back  top

 『海外ミステリを読む』(3)

      レイモンド・チャンドラー (1888ー1959)(3)

      (主人公)私立探偵 フィリップ・マーロウ
      (舞台となる街)ロサンゼルス
      (主要作品)
          「大いなる眠り」(1939)
          「さらば愛しき女よ」(1940)
           「高い窓」(1942)
            「湖中の女」(1943)
           「かわいい女」(1949)
           「長いお別れ」(1953)
           「プレイバック」(1958)
 ------------------------------------------------

 「高い窓」

            (1)田中小実昌訳(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
       私立探偵フィリップ・マーロウが,暑いパサデナで依頼された新
      しい仕事は、時価1万ドルといわれる初期アメリカ古金貨の行方
      をたずねることだった。
               門外不出の家宝の古金貨が持出され、秘かに売りに出されたと
      いうだ。 依頼人のマードック夫人は、気に入らぬ歌手あがりの息
      子の嫁を疑ってた。.
      しかし、マーロウの勘はこの家族のなかに、それだけでない複雑
      な謎が、不吉なものをはらんでうごめいているのを嗅ぎ付けてい
      た。 
            (「ハヤカワ・ミステリ総解説目録」より)
     (2)清水俊二訳(ハヤカワ・ミステリ文庫)
       パサデナの裕福な未亡人の依頼は盗まれた家宝の古金貨を取
      戻してほしいというものだった。夫人は息子の嫁を疑っていたが、
      マーロウは家庭にはそれだけではない謎があるのを感じとった。
      傲慢な夫人と生活力のない息子、黒メガネの男。やがて事件の
      関係者が次々と殺されていき、マーロウの前には事件の意外な
      様相と過去の出来事が浮び上がってくる。
             (同書裏表紙より)  

    この小説には同じハヤカワから、別の訳者による二冊の本があります。
    ハヤカワでは最初にポケミスから発売して、その数年後に同じものを文
    庫に入れるというパターンが通常なのですが、これは訳者を代えるとい
    う特殊なケースになっています。訳者と出版社の間で少し事情があって、
    こういう事態になったようですが、このことはこの小説の日本における評
    価に微妙な影響を与えたのではないかと私は思っています。
     もし、ポケミス版で読んで、この作品がチャンドラーの他の長編に比べ
    て出来が悪いと感じた方は清水さんの訳で読み直すことをお勧めしま
    す。田中さんの訳が体質的に合わないという方やあるいは清水さんの
    訳で何冊か読んでいるので、田中さんの訳に違和感を覚える方もいた
    と聞いています。
     この作品は欠点はあるものの、他の作品と比べてそんなに悪い出来で
    はないと私は思います。二人の訳者の一番の違いは語り手を田中訳は
    「おれ」と訳し、清水訳は「私」とした点です。「おれ」と「私」では動詞が違
    ってきます。動詞が違えば当然、助動詞が違ってきます。つまり文章その
    ものが違ったものになるということです。今回はこの二つの訳の違いとい
    う点に重点をおいて、読んで行きたいと思います。訳者の名前がない部
    分は清水訳で、ポケミス版からの引用には「田中訳」といれます。

   『その邸はパサデナ市オーク・ノル地区のドレスデン街にあった。バーガン
   デイ 風のレンガづくりの壁、テラコッタ・タイルの屋根の白い石を使った縁
   飾りが目 につく、冷たい感じの大邸宅だった。一階の正面を向いた窓に
   真鍮の枠がついて いた。二階の窓にはカテージ風で、ロココを模した石
  細工の飾りがめぐらせてあ った。』 

     これが冒頭ですが、これが田中訳ではこうなっています。

   『その家は、パサデナ市のオークノール・セクションにあり、ドレスデン・アヴ
    ェニューに面していた。ワイン・レッドのレンガ壁に、白い石でふちをとった
   赤褐色のタイルの屋根、大きな、がっしりしたつくりの、おちついた建物だ。
   階下の窓枠には鉛をつかい、二階の窓は山荘風で、ロココ式まがいの石
   材の飾りがや たらについていた。』

      同じ文章でも、訳者によって、このように違ってくるのです。パサデナ
     が舞台になるのはこの作品が初めてです。前の二作では登場してな
     いと思います。パサデナはロサンゼルスから北東へ15キロ程離れた
     街です。ここは古くから高級住宅街として開けた街ですが、今ではロ
     ーズボウルが開催される場所として、日本でもポピュラーになってい
     ます。L..A..のダウンタウンからは車で15分で行けます。   

     マーロウはその屋敷に到着し、依頼人のマードック夫人に面会を求め
     ますが、その前に「貝殻縁のめがねをかけた、痩せて、ひよわそうなブ
     ロンド娘」、マール・デイビスが現れます。マードック夫人の秘書です。
     そのあと、マード ック夫人と面会になります。

    『私は藤椅子に腰をおろし、まだ、火をつけてないタバコを上着の外ポケ
    ットのハンケチのうしろにさしこんだ。 
    「私はいままで、私立探偵を頼んだことがないのです、マーロウさん。私
     立探偵 については何も知りません。あなたの身元は申し分ないようで
     す。料金はいくら なのですか」
    「何をするのですか、マードック夫人」
    「いうまでもなく、ごく内密のことです。警察にまかせるようなことではない
    のです。もし、警察にまかせていいことだったら警察にたのんでいます」
    「一日25ドルです、マードック夫人。もちろん、そのほかに経費を」
    「お高いようですね。ずいぶんお金になるでしょ」
   彼女はまたワインを啜った。 私は暑いときはワインを飲みたくないが、す
   すめられて断るのはわるくないのだ。
    「いや」と私はいった。「金にはなりません。もちろん、金をそんなに払わな
    い で探偵を雇うこともできます。弁護士と同じです。歯医者もそうでしょう。
    私は会社で働いているのではなく、一人で仕事をしているのです。一度に
    一つの事件 しか事件を引受けません。危険をおかすこともあって、ときに
    は命がけの危険を おかし、そして、いつも働いているわけではないんです。
    一日25ドルは高すぎ ると思っていません」』

      一日25ドルという値段は「大いなる眠り」と時の値段と同じです。この
      部分の田中訳はこうなっています。

    『おれは、よし細工のゆり椅子に腰をおろし、とうとう火をつけないままのタ
    バ コを、上着のポケットのハンカチのうしろにつっこんだ。 
    「私立探偵には、今まで一度も用はなかったので、あんたなんかのことは
    なにも 知らない。しかし、あなたの保証人は、一応、ちゃんとしているよう
    ね。で、料 金のほうは?」
    「どんな調査なんです、ミセズ・マードック?」
    「もちろん、とても内密な調査。警察沙汰はこまります。警察にわかっても
    かまわないことなら。とっくに、警察に電話してるわ」
    「日当が25ドル。それに、むろん、経費もいただきます」
    「高いわね。ずいぶん、いいお金になるでしょう、マーロウさん?」
   ミセズ・マ ードックは、またポートワインを喉にながしこんだ。夏にはポート
   ワインなんか ほしくはない。だが、飲ましてくれないとなると、いい気分で
   はなかった。
    「いいえ、高くはありません。しかし、どんなに安い料金でも、こういった調
    査 をする者はあるでしょう。ちょうど、弁護料にもいろいろあるように。歯
    の治療代だっておんなじかな。ぼくはフリーの私立探偵で、たったひとり
    でやっています。だから、いっぺんに、一件以上の調査はしません。必要
    な時には危険な調査 もやる。そうとう危険なことも。それに、一年中、仕
    事をしてるわけじゃありま せんからね。25ドルの日当は、けっして高くは
    ないでしょう?」』

     読む人の好みによって、どちらの訳が好きかという問題は当然出てくる
    でし ょうが、清水さんの訳でチャンドラーの作品を読み慣れて人には違
    和感が出 るのもやむをえないことでしょう。

     仕事というのは夫の遺品のコレクションをナイト・クラブの歌手だった、息
     子の嫁のリンダが盗んで家出したので、それを取戻したいということだっ
    た。 盗んだコレクションというのはブラシャー・タブルーンという「アメリカ初
     期のコインの中でもっとも興味があり、もっとも貴重なコイン」で、1万ドル
    値打があるものだった。 
    この作品をチャンドラーは「ブラシャー・タブルーン」という題名にして、出
    版社に渡したのですが、出版社では書店の店員がブラシャーをブラジャ
    ー と発音する心配があると言って反対したと、フランク・マクシェインの
    「レイモンド・チャンドラーの生涯」には書いてあります。
    そこで、チャ ンドラーは仕方がなく、第2案として「高い窓」というのはどう
    でしょうか と提案したそうです。

   『「高い窓」というのはどうでしょう。簡単で、暗示的で、重要な手がかり を示
   しています』 

    マーロウが仕事を引受けて、事務所に戻るとすぐ、マードック夫人の息子
    のレズリー・マードックがやってきます。事務所の場所はカヘンガ・ビルの
    6階となっていますから、「さらば愛しき女よ」の時と同じ場所のようです。
    自宅はあとの方でブリストル・アパートメント408号室と出てきます。

    レズリーは妻のリンダのかっての雇い主で、ナイト・クラブの経営者のアレ
   クス・モーニーに1万2千ドルの借金があることを打明けます。
   調査を始めたマーロウはまず、モーニーの妻のロイスがリンダと友達だった
   ことを突きとめ、会いに行きます。モーニーは留守でしたが、ロイスのそば
   にはボーイフレンドのバニヤーという男がいます。 

  『バニヤーはいまいましそうに私を見た。「さあ、いいなよ。どんなことだか知
   ら ないが」
   「この娘さんに話すのかね」と私は問いかけた。「それとも、君に話して、君
   が それを英語に直すのかい」』

    さらに、自分を尾行している同業者のジョージ・アンスン・フィリップスとい
   う男を問詰め、彼のアパートで話し合うことになります。その前に、問題の
   金貨を手に入れたイライシャ・モーニングスターという名前のコイン商と会
   って1千ドルで買戻す交渉をします。その時の会話を一つ取上げてみます。
    マーロウがモーニングスターにその金貨の説明をして欲しいと頼むと、コ
   イ ン商はどの程度の知識があるのだとマーロウに聞きます。すると、マー
   ロウ はこう答えます。

   『私がアメリカ初期のコインについて知らないことはローズ・ボールをいっぱ
   いにするくらいありますよ』

     田中訳ではこうなっています。

   『いや、ぼくは、初期のアメリカ貨幣のことなんか、なにも知りません。ロー
   ズボールのフットボールゲームの観衆のなかに紛れ込んだ者を見つける
   みたいに、ぼくにはやっかいなことです』

    パサデナでのローズ・ボールはこの当時すでに全米に知れ渡っていたと
   いうことなのでしょう。とにかく、交渉は成立し、マーロウはお金を持って戻
   ってくることにして、一旦、辞去します。その足で、フィリップスのアパートを
   訪れたマーロウは死んでいる彼を発見します。
   さらに、このあと、モーニングスターも殺されてしまい、マーロウは警察との
   関係で危ない立場に立たされることになります。
   マーロウはマードック夫人の邸宅を訪れて、どうしたらいいのかを話し合い
   ます。

   『夫人はグラスに手を延ばして、中のワインを飲干した。「あなたは面倒な事
   態 をつくってしまったようですね」と彼女はいった。「あなたは私の息子の嫁
   を見 つけ出していないし、私のブラシャー・タブルーンも見つけ出していな
   いのです。 その代りに、私とは何の係りもない二人の男の死体を見つけ出
   して、私があなた がつくった面倒な事態からあなたを守るために私の世間
   に知られたくない仕事や 個人的なことを警察にしゃべらなければならない
   のです。私にはそうとしか思え ません」』

    マーロウはこう返事をします。

  『 殺人がすべてを変えたのですよ、マードック夫人。殺人事件を捜査してい
   るのに、何もいわないで黙り続けているわけにはいきません。われわれに
   はあなたが なぜ私を雇ったのか、何をさせようとしたのかを話さなければ
   なりません。』

    しかし、二人の話し合いは平行線をたどり、とうとう喧嘩別れになります。

  『そのうちに顔色が変り、唇が固く結ばれた。その唇と歯の間から老婦人が
  いっ た。
  「私はあなたのその言分が気に入りません。全然気に入りませんよ」
  「無理もありませんな」と私はいった。「私だって気に入らないんです。何一
   つ気に入っていません。この邸も、あなたも、息苦しさも、あの小娘の搾ら
   れきった顔も、意気地のないあなたの息子も、それからこの事件も、この
   事件について 私がまだ聞かされてない事実も、私が聞かされた嘘も、そ
   して---
   突然、老婦人が怒鳴り始めた。しみだらけの怒った顔から大声が飛出して、
  双方の目が憎しみに燃えて怒り狂った。「出てお行き!たった今この邸から
  出てお行 き!今すぐにだよ!出て行くんだ!」
   私は立ち上がって、床においてあった帽子に手を伸ばしていった。「喜んで
  出て行きますよ」 私は疲れた流し目といったような視線を老婦人に投げつけ、
  ドアの方に歩き、ド アを開いて、部屋から出た。』

    だが、出て行ったマーロウのあとを、秘書のマール・デイビスが追い掛け
   て来て、こう言います。

  『お願いです、マーロウさん。奥様は困難な立場に立っていらっしゃるんです。
   あなたが必要なんです」
  「私だって困難な立場に立たされているんだ」と、私は大きな声を出した。
  「耳 だぶまで困難な立場に漬かってるんだ。何だって君は泣いているんだ」
  「私は奥様がとても好きなんです。気が荒く、どなり散らすことは分ってます
  が、心の中は純金のように美しいんです」
  「夫人の心の中なんかどうでっていい」と、私はいった。「心の中がどうだって 、
  考えが分るほどあの女と親しくなりたくない。あの女は面の皮の厚い大嘘つ
  き だ。これ以上あの女と係りを持ちたくない。困った立場に落込んでる事は
  事実だ ろうが、私は発掘作業を仕事にはしていない。ほんとの事を話しても
  らわなきゃ 仕事にならない」』

   マーロウが依頼人に対してこんなに怒るのは初めてです。怒ったものの、
  この事件の調査は続けるのです。そして、ここから事件は全く別の展開を
  見せ、ラストへと向うのですが、それはルールとして書くわけには行かない
  ので、目についた文章のピック・アップに止めます。

  『でも、女は生きなきゃならないのよ。それはわきから見ているほど、楽なこ
   とではないのよ。だから、過失を犯して、性に合わない家の間違った男と
  結婚することになるんだわ。そこにありもしないものを求めてよ。例えば、
  生きて 行く保証よ』

  『君を抱上げて、寝椅子に寝かせてもいいかね。私を知っているだろーマ
  ーロ ウだよ。くだらない質問をして歩いている大馬鹿者のね』

  『「私の引下り方はいつも同じなんだ」と、私はいった。「空しい微笑を見せ、
  軽く手首を振る。そして、この世で二度とあんたに会うことがないようにと、
  心の底から祈る。おやすみ」』

  『家が視界から消えるにつれて、私は奇妙な感じにとらわれた。自分が詩
  を書 き、とてもよく書けたのにそれをなくして、二度とそれを思い出せない
  ような 感じだった』

   この作品を読み終えての最初の印象はマーロウがいつもより怒りっぽい
  ことです。客に対してだけではなく、警察に対してもそうです。

  『君たちが自分たちの魂を自分のものにするまで、私の魂を任せるわけに
  はい かない。君たちがどんな時でも、どんな場合でも、いつも信頼できて、
  あくまで真実を求めて、真実をつきとめ、他人がどういおうと構わぬという
  のなら、別だ。その時が来るまで、私は私の良心に従って動き、私の依頼
  人を全力をつ くして守る権利がある』

   ミステリを読むことによって、その国の警察組織を知ることが出来ます。    
  小説ですから、多少の誇張もあるでしょうし、嘘の部分もあるでしょう。そ
  れを見分けるというのもミステリの楽しみ方の一つでしょう。今、日本の
  警察組織で問題になっているキャリア組の問題などはミステリの世界で
  はとっくの昔から描かれていて、「ああ、あの話は現実のことなんだな」
  と納得した方もおられるでしょう。そういう風にミステリが先取りするとい
  うこともあるのです。
  チャンドラーの描く腐敗したアメリカの警察は現実のことなのでしょうか。
  ここに1980年にある警察署の本部長だった男の手記があります。
  彼は「私は自分の妻を5回も逮捕しました。妻が法を犯せば逮捕されま
  す。他の人と変りません。私達は法の番人なのです」という男です。
  こういう男が本部長になり、警察内部の改革を始めたのです。

  「本部長は引継ぐ時、一つの重大な決心をしなければなりません。市
  民にサービスするつもりなのか、それとも同僚にサービスしたいのか、 
 です。両方というわけにはいきません。同僚のほうなら、賃金の値上げ
  をし、昇進させ、同僚の生活を楽で、便利にすることになります。金曜
 日や土曜の夜は働かせられません。契約書の項目はすべて、保護す
 るものでなければならないわけです。すでに、警察は、仲間の幸せと
 都合をよくするためのものだという信仰が出来上がってたんです。」
      「アメリカの分裂」スタッズ・ターケル(1990年。晶文社)

  市民よりも仲間が大切だという感覚が結局、腐敗に繋がるのではない
 でしょうか。1980年でこれですから、チャンドラーが描いた1940年代
 がどんなだったのかは想像がつくのではないでしょうか。

  チャンドラー自身はこの作品について、こう書いています。

  「高い窓はとくに問題になるほどのできばえの作品ではありません。
  私の他 の作品より気に入ってという読者がいますし、あまり気にい
  らないという読 者もいます。しかし、どっちにしても、大声で騒ぎ立
  ててはいません」

 訳者の清水俊二氏はこの作品を最後まで完成させることが出来ずに他
 界され、 最後の部分は戸田奈津子氏が完成させたそうです。
 -------------------------------------------------------------
   (関連HP)「レイモンド・チャンドラーの世界」
      http://www1.neweb.ne.jp/wa/phil/
    (チャンドラーの全体像が掴める、とてもいいページです。)

                 back      top