●report8. 前田青邨 作 紙本著彩『赤絵』
フォクシングの漂白と再表装◇作 品:前田青邨 『赤絵』 紙本彩色掛軸装1点(大和表装/二重箱太巻添軸付)
◇寸 法:修復前作品実測/幅536〜539×丈380〜382ミリ 修復前表装/幅700〜703×丈1450ミリ
修復後作品実測/幅536〜537×丈381〜382ミリ 修復前表装/幅699〜700×丈1455ミリ
*作品寸法は表装後に計測。新規表装は左右天地辺の誤差を付回し(表装裂地糊代)下で調節した。
■修復前の状況
1.作品組成
本作品は絹織物(料絹/絵絹)を基底材料とし、膠を接着剤とした天然顔料と金泥等を用いて製作された絵画作品である。描画部分の絵具は、平均的にさほど厚くは塗られてはいないが、しっかりと丁寧に重ねられ、白と赤を主体とした顔料の鮮やかな色彩の対比を生かし、金泥のぼかしによる大きな空間と清楚かつ大胆な構成が効果的に主題を際立たせ、強い印象を与える作品となっている。2.装幀
作品は、大和表装(別称:三段表装)の掛軸装が施されていた。収納は太巻き添え軸を利用する容積の大きな桐材の印篭箱に、漆為塗の二重箱となっている。収納箱の蓋表には『赤絵』の画題、蓋の内側には作者のサインが揮毫され落款が押されていた。
3.損傷状況
本作品の顕著な損傷として、画面の広い範囲に淡い茶褐色の斑点状の変色、汚損が発生していた。拡大鏡下の観察においては、この部分は毛羽立ち、隆起するようになっており、黴の発生を確認する事ができた。紫外線を照射した観察においては、通常光下では確認できなかった部分にも黴の発生箇所と同様の反応を認めた。なお、この汚損、変色は総じて、表面に見られるのとほぼ同じ位置の裏面にも観察する事ができた。作品の描画部分においては、一部に若干不安定な箇所(一部はわずかに欠失か)も見当たるが、全体に絵具の定着は良好であった。
表装には顕著な損傷は見られないが、表装裂地に光による退色と錦糸などに錆の発生が認められた。また、表装上部の八双の付け根、下部軸棒の付け根にわずかな裂地の亀裂が認められた。表装の裏面は、上部にある上巻絹に汚損が顕著であった。
収納箱は、とくに外箱の内壁に黴が発生していた。さらに太巻き添え軸にも茶褐色の汚損があり収納時に接触する表装の下部に同様の(表装の天地の"地"の部分)汚れが認められた。
◎UV画像 (白く斑点状に見える部分に黴、変色が見られる) ◎透過光画像(不自然に光が通る部分に料紙の層間剥離があった)
4.処置中の発見
作品を表装より分離した後、透過光線による観察を行うと、画面左側、描かれた皿の上部に料紙の破損と剥離損傷(写真画像で白く光が透けているところ)、右下果実の左脇に料紙の亀裂を確認した。
◎前田青邨 1885-1977(明治18-昭和52)
日本画家。岐阜県中津川市に生まれる。本名廉造。1901年上京して梶田半古の門に入る。2歳年上で塾頭の小林古径を知り、以来行動を共にする。同門下で研究に励む一方で、国学院大学で古典文学を学ぶ。1902年17才で第十ニ回日本絵画共進会展に『金子家忠』を出品、三等褒状を受け、より梶田半古より"青邨"の号をもらう。その後、今村紫紅、安田靫彦らの紅児会に加わり、新しい歴史画の研究に進み、1912年、岡倉天心の示唆を受けて製作した『御輿振』(みこしふり/絵巻物)を第六回文展に出品、三等賞を受け画名を知られるようになった。1914年再興日本美術院に参加し、その第一回院展に『竹取物語』(絵巻)と『湯治場』を出品、会期中に同人に推挙された。このころから彼の個性的な感覚と画面構成のおもしろさは注目され、『京名所八題』の『先斗町』の大胆な俯瞰法は、岡本一平の漫画でも評判になった。
1922-1923年小林古径と共に渡欧、イタリア、イギリス、エジプトなどを歴遊し、帰国後、院展に『伊太利所見』『洞窟の頼朝』と相次いで習作を発表。1930年製作の『罌粟』(しけ)で琳派の新しい解釈、宮中献上の『唐獅子』(1935)では金銀箔を用いた単純明快な独特の表現をおこない、1935年頃からは"たらしこみ"技法を多く用いるなど、闊達な鉄線描を生かした独自の様式を確立させ、不動のものにして行った。
第二次大戦後、1951-1959年まで東京芸術大学教授。1955年に文化勲章受賞。1942年安田靫彦と共に法隆寺金堂壁画再現事業の総監修にあたり、1947年高松塚古墳壁画模写の総監督となる。資料参考:岡倉天心と日本美術院展(1982年/カタログ/朝日新聞社主催) 日本美術史事典(平凡社)
絵画・美術工芸品・文化資料の保存修復 中塚祐松堂
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