●report2. 歌川豊国 作 浮世絵版画
製本された115点の浮世絵版画の解体〜修復と保存処置
修理前の作品の全景写真(表裏) 作 者:歌川豊国
作 品: 紙本多色刷木版画(板目木版)
修復前の状態:和とじ本装幀(表紙無し、あるいは欠失) 1点(58丁/115点)
サ イ ズ :修復前の作品実測値/ 幅 246〜259 × 高さ 363〜367ミリ
◎作品について
本作品は、歌川豊国作 木版画(浮世絵)115点。いずれも薄目の奉書紙に平版(板目)による多色刷りが施されている。作品の中に、浮世絵に享保年間から用いられたとされる紅色が見られること、作品中に『香蝶棲』の号が見られることから、三代目豊国(実際は四代目といわれる/初代国貞、別号香蝶棲)による制作と思われる。版元は和泉屋市兵衛(甘泉堂)、山城屋藤衛門(洛藤舎)、若狭屋与市(若林堂)等が見られた。なお、本作品群の中には国貞、国政(四代目豊国)の号記された作品も見つかった。
本紙(料紙)の寸法は、当時、浮世絵版画に最も多用された一般に大奉書(大判)と呼ばれるものに相当するものと思われるが、作品をまとめ、裏打処置、製本の際に裁断を行っており、変型している。◎旧装幀の特徴
現在作品は2点の作品を背面合わせに古い大福帳などと思われっる反古紙を挟んで裏打。これを1丁(1頁)とし、全58丁(ただし最表の作品より数えて69番目の作品が欠失しており総作品数は115点)。作品より意図的に大きく作った裏打紙の余白を綴じ代とし、和綴じにして和本様式の装幀が施されている。なお、各丁(頁)間は作品同士が接触する形になっていた。
装幀に表紙はなく、表裏とも作品がむき出しの状態であった。◎修復前の損傷状況
作品は製本後、多くの時間鑑賞されていたようで、とくに作品の先端、隅には汚れが目立ち、擦れによる欠失、折れ損傷などが認められた。本として装幀されることによって、多くの作品が離散することなく、光による破壊や、外気による変色、汚損もある程度防ぐことは出来たことは幸いであったが、この装幀形態によって作品の画面がお互いに接触し、各丁(ページ)同士が湿度などの影響によって癒着し、摩擦による損傷、汚損、絵の具の転着等が発生し、結果的に大きなダメージを与えていることは明らかであった。
製本された作品の、前から数ページと、後ろから数ページは損傷が大きく、とくに表と裏の作品は表紙がないために大破した状態であった。製本された作品の内、内部(頁中程の)の作品は、光や空気に曝露されなかった分、比較的に損傷は軽微であった。描画部分の絵の具、色素は、製本、不用意な裏打ち処置によって、多くの作品が裏打紙に絵の具を吸収されてしまい、また逆に、裏打ち紙に粗悪な反古紙を用いたため、この反古に書かれた文字が作品背面より転写したものもあった。さらに最悪の場合、反対側に張られた作品の表面にその絵の具、描画一部がしみ込んで浮き出ている。墨による悪戯描きと思われる損傷を受けた作品も数点あった。
作品中には、裏打ち、製本前にすでに損傷をしていたと思われる作品もあり、これらの作品は、料紙が部分的に薄くなっていたり、破損等も認められた。一部の作品に黴等微生物による損傷、虫喰い損傷も認められた。
○歌川豊国
別号一陽斎、本名を倉橋熊吉のち熊右衛門。父は五郎兵衛という江戸芝神明町の木彫り人形師、歌川豊春の門に入り、さらに清長、歌磨の長所を取入れ、はじめは美人画を描いていたが、寛政五年頃から役者絵に転向。写楽を研究し、誇張的で奇異を感ずる彼独特の技量を発揮したが、写楽の役者絵に比べて画品と芸術味に欠けていた。しかし、その努力と手腕は浮世絵後期の全盛を招いた。国重、国貞、国芳等多くの門人を輩出した。
文政八年没(1825) 行年57歳○二世豊国
別号一竜斎、一瑛斎、後素亭。初号を国重、豊重、通称を源蔵。後に一世豊国の養子となり、初世豊国没後文政九年(1826)より天保三年頃(1832)まで豊国の名を継いだ。
本郷春木町に居住していたので、本郷豊国と称せられていたが、同門中より意義が出て、同門歌川国貞が二代目を名乗ったので、再び国重と改名をした。
天保六年没(1835) 行年59歳○三世豊国
初代歌川国貞の別名で、自らは二世と称したが、実際は三世になる。
○四世豊国
二世歌川国定と同人で、別号は梅堂、香蝶棲。本名は竹内宗久。三世豊国(初代歌川国貞)の門に入り始め三世国政を名乗り、24歳の時に二代目歌川国貞と改名、さらに師匠の三世歌川豊国(実際は四世となる)を称した。
明治十三年没(1880) 行年58歳
絵画・美術工芸品・文化資料の保存修復 中塚祐松堂
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