修復家の私考 〜 伝統・文化・芸術、そして文化財修復の世界 〜
◆MATRIX !?
私達が修復家として、文化財に対峙した時、原状とか、現状の維持にこだわるのは、目の前にある物が実はよく解らないから、そのなかに、少なからずも理解出来ない、説明出来ない何かがあるからなのだと私は考えている。だからこそ、そこにある全てを、解らぬ何かをも失わぬように、常に慎重に取扱い、様々な分野の知識を集めて分析をし、処置に臨まなければならないのだろう。修復家は科学的に物を見ることを学び、その視野、思考(=物差や秤)から読み取った情報をして、人の五感に訴え、感情や想像に揺れ動く何かをも客観的な事実として分析、理解し、それを確かな物として説明して行く。しかし、実はここで得た情報も、そこに人が介在するからには、その人の経験、知覚と技術(それを知識の総体と言ってもよいだろうか)に左右され、それをもとに分析をしているかぎり、意図的な情報の取捨選択や各々の恣意的な解釈、意味付けからは到底逃れられず、どうしても主観というモノを排除した情報とはなり難い。確かに文明の発展は、私達修復家に様々な恩恵を与えている。かつて、せいぜいルーペや顕微鏡で観察すること(実はこれは何より肝心なのだが)が関の山であった時代から、紫外線、赤外線の利用をはじめ、電子顕微鏡やX線の応用は、飛躍的に獲得出来る情報を増大させている。それでもなお、この検査器機さえもが、この先より高度化した場合は、現在得られる情報を異なった様相で見せる可能性も否定出来ないし、こういった器機も利用の仕方は様々で、利用者が照射の角度や位地をちょっと変えただけで、得られる結果も全く異なって来る。
絵画や美術工芸品などの有形文化財には、その使われた材料素材、物質的な組成構造や姿形があるというばかりではなく、例えば絵画や彫刻などには、そこに制作者の意匠などと呼ばれる想像の世界、物語やテーマが存在し、私達修復家は、それをひっくるめてオリジナリティーなどと呼んでいる。さらにはそこに時間の経過による自然の劣化、例えば古色などと呼ばれるような『風合い』のようなものも付加されてゆくから複雑極まりない。私達はそれを理解するために、今度は作者の人生を辿ったり、時にその人物の精神分析までも試みる。製作当初の歴史資料を読みながら、その時代の文化形態や社会情勢なども考察したりする。そして、ここでもやはり同じように、調査、分析をする者の意図をもった取捨選択が生じ、主観が次々と添加されてゆくことになる。史実といえども、実際はあくまで『現代から見る』という条件が付きまとう。私達がタイムマシンにでも乗って過去に戻り、リアルタイムな空間に存在しない限り、それは必ず現在から見た過去のあり方であり、解釈。やはり客観的な事実とは言い難い。少なくとも、過去を現実として観ることはもう出来ないのだ。史実とする何かも、時代とともに移ろう社会情勢に従って、人各々の経験によって読み替えられ、変化を余儀なくされる。いつ、誰が、どんな方法で残されたモノを読み取ったかによって、そこに得られる結果、答えはいとも簡単に変化する。日本には『新しい歴史教科書をつくる会』というのがあるが、今も昔も、歴史もまた人によって変えられ、創ることができるものであるということが、実際にハッキリと認められているのである。
最近、尾形光琳筆の「紅白梅図屏風」が話題に登っている。最近の調査結果で、いままで金箔を利用したと思われていた表現、描画箇所にその存在が認められなかったのである(今なお疑問であるが)。ある人は、『なぜ今まで解らなかったのか?』と言っていた。同じ修復家とのあいだで話題に登った折にも、同様のことを口にする者がすくなくなかったが、私が肝心と思うことは、当時の観察者やその調査方法に非を見い出すことではない。少なくとも、当時それを分析、判断した人々も持てる経験と知識を総動員し、きっと最善を尽して答えを出しているだろう。まずは、そこに敬意を払いながら、これまでの結果をもたらした手段、方法をしっかりと見直すのと同時に、さらに新しいモノの見方や測り方を探り、観察、分析、考察の可能性を広げる努力を止めぬことが大切なのだと思う。
現状も、オリジナリィティーとかいわれるのも皆、それを見る人の経験と推測(または想像)の産物であり、その限られた視野の中につくられた価値観や物語りの付加、華飾であることを避ける事は出来ないのではないか。
040209 また一つ、修復した作品を所有者のもとに返して
絵画・美術工芸品・文化資料の保存修復 中塚祐松堂
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