイル離れてる。そこの湖も私たちのものだ。
リトル・フォーン湖だ。私たち3人で土地を開発するためにダムを作った。』
個人がダムを作るなどは日本では考えられないことです。
仕事は行方不明になっている妻のクリスタルを探して欲しいということで
した。ロサンゼルス近郊の山岳地帯ピューマ・ポイントの近くのリトル・フ
ォーン湖の辺にある別荘にいる筈の妻から電報が来て、メキシコで離婚
し、クリス・レイバリーという男と結婚すると言ってきたのだが、その男に
聞いたら、この二ヶ月間彼女に会っていないという。
ですが、依頼人が心配しているのは妻の安全ではなく、警察沙汰を引起
して自分に迷惑がかかることでした。
マーロウはまず、クリスタルのボーイ・フレンドのクリス・レイバリーが住む
ベイ・シティに行きます。この街はチャンドラーの作品には度々登場する、
ギャングと腐敗した警官の登場する街です。だが、レイバリーはこういって
否定します。
『「電報に何と書いてあるか知ってるが、そいつはでたらめだ。私はクリスタ
ル・キングズリーとエルパソに行っていない。もう永いあいだ会っていない。
電報の日付のずっと前からだ。あの女とはずっと連絡していないんだ。この
ことはキングズリーに話してある」
「彼は君のいったことを信じていないよ」』
レイバリーの家を出たマーロウはその向いに住む医師のアルバート・ア
ルモアが気になり、見張っていると突然、車で乗りつけた男がこの辺をう
ろつくなと脅します。アルモアが呼んだデガーモ警部補だったのです。
『ロサンゼルスに戻ると、カヘンガ・ビルに来ている郵便を見に事務所に行
った』
そして、このあと、ピューマ湖を通り、リトル・フォーン湖へと向います。「15
マイルのあいだに道路は5千フィートの高さまで上っていたが」とあります。
5千フィートは1500メートル程ですから、日本で言えば上高地の標高です。
ピューマ湖はアローヘッド湖、リトル・フォーン湖はビッグベア湖がモデルだ
そうです。日本語の観光案内書には「ビッグベア湖はダウンタウンから約1
30キロ、2時間少々のドライブで行ける、2千m級の山々に囲まれた高原
の湖で、現地の人にとっては絶好の週末行楽地」と書いてあります。
『ピューマ湖ダムは両端と中央に銃を持った警備兵がいた。私が最初にぶ
つかった警備兵は車がダムを通過する前に窓を全部閉めさせた。ダムか
らおよそ百ヤードのところにコルクのついたロープが浮いていて、遊覧ボ
ートがそれより近くに来るのをさえぎっていた。そのような小さなことのほ
か、戦争はピューマ湖に大した変化をもたらしていなかった。』
この作品は1943年つまり昭和18年の出版なのです。前回、その国の
警察組織を知ることによって、ミステリをより楽しめるようになると書きまし
たが、さらにもう1歩踏込んで、その街の地理や歴史を知ればより一層理
解出来るとも言えるでしょう。
例えば第2回目に取上げた「さらば愛しき女よ」の冒頭の「セントラル街に
は黒人だけが住んでいるわけではなかった」という1節ですが、1992年
の「ロス暴動」で悪名をとどろかせたサウス・セントラル地区は元々はこの
セントラル街に面した一帯を指していたのですが、黒人居住区の拡大と共
に、その指す範囲も広がってきたのです。黒人が住み始めると、白人が出
て行くというアメリカで繰返されているパターンがありますが、こ文章は「完
全に黒人街になったわけではなく、まだ白人も残っていた時代」のセントラ
ル街が描かれているのです。また、セントラル街をまっすぐ北へ向うとリトル
・トーキョーに達するわけですが、この時期には日本人は収容所に強制的
に移住させられた時だったので、リトル・トーキョーには日本人は一人もい
なかったはずです。ですから、この作品でマーロウが車で走り廻るロサンゼ
ルスは日本人のいない街だったのです。
このような知識はミステリを読むのには必要ないという意見もあるでしょう。
それはそれで正しいと思います。私が言いたいのは「たかがミステリ。され
どミステリ」ということです。読む人によって浅くも深くも読めるのです。
ロサンゼルスという街について少し勉強してみたいと思う方の為に2,3の
本をピックアップしてみました。興味のある方はお読み下さい。
「ロサンゼルス」(矢作 弘。中公新書1253。1995)
「越境者たちのロスアンジェルス」
(町村敬志。平凡社選190.1999)
「輝ける闇の都市ロサンゼルス」
(禅野靖司。NTT出版。1996)
この中で1冊を選ぶとすると、町村さんの本をお薦めします。他の2冊はこ
の街が現在置かれている状況についてが中心ですが、この本はこの街の
成立ちにもページをさいているからです。例えば、こういう文章があります。
『ロスアンジェルスは都市ではない。街路と建築と車両とうごめく大群集との
途方もない塊にすぎぬ。都市というものは、脈動する心臓部を中心に次第
に成長し、発達して出来た有機体である。だが、ロスアンジェルスには中心
がない。ロスアンジェルスには骨組も実体も表情もない。それは、はびこりひ
ろがるきのこに、肥大したくらげに、四方八方へとやたら触手を伸ばしてずっ
しりしたヒドラに似ている』
これは当時、この地で亡命生活を送っていたトーマス・マンの息子のクラウ
ス・マンの言葉ですが、この「ロスアンジェルスには中心がない」という言葉
は多くの人々が指摘していることで、今でも正しいと言われています。
リトル・フォーン湖の辺にあるキングズリーの別荘に着いたマーロウは早速、
管理人のビル・チェスに会います。そして、湖の辺でウィスキーを飲みなが
ら話しを聞出すのです。
彼の妻のミュリエルが家を捨てて出て行った日がクリスタルが別荘を出た
日だと知ったマーロウはさらにビルにウィスキーを勧め、話しを聞きます。
彼の話だとミュリエルは置手紙を残して出て行ったという。そのあと、二人
はキングズリーの別荘を調べに行きます。そこでマーロウは管理人にこう
尋ねます。
『あなたの奥さんとキングズリー夫人が一緒にで出て行ったということはあり
えないかね』
ビルはそんなことはないと否定します。別送を調べたあと、二人は湖の船着
き場に降りて行きます。
『あたりは平和に満ち、静かで、太陽の光があふれ、都会で味わうことの出
来ぬ静寂がみなぎっていた。私はデレイス・キングズリーと彼の妻と彼女の
ボーイフレンドについてのすべてを忘れて、何もせずに、ここで何時間もじっ
としていたかった。
いきなり、ビル・チェスが私のわきで「あそこを見なよ!」と山のような大声で
叫んだ。』
そこに二人が見つけたものは人間の死体でした。
『「ミュリエルだ!」と、彼の声がうす気味わるく響いた。「なんということだ、ミュ
リエルだ!」』
遺書があったが、マーロウは自殺ではなく、「あの女はあの女の過去の人生
の中にいた何者かによって殺された」と推理し、山を降り、再びベ
イ・シテイ
に向い、クリス・レイバリーに会いに行きます。ですが、そ
こには彼の死体が
あるだけでした。
こうしてマーロウは二つの死体を見つけたことで警察に睨まれ、痛めつ
けら
れながらながら犯人を追いつめて行きます。
この作品にはたくさんの警察官が登場します。職務に忠実な警官と悪徳警
官。過去の事件が絡んでいると考えたマーロウは掘り起し作業を始めます。
そうなると困る警官が出てきます。
マーロウを痛めつけ、留置場にぶち込
む警官。あるいはこういうことを
言う警官。
『警察の仕事にはいろいろと問題がある。政治によく似ているよ。人格識見、
申し分のない人間を必要とする仕事なんだが、そういう人間を惹きつけるも
のが何もない。だから、手持ちの駒を動かして仕事をしなけりゃならないん
で、こんなことが起きるんだ』
現在、ミステリのジャンルでは「警察もの」と呼ばれる作品の方が「私立探偵
もの」より人気があるようですが、この作品はその先駆となる要素を持ってい
るという見方が出来るかも知れません。
この小説では自宅と事務所のあるハリウッドは舞台にならないで、山の上の
リトル・フォーン湖と海のそばのベイ・シティが舞台の中心です。マーロウは
ダウンタウンは素通りして、リトル・フォーン湖とベイ・シティを行ったり来たり
します。この作品が「異色作」と呼ばれる由縁はこれらの幾つかの要素があ
るからではないでしょうか。
題名から推察できるように事件の鍵はリトル・フォーン湖に沈んでい
た死体
にあります。この湖や付近の土地がうまく描かれているのが、この作品の長
所の一つですが、それはチャンドラーがかってこの湖の
モデルとなったビッ
グベア湖の辺で暮したことがあったからです。
この作品について、マクシェインは「レイモンド・チャンドラーの生
涯」の中で
こう書いています。
『いままでのチャンドラーの長編の中で最もよい売れ行きを示したが、彼が「さ
らば愛しき女よ」によって獲ち得たものから大きく踏出す1歩にはならなかっ
た。
「高い窓」よりはすぐれていたけれど、初期の作品に見られたひらめきが欠け
て
いた。』
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(この作品の中の洒落た文章と会話)
「君の態度が気に入らんね」と、キングズリーはアーモンドの果を砕いてしまい
そうな声でいった。
「かまいません」と私が言った。「そいつを売っているわけではないんで」
「何を言ってるんだ。俺はあの女とどこにも出かけてないと言ったろう。どこにも
だ。覚えていないのか」
「私は私が信じることだけ覚えてる」
「お前さんは頭がどうかしてるよ。誰かが殺したようにみせかけて自殺するなん
て、普通の人間には考えられないことだよ」
「人間についての考え方が浅いからさ」と、私は言った。「今までにも行われた
ことがあるんだ。そして、ほとんどすべての場合、女によって行われてる」
「何故かなんて考えませんよ。あらゆる人間にあらゆる質問をするのが私の仕
事です」
「私をどんな女と思ってるの?」と彼女は切り口上でいった。
「私は登場するのが遅かったんで、言えないな」
彼女は顔を赤くした。だが、腹を立てたわけではなかった。
「この街は大掃除がすんで、きれいになったと思ってた」と、私はいった。「善良
な市民が防弾チョッキをつけないで夜の街を歩けるようになったと思っていた
よ」
「いくらかきれいになったね」彼はいった。「きれいになりすぎると困るんだ。汚
れた札がよりつかなくなるからね」
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(関連HP)「レイモンド・チャンドラーの世界」
http://www1.neweb.ne.jp/wa/phil/
(チャンドラーの全体像が掴める、とてもいいページです。)