修復家の私考 〜 伝統・文化・芸術、そして文化財修復の世界 〜
◆六本木パート2 〜モダンアートの夕べ〜
この日の東京は快晴。日中の都心は茹だるような熱さとなり、仕事で訪れた代官山あたりは、溢れるばかりの車のエンジンの熱気と、アスファルトも溶かさんばかりの太陽光が、吹き出す汗とともに人の体も蒸発させるような勢いだった。けれどそのかわり、夕暮れ時に入った森美術館のある高層展望台は、はるか都会をのぞみ、高速道路を流れる車のライトも美しく、ロマンチックな夜景が仕事の疲れを癒してくれるようだった。
森美術館に訪れるのはこれで二回目、前回と同じく、自他ともに認めるかの酒豪の悪友とともに鑑賞する。今回の展覧会のテーマはモダンアート。ニューヨークにあるMoMA(The Museum of Modern Art,New York)の収蔵作品を一同に集め、1880年から、およそ現在までの芸術の歴史を巡りながらモダンアートを知る?という企画展だった。展示された作品は絵画、彫刻に加え、家具や建築、写真、映画、ヴィデオに至るまで非常に多様な作品をそろえ、前回の企画に劣らぬ展示数、構成をみせた。むしろ、見方によっては、前回のたくさんの彩りを見せ、まるで子供のおもちゃ箱をひっくり返したような、賑やかで楽しいばかりだった展覧会にくらべると、ぐっとコンセプトを絞り込んで、ゆっくりと、なおしっかりと鑑賞出来る雰囲気の展覧会だったと思う。
モダンアートと、それ以前の作品を比べた時に、大きく異なるのがそれがうまれた社会。近代科学、工業、産業の発展によって、人々が私達の唯一の世界であったあるがままの自然に対して、恵みを授けられる関係から、急速にそれを支配する力を強めていったことによって、世界観を変えていったことに在るだろうと思う。アートというモノも、人、歴史(時代)、社会のなかから生まれるものである限り、いつも強くその有り様に共鳴、共振する。今回の展覧会を通して、モダンアートと呼ばれる世界の移り変わりを観ても、伝統(とイメージして来た自然観、社会観、人間観)と美意識(価値観)の破壊や否定、その新たな解釈、再構成にはじまり、科学や産業の発展とともに激変する社会に住む人々の日常のなかに深く関わりながら、現代に到ればテレビやビデオなどの電子機器、視覚メディアなどがアートの世界に吸収されて行くことを一望できたと思う。
経済大国の権化とも言うべきか、近代科学によってもたらされた文明をはやくから享受し、その恩恵を猪突猛進に消費して来たアメリカにおけるアートシーンは、アンディー・ウォーホルらによって、日々機械的に大量につくられ、誰も顧みることさえせずに、ひたすら消費されるモノ(あるいはその消費という現象?自体)に視点を注がれてゆく。いったい彼は、それを再構成しようとしたのか。あるいは、消費し、捨て行く人とその社会の姿を(目に見えても見えなくても)を消化(昇華?)しようとしたのか。時代を超えて、その消費こそを日常として生活して来た今、彼の作品を目の前にした私自身はといえば、もはやそれをアートなどとは知覚することも出来ず、ただひたすらに、それが過去の産物(異物もしくは廃棄物?)としか見えない、さらにその前に立ちはだかり、しばらくジッと睨んでいても、それくらいにしか感じる物もなかったことが、なにかアイロニカルに思えてしかたがなかった。
もし、それを彼が求めていたのだとしたら、それはそれでとても面白い。アートとか、芸術とよばれるモノの持つ意味合いの中には、作品独自(特有)の一回性といったものがあるのだと思うのだが、彼らの製作法や、捉えるモチーフを一見しただけだと、まるでそれを否定しているように見える。けれど、あるいは『消費』という消え去る『死』の運命を持つ物の世界を取り込むことで、かえってその一回性を激しく強調することができるのだろうか。あるいは、これらの作品の存在は、いつかきっと『ゴミ』と呼び、捨て去るべきなのか。それでこそ制作者が望んだ作品の世界、姿なのか。もちろん修復家いらず!
私にとって、『感動』とか『魅了』では無く『空虚』とか『廃虚』、『屍』を思わせる作品展だった。昨今、さる廉価量販洋服メーカーが、かつてのポップアートの旗手達の作品を印刷したTシャツを販売しはじめたことが記憶に新しい。この店の商品はとにかく安い。だからたくさん買う人もいるかも知れないけれど、けっこう早く捨てられるんじゃないかナ。あのデザインもすでに価値なし? だから気軽に消費される?
(040728)
MoMA ニューヨーク近代美術館展 2004.4.28 〜8.1
於:森美術館(東京都港区 六本木ヒルズ 森タワー53階)
絵画・美術工芸品・文化資料の保存修復 中塚祐松堂
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