修復家の私考 〜 伝統・文化・芸術、そして文化財修復の世界 〜
◆修復家への招待
私の師匠である父は、かつて母方の祖父が起した表具店に働いていた。私がモノゴコロ付いた当時は、すでに彼は数人の職人を配下に従える長となり、もともと商才もあったのか、早くから店の経営もまかされていた様だ。私は中学生くらいになると、夏休みなどは、よく長い時間を持て余しては、この工房で下働きをして小遣いを稼いだ。もちろん、当初は父のアシスタントこそさせてはもらえなかったが、むしろお弟子さん達と一緒に仕事をするのがとても楽しかった。彼等はみな各々に素晴らしい技術を持ち、色々と経験も豊かだったから、良い勉強も悪い?勉強もをさせてもらった。
父が表具職人であったこともあってか、表具の世界以外にも、職人と呼ばれる様々な業種の人々の仕事を間近で観る機会が多かった。表具師は仕事の種類も内容も実に豊富で、その仕事に関わる様々な技術を持った職人と密接な関係を持っている。仕事を通じて、広く芸術家(作家)とも知り合う機会が多く、彼等との交流も少なくはなかった様だ。
『門前の小僧』ではないが、私は幼い頃からこの恩恵を受けて来た。日曜日さえもよく仕事をしていた父に連れられて、そんな職人の家へ、工房の奥へ入る特権を与えられた。これは、学校では絶対に観ることも知ることさえも出来ない、ちょっと秘密めいて、怪し気で、だからこそ、ちょうど好奇心旺盛で、多感な頃の私の目に、とても魅力的な世界に映ったのだろう。
まるで手の切れるように製材された木材を、1ミリの隙間もなく障子や襖、屏風の下骨に仕上げて行く建具屋(私達は下骨を作る専門職として骨屋と俗称で呼ぶ)。彼の持つ黒光りする鉋(かんな)からは、杉の香高く、向こうが透けて見えるような、美しい鉋屑が吐き出された。艶やかで、ねっとりとした漆を丁寧に塗り重ね、研摩し、研摩しては塗り、いつか鏡のように塗装面を仕上げる漆師(ぬし)。ネズミ色をしたコンクリートの水槽に、泥のような紙料をかき混ぜ、寒さの中で白い息をはきながら、リズムよく全身を揺さぶりながら漉き簾を動かしていた紙漉き職人。大きな桶のような、舟のような不思議な形の台の上に立て膝で座り、恐ろしく長い、怪しい光を放つ刀を研ぐ研師。まるで魔術のように、轆轤に置いた粘土の固まりから器を導き出す陶芸家。大きな木鎚をふるい、鑿で大木から人やモノの姿を作り上げる彫刻家。筆に含んだ絵の具を調整するために、溶いた絵の具と共に口で余計な水分を吸い取ってしまう画家の口元は、悪魔のように青黒く、ギョッとさせられた。きっと昔(昭和40〜50年ごろまでかな)は、けっこう一般の家庭でも見られたのだと思うのだが、なにより面白かったのが畳屋さんで、太く長い針を畳に刺して、糸を引っ張ったかと思うと、黒光りする金属のひじ当てで、グリグリッと糸を締めるしぐさ、ちょっと古びて焦げ付いて、ポコポコにへこんだ薬缶の口から直接水を含んだかと思うと、畳めがけて噴霧器よろしく、『ぷーっ』と一気に吹き掛けるのは最高のパフォーマンスで、ずっと目が放せなかった。あんまりジッと見つめていると、『じゃまだ』とか『あっちへ行きな』とお小言もいわれたが(昔の職人はけっこう恐かった)。ニコニコ笑いながら『オレの弟子になるかい?』などといわれると、どう返答して良いものか、ずいぶん困った思い出がある。
何もかも、今はめくるめく光景。見て来たものはみな良い思い出で、当時の私にとっては、みな神々しい姿に見えた。私は文化の創造主を目の前に、モノの産み出されるたくさんの瞬間に立ち会って来た。私がこの世界に入ったのも、この時に見た世界の素晴らしさ、驚異にも似た驚きと、ワクワクするような興奮が忘れられなかったからだと思う。私は、日本の歴史や文化、人々の生活や社会を支えて来た人々の姿を、いつも間近に観て来れたことを本当に幸せだったと思っている。
今や、こういった人々が、私達の生活の急速な変化のなかで無用となり、時代の異物とさえ思われ(すでにそうなっているのであろう)、需要の激減から継承することもままならず、社会的にも周縁に追いやられ、忘れ去られ、加速度をつけて終息に向かっている現状を聴き、観るたびに、いつも、私達のような文化を守ろうとしている人間の非力さを思い知らされている。
(050413)
絵画・美術工芸品・文化資料の保存修復 中塚祐松堂
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