修復家の私考 〜 伝統・文化・芸術、そして文化財修復の世界 〜
◆レヴィ=ストロースのラム酒
フランスの人類学者、レヴィ=ストロース。彼は『悲しき熱帯』という著書の中で、人類の創始の姿を追い求めて、およそすべての近代社会に生きる人を拒絶するアマゾンのジャングル奥地に分け入る。そこは原始の地球を思わせ、まるでブラックホールのような怪しさをたたえる鬱蒼とした世界が立ちはだかり、野生の木々、荒れ狂う激流はひたすら行く手を阻み、道無き道の行進は日々一進一退を余儀なくされる。熱病をもたらす怪しい寄生虫、音も無く忍び寄る猛獣の気配に銃は一時たりとも肌身にはなせず、息も出来ぬような熱さと湿度は常に生命の存続を脅かせる。望む原住民とのコンタクトは困難を極め、さらに出合いの瞬間の緊張は死の恐怖すら覚える。そしてこの戦慄なる未知の世界に、それでも歩を弛めぬ彼の探究心とその意思の激しさに、私は驚愕と敬意を抱きながらページをめくっていった、、、。
レヴィ=ストロースは、1935年から行ったこの現地調査の途中に訪れたマルティニック島で、地元のラム酒の醸造所を訪ねる。ここにある工場はみなひなびていて、管理も行き届かず、18世紀以来の古道具と設備で醸造しており、彼はここで、その工場の佇まいからは想像も出来ぬほどに、豊かに香しきラム酒のウマさにめぐりあう。そしてその味を確かめながら、分明の進歩がそれを排除しようとする現実として、近代の洗練され他工場でつくられた、むしろ粗野でなんのとりえも見当たらぬラム酒を想起する。彼は、『文明の魅力はその上げ潮にのせて運ばれる澱(おり)の中に含まれているモノ』とする一方で、現代社会は効率と合理性を追求するためにその潮を浄化せずにいられず、そこに心血を注ぐのも現代の道理とする。彼は現代に生きるものとして、粗野なラムに求める愛おしさとの間にあるパラドクスのあることを認め、私達の現代社会がまさにその中にいることを諭す。現代社会は時々、その澱をノスタルジーなどと呼ばわしめ、簡単にかたずけて清々とする。でも実は、この澱の中に含まれる苦さや渋さや酸っぱさ、激しく蒸れるような香りの様な、現代社会がつくるフィルターで漉し取ってしまうモノの中にも、人の五感に強く訴え、経験、記憶のコア(核)を揺さぶるモノがある。
このラム酒のくだりを読んでいた時、私はふと、実はここにこそ私達修復家が大切にすべきモノがあるのではないかという思いにかられた。魂を揺さぶるものは、人の経験によって皆異なる。例えば、幼い子供が食わず嫌いをし、成長の過程における様々な経験により『味覚』の認知をして行くように、新たなステージ、フィールドを得ることが出来る。
それは、時に私達の言語では到底表現、置換できない代物でもあろうし、たとえ科学で説明が出来ないとしても、私達のからだが覚えることの出来るものとして、そこに敢然とある。科学の追究は、時に何かを覆い隠して見えなくしたり、そのコトバで、約束の中での表現、解釈できないもは差別され、周縁に追いやる。はたして、この世にある全てをそのようにして、どうしても『理解』出来なければならないものなのだろうか。解らないからこそ魅力的に見え、そこに無限の想像を広げる余地が在るのだとして、ちょっと大目に見たり、大切に見守ることは出来ないのだろうか。あるヨーロッパ人の医師はさる学会で、東洋医学(鍼灸や漢方)をして、本当に効果があるのならば、私達の科学で説明出来なければならないといったという。彼は自分が食わず嫌いか、さもなければ悪戯な科学の信仰者であることに気付いていないと思う。
科学的な追究こそがすべて。科学的な思考と視野に取り付かれた者は、おしなべてそう考えるのだろうか。私達保存修復に携わる者の世界、過去の修復の歴史の中で、今日は一切否定される様々な処置例が目の前限り無くにあるが、これも広く人の歴史の一部として、修復史の記録として、一方的に否定をするのでは無く、なぜそうされたのか、そうする理由や必要をもっとよく、いろいろな視点から考察してみれば、そこになんらかの価値や各々の時代における正統性ももっと見えてはこないだろうか。私が良く扱う表具(表装、経師に同じ古来よりある装幀様式とその技術)というのも、もともと作品をより美しく、そして調度として、生活に彩りを与えるものだった。それは本来、畳や襖、障子のように、古くなったり、汚れたり、傷んだりすると作品の修理と共に新しく、きれいに直すことが求められていた。しかし、今日の保存修復における『倫理』とか『科学』とか、『哲学』を持ち出せば、それをすることも文化財の破壊につながる可能性は高い。でもその一方で、それを追求することは、伝統文化といわれるの表具の、かつてあった目的やあり方を否定し、覆い隠す。文化財の保存とはいったいなんなのであろうか。
保存修復の知識のないもの、芸術を科学的に見る方法を知らぬ者は、その表層にある、肉眼で確認出来る限りの容姿を観て自らの五感に訴えることしか出来ない。しかし、科学的な見地を得るということにのみ答えがあり、解決策があると考えるのは、あまりに単純で閉鎖的だ。私達は時に専門家の立場という限られた思考だけで物事を解決しようとはしていないか。私達の論理の外にあり、私達のもつコトバで解釈できないモノを否定してはいないか。肉体と精神、ほんとうは全てが表裏一体でありなお貫かれている私達のからだ。
そして表現されたモノはみな私達人間がつくり出したモノである。(040110)
◎レヴィ=ストロース 『悲しき熱帯』 中央公論社
絵画・美術工芸品・文化資料の保存修復 中塚祐松堂
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