修復家の私考  〜 伝統・文化・芸術、そして文化財修復の世界 〜


◆補 彩 術 再 考

補彩とは、簡単に説明すると、絵画など彩色のある作品に絵の具の剥離や欠損が生じた場合、途切れた線や色面を補うために新たに描線、彩色する修復作業を指す。目的は鑑賞性(簡単に見た目)の回復、向上に他ならない。このサイトの別のページでも補彩の技術や考え方について触れた(補彩のアプローチと方法)が、とくに東洋絵画の補彩は倫理、技術面の双方から観て処置が難しく、現在、指定文化財の修復現場では基本的に補彩はせず、基底材の欠損部を補填した場合に限り補填した材料をオリジナルの基底材の現状の色合いに染めるか彩色する(描画部中の補填箇所も同様の処置に留めて彩色、描線はおこなわない)。今年度文化財保存修復学会の研究発表会でも、東洋絵画の修復は『かくあるべし』と言わんばかりに、この正統性を説くいくつかの発表があったが、私は最近、この考え方に疑問を持っている。

欠損部に補填する基底材の染色や彩色は、色合いや風合いが異なる材料が図像のバランスを崩すため、観る者が修理箇所に視線を滞らせる事なく、全体の表現をバランス良く、スムーズに鑑賞出来るようにするための修復処置として認められている。では、明らかに連続している事の解る描線の断絶、色面の欠損を巧みに描線し、彩色して補うことは、どうして認めないのだろうか。それは、それほどまでに絵画の信憑性や信正性に問題や危機をもたらすのであろうか?
確かに、残存する描画上やオリジナルの基底材料に絵の具を上乗せすることには(本当はいかなる理由があってもしてはいけない行為であろう)明らかな問題、オリジナリティーへの抵触を認めるが、基底材を充填した部位はすでにオリジナルなものではないものを加えた状態になっており、そこに線をひかない、色を塗らないことが信憑性や信正性の確保になると考えることは、いささか恣意的な見解であり、勝手な解釈とは言えないだろうか。科学的に、物質的に観て、基底材料(支持体)が欠損部を補う事と、描画、描線の欠失を補う事の、いずれもオリジナルに何かを加える行為の何処に差異があり、その正誤があるのだろうか。補彩をしないのであれば、基底材の補填もしない。いっそ全ての実処置はせず、朽ちて行くのを待つ。オリジナリティーというものを、科学的に突き詰めれば、それは確かに、人と自然界の中にある物質として、全てはいつか朽ち果てるという要素もまた在りはしないだろうか。(修復家がそれを言っちゃあオシマイ?)

日本よりははるかに長く、修復を学問としてとらえて来たヨーロッパでは、補彩の研究、哲学のあり方が追求されて来た。オリジナルの残存箇所と、補彩の部分を区別する事がオリジナリティーの保護と考え、補彩技法、筆致を様々に変え、材料を変え、可逆性(修復によって加えたものが後日安全に除去出来ること、修復以前の状態に戻す事が出来る事)も追求してきた。日本でも近年はこの技術、方法、哲学を学び、今日に至っていると思う。
しかし、科学技術の発達した現在では、可逆性を(その保証は管理や利用状況によって異なり、実はバーチャルな試験による保証でしかないが)確保しておけば、どんなにオリジナルと寸分違わぬ補彩をしたところで、簡単にその区別分別は可能になっているのではないだろうか。処置前の現状を一つの情報として知らせる必要があると思うならば、修理箇所を明らかにするように写真画像を提示しても良いだろう。果たして、一利用者が、多くの鑑賞者が、そこに差異を確認できることを求めているのだろうか、、、。

過日開催された文化財保存修復学会の研究発表の中に、東京国立博物館に勤務する*Valerie Leeさんらによる浮世絵に関する展示、補彩例が紹介された。研究発表者は作品の裏面にのみ作品サイズよりわずかに大きく裁断した厚紙をつくり、これに作品を固定し、虫食いの穴など、欠損した部位に対しては補彩も作品に直接おこなわず、固定した厚紙に描線や彩色をおこない、欠損部から除いて見える色や線によって鑑賞性が補われる事になる。一般に、浮世絵の類いの木版画は、絵の具の定着が脆弱で、わずかな水分にも反応する(絵の具が滲んだりする)。欠損部への料紙の充填地に用いる接着剤や、補彩時に利用する絵の具に含まれる水分も問題になるので、作品本体には何も加えないこの修復方法は、鑑賞性にもそれなりの貢献をし、先述の理念にも忠実な方法と言えるだろう。しかし、オリジナルの高い保護性能を唄うこの処置方法からも、見えてくるのは鑑賞性の追究。私達は、鑑賞者として、欠けた線や失った色をイメージせずにはいられない。それを知らない、理解できない修復家はいまい。
この、たぶん人が高度な視覚能力と偉大な想像力を持ったが故に、私達が求める自然なる欲求を、昨今の修復家は過剰に警戒し、いたずらに否定さえしているように思う。保存科学の研究者や修復家は良く、解らない、出来ないから実行動、実処置を避け、行使せず棚上げし、未来に託すという。けれど、修復の世界にも多大なる恩恵をもたらしている現代科学は、今や加速度をつけて日進月歩しているし、私達修復家は問題を抱えながらも、現代の人々と社会が望むできうる限りを付くし、さらに発達した未来の人々にそれを託す事も出来るのではないだろうか。私達修復家は、常にその経験と知識を総動員して、その時に考えられる限りの最善を尽くしている(そうに違いないと思う)。しかし、それはあくまで人と社会のためにあり、私達の小さな専門家社会の中でのみ練り上げた哲学や理念を追求するために、その顕現を目的とするものではないと思う。もしそうであるならば、私達の社会的支持はなくなり、私達の存在価値も消失する。私達は人と社会が求めているからこそ意味があり存在しているのではないか?

修復の歴史を紐解けば、そこには大きな功績と大罪が堆積しているように見える。しかし良く観れば、そこには常に誰かの、どこかの社会(簡単に人の集まり、組織でもよい)の求めに応じた努力と真摯な姿勢の結果とも捉える事もできるだろう。

*参考:2006年第28回文化財保存修復学会 第28回大会研究発表要旨集73頁 
『浮世絵の保存修復と展示に関する新しいアプローチ』 Valerie Leeほか


絵画・美術工芸品・文化資料の保存修復 中塚祐松堂

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