修復家の私考  〜 伝統・文化・芸術、そして文化財修復の世界 〜


◆光の流動

新橋にある知人の営む画廊の展覧会にいって来た。彼女の画廊では、現代作品がよく紹介され、現代アート好きの私は、常々ご案内をいただく度に伺おうと思うのだが、いつも(近所まで行きながら)仕事に追われて行かれず仕舞いが多く、しばらくぶりの訪問になる。
今回展示される作品は、厚手の画用紙を湿らせ、大小様々なレンズを押し当て、凹型のエンボス加工(簡単にへこみ、ちょうど銀紙、アルミホイルなどを使ってコインなどに押し当ててそこにある肖像や数字などの刻印の凸凹を写し取るようなもの)を不規則的に、画用紙いっぱいに連続させたもので、なお、レンズ痕(大小の丸い形)の接続間にできる隙間をところどころ切り抜いて、ちょっとレース織りのようなイメージをかもしだす作品。展示会場では作品に蛍光灯やLED(発光ダイオード)を使って光を下から当てて、この凸凹に当たる光の反射の妙を鑑賞する事ができるようになっていた。作者が選んだワットマンと言う水彩画に使うコットン素材の画用紙は、その肌にタオルの表面を遠くから眺めたような柔らかで細かな凸凹を持ち、そのテクスチャーが、より光の反射にデリケートな変化をもたらしている。
一見、レースの壁掛けにさえ見えるような作品は、はじめての出合いに不躾な存在感を主張せず、心地よい違和感の無さ、不思議な存在の希薄さが、とても優しく、ユーモラスにさえ思えた。そして、しばらくぽーっと眺めていていると、今度は静かに、少しづつ、大小様々な丸い凹みの連続が、まるで画用紙から泡粒が生み出される様にも見えて、その光の反射や拡散が、ゆらゆらと不思議な『スイング』や『バイブレーション』を感じさせた、、、。

展覧会場では、作家自身とお話をする機会に恵まれた。彼女と話して印象的だったのが、アンコール・ワットでの体験談。ここで彼女は、建物のなかを進みながら、雨期の蒸れた空気の中に注ぐ強烈な太陽光が、浅く彫られたレリーフをまるで動いているようにみせたり、回廊の窓から注ぐ日の光が、窓の柱を揺らすように写したり、フォログラムのように掴めるような何かを見せたと言う話であった。前回のコラムで先述したが、これはアフォーダンスの考え方に則せば、けっして不思議な事ではない。私達の視覚、視覚によって経験、体感する外界は、『それがそこに在る』という硬直した(させた)概念、思考によって得る事のできる状況で、実は私達と、私達が知覚出来る全てが、実は揺れ動いていると考える事こそ妥当である。実は、科学的に見ても、物を写し出し、私達に視覚を与える光は、この地球に入ったとたんに大気の成分によって限り無く不規則に反射、屈折する。光を放つ太陽も地球も自転している。自転や引力によって大気は常に変化し続け、この中で光の動きはさらに複雑になる。さらにそれを捕らえる私達人間も、目をはじめ、その身体中の細胞の全てが常に振動し、動き続け、一瞬たりとも制止する事は出来ない。静止は『死』を意味するだけ。
静止していると思っていた物が動いて見えたり、浮き上がって見えたりする事は、頂上現象でも錯覚でも無く、本当は自然界のあるがままの姿。それは私達人間、全ての動物に与えられた知覚機能の為せる技と考える事が自然なのではないだろうか。
宮崎 駿の『となりのトトロ』というアニメーション作品に登場する『まっくろくろすけ』は、子供にしか見えないお化けとして紹介される。親や大人達は、明るい屋外から、急に暗い室内に入った時に起こる『とりめ』現象が見せる幻覚のようなものとして理解するが、その村に長く住む老婆はその記憶の片鱗に、幼い頃にあった自由な思考が得た何ものかである事を知っているように子供達に接する。こんな話は世界中の民話にもたくさんあって、現在の科学的に説明する事のできる事を確かなものとし、それこそが在るとする思考が芽生える以前の人間は、むしろ彼等のほうが、自然のあり方を確かに受け止めていたのかも知れないと思う。科学的な思考は、高度な機械文明をもたらし、私達の生活を多様かつ便利にする反面、自然界の生命体の一部として本来もっていた様々な機能や体力を萎えさせている現実へ導いたものとして、実感する者は少なくはあるまい。

 けれど、私達の減衰した身体機能は、まだ完全に死に絶えたのだとも思わない。

 内倉さん、楽しい会話をありがとう。

内倉ひとみ EXHIBITION『光の未発に』
2006年2月16日〜28日 於:新橋『閑々居』


絵画・美術工芸品・文化資料の保存修復 中塚祐松堂

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