修復家の私考  〜 伝統・文化・芸術、そして文化財修復の世界 〜


◆精神をのせて運ぶもの

かつて、贈り物が人を繋ぎ、コミュニケーションの場を創造し、社会をつくった。そんな世界があったという。そこでは、今日のように、モノが資本と交換される対象としてではなく、到底金銭では量ることの出来ない、かけがえのない思いをのせて運ぶ媒体、キャリアとして、人々の心=精神の交流を行うための糧?あるいは道具?として、おおきな意味を持っていたようだ。
その昔、アメリカのある原住民族には、ポトラッチという興味深い儀式習慣があった。その儀式のなかで、必ず相手方の首長に贈られる銅製の板は、贈り主の最大の敬意の印とされるのだが、首長に渡されるやいなや、せっかくの贈り物にもかかわらず平気で破壊され、儀式の参加者にその破片を配ったりされる。この世界で贈り物を授与された人々は、そこにのせられた精神、送り主の気持ちを最も大切にするが、そのキャリアとしての物には、むしろ執着することが、たとえば意地汚なかったり、相手への冒涜にさえなるようで、そのものを捨て去ってこそ、贈手へのより大きな敬意と感謝、返礼の証しとなっていたようだ。この『コパー』と呼ばれる銅製の板は、時に壊して海の中へ捨てられ、ある時期がくると拾い上げられ、これをかつては精神を運んだ聖なる材料としてリサイクルし、また贈り物とされる。面白いのは、このリサイクルの行程(行動?)を経ることによって、コパーはさらに大きな価値が加えられるというのだ。ここではコパーというモノ、物質としてのモノにはあまり意味がないようで、気持ちや精神を包み、運ぶものとして、ちょうど、文字を印刷する紙、思いの言葉をしたためた手紙を交換することのできる郵便システム。声をのせる電話システム、画像さえのせることのできる電波、現代でいうならばインターネット(これも電話回線だけれども)ということになろうか。今日の私達は、このテクノロジーとその進化の過程に、コパーと同じような、どこかお互いの言葉や声にならないモノまでも、余さず送り伝えようとして来た人間の情熱の歴史、叡智を読み取ることが出来はしないだろうか。

一方、現代の日本。今でも慣習として行われる中元や歳暮の贈り物は、昔はご自慢?の風呂敷に包み、相手の家まで自分で持ち運んだ。ここには、贈り物を口実(ダシ)にして、日頃会うことが出来ない恩人や友人と再会するチャンスを作り、相手を敬い、慈しむ精神の交換をおこなうという大きな目的があったのだと思う。この贈り物の儀式には、本来、やはり人間同志の精神の流通こそ重要で、物はそれをのせて運ぶ媒体に過ぎなかったのだと思う。今やその時期になると、デパートから相手先の住所を書き込んだファイルと分厚い商品カタログが送られ、贈り主はそこにボールペンでチェックするだけ。あとはそれを投函するか、デパートに持って行けば、間違いなく宅配業者が商品を届けてくれる。送り主は先方の顔も見ることはないし、もちろん会話もない。実に素っ気無い、これはもう『贈り物』ではなく只の『送り物』。しばらくして返礼に手紙などが届けばまだマシというモノ。またどちらかのデパートから贈り物が届くのが関の山ということも、決して少なくはないのではないか? 電話で互いの声がきければそれも良いかも知れない。さしずめ今ならパソコンか、携帯電話でメールのやり取りになるだろうか。いずれにせよ、どこか人の心や気持ちがないがしろにされる今日であると思う。

今日私達の対峙するさまざまな歴史遺産、文化財産。私達は、決してその実体を確認することは出来ないのだけれど、ここにも往古の人々がそこに求め、見い出した大切な何かがあり、さらには、大切に『守ろう』『残そう』とする意志や情熱がのせられているのだ思う。
そして今、私達は残されてきた物を通して、再びそこに何かを感じ、心ゆさぶられる。この感動、体感を経験することができるからこそ、物はまた大切に守られ、残されるに違いない。私達の精神をのせて、遥か未来の人々のもとへと運ばれるだろう、、、。(050608/そろそろ中元商戦?)

●参考
カイエソバージュ1〜5
中沢新一著 (講談社メチエ)


絵画・美術工芸品・文化資料の保存修復 中塚祐松堂

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