修復家の私考  〜 伝統・文化・芸術、そして文化財修復の世界 〜


◆『伝統』の再考 -新しい物語-

私達が『伝統』という称号をつけて呼ぶ文化(文化財、文化的な表現、行動、営み)は、かつてその元を海外からもたらされたモノが多い。いったい、いつから『伝統』と呼ばれ、そういったコトバが使われるようになったのであろうか。
一般に、これまで言われてきた伝統というのは、『長い時間的の継続』とか、『変わらない』などいうことに大きな要素があると思うのだが、では、それは何年続けば、何代続けばその条件が満たされるのだろうか(実際にその規定などはどこにも存在しない)。文明の発展、テクノロジーの進化する世の中で、情報がいっそう激しく、猛スピードで交錯し、人々のモノの見方、価値観がゆれ動く、動かざるを得ない現代においては、変わらぬというモノが本当にあり得るのかという疑問が、ムクムクと夏の入道雲のように私の頭に湧いて来る。そして、変わらぬ『伝統』と変わる『現代』の違い、その境界はどこにあるのだろうかという疑問。いままでイメージして来た『伝統』像の曖昧さとその有り様につのる不安が再考を迫る、、、。
『伝統』とは、変わらないとか、長く続いているという、ある社会(簡単に、多くても少なくても人の集まり、集団)の中の認識の基に成り立っている部分が大きい(実はただそれだけ?)と思うのだが、それはちょうど貨幣と同じように、全ての商品と交換出来るという社会的な保証を得る様なことが必要だと思う。貨幣は、国、政府が法という約束のもとにその保証をし、それがあるからこそ価値、意味が生じ、存在し得る。『伝統』は、国家に認められるものもあれば、そうでないものもあるけれど、伝統と呼ばれるものは、取りあえずは、全てある人の集団が認め、認められたものには違いないだろう。そして、一方では、この認識が、その集団の有り様を決定付け、価値付け、意味付けるアイデンティティーの拠り所にさえなりうる。生活の中に共通のイメージを抱く人の集団、共同体には、現世と生の意味、欲とか、死、死後の世界とかの有り様を共有理解するための信仰や哲学、それを交換、認識しあえる行為、作法、運動、言語など、文化的な表現が必要となる。伝統。その実体は、ある集団の共通価値観であり、意味付けや信憑性、正統性を示すために、文化の総体からの意図的な抽出と組み合わせに過ぎない。
『伝統』とは、言語、宗教、民俗等という意図的に括られた思考の枠(視界)の中からうまれる。そして、それは自らの経験、立場からの他者に対する勝手な評価と、そこにうまれる他者のイメージとの比較による自分達の意味付け、価値観を強化する装置、道具としても長く利用されて来た側面も持つ。ここに出来上がった価値観は、さらに貪欲に、視野に入る他者の文化をやりたい放題に取り込み、作為的な意味付けをして、自分達中心の歴史や文脈を形成する一役を担い、その共同体の存在を確固たるものにしてゆく。人々は、取り込んだものに価値をあたえるほどに、自らの独自性の正統性や、力を証明して来た。これは、身近な記憶として、かつて日本やドイツなどで(いまでも地域によってはあるだろう)あった単一民族などという考え方に結びついていった史実のなかにも、同様の経緯や運動を見ることができる。はるか昔のヨーロッパでは、14世紀の大航海時代に端を発した民族学や自然科学、言語学が、自らの文化の力、正統性、優位性を証明する道具として利用されて来た史実がある。エドワード・W・サイードの著書や、岩竹美加子の『民族学の政治性』に伝統の意味合い、有り様を探ってゆくと、国家や社会がいかにして他者への利己的な意味付けを土台にし、自己の独自性と正統性を表し、力の誇示をして来た事もよく見えて来る。
さらに『伝統』は『現代』を進化するもの、変化する新しいものとするため、その対象としての『過去』を『変わらないもの』『古いもの』として、それを理解するための土台、材料として利用されて来た側面をもつ。
全ての文化の歴史的な経験は、時の流れの中で常に私達の視線を常に変化させ、私達の目の前に存在する全てのモノ(形あるものもないものも)に新たな意味合いを想起させる可能性を持つ。実は、『伝統』というモノは時間とともに自然に形成されたものではない。それは、私達が何かに対峙する度ごとに、その中にある特定の要素を意図的、あるいは無意識?に抽出し、現在のある要素(私達の経験が読み取る何か)と組み合わせることによって出来た『新しい物語』に過ぎないのではないだろうか。
現実は、時間の流れが凍結しない限り、あるいは人類が消失でもしない限り、人も社会も常に流動的であり、進化、変質、変容、を停めることはない。私達がそこに不変にあるものと信じ、確かな姿で捉えていたものは、実は人々が生み出した実体のない想像による創造の山であり、塔であるようだ。私達は常に、確かに、自信の経験でしか物事を捉える事、観る事も考える事も出来ない。そしてそれは常に主観的、恣意的な立ち場からの想像、イメージを避けられない。

私達が『伝統』と呼んで来た日本の文化の伝承は、まるでジェスチャーゲームのように口伝で行われてきたことは、このコラムの中でも先述したが、この伝承というのも確かな継続というのでは無く、人の脳がデジタル機器のように形作られたデーターを確実に受け渡したり、記憶しておくことが出来ないかぎり、各々の解釈(租借〜消化)による変化したイメージの、瞬間瞬間の受け渡しにしかならない。それは、あくまで自分の番になって、まさに今伝えられる情報から、さらに自らの経験に基づく新たなイメージを想起するということに過ぎず、いくらゲームとしての正解をえたとしても、その脳内におけるイメージが、実は全く違っている可能性こそあっても、同じであることはない。私達は正解を得ると、そこに人が立ち並ぶ姿を見ただけで、情報の伝達が行われたと錯覚し、ただそう思い込む。ここには同時に、同じルールの上にゲームをしているという共同意識も生じるのだろう。伝統は、このルールと共同意識の中にこそ産まれる様だ。

私は『伝統』を変わらぬものとは思わない。けれど、決して意味が無いとか、ましてや『悪』だとも思わない。もちろん、『いたずらな創造』や、人を不幸にする『悪用』の歴史もあったかも知れないが、想像と創造すことが出来る人間の素晴らしさこそ大切にしたいと思っている。私達はこの力によって、確かに未来を築いている。
今、私達の眼前には雄大なフィールドが広がっていて、そこには色とりどり、数え切れぬ人の『知』、『記憶』の断片が散在している。それは、決して、山や丘のように自然に隆起したり、塔のように積み重ねられたモノでも無く、その実は、ちょうど壁も仕切りもない大きな広場にばらまかれた積み木やブロックのように、誰もが好きな時に、自由選び、組み合わせ、積むことが出来るのモノなのではないか。私達が子供の頃に、未来をいまよりももっと自由に想像することが出来たのは、このブロックの有り様を確かに理解していたのかも知れない。彼等が組み合わせ、積み重ねるその形は奇想天外で、時に大人の思考の枠をはるかに超え、驚愕させ、不安さえおぼえさせる。そして、私達が物心がつく頃には、この無限の組み合わせや、積み方を記憶の周縁に追いやったり、そこに有る、大切な何かを見落とし、見失ってしまうのだ。私達の経験は目の前を塞ぐ事もあるし、明るく照らす事もあるのだろう。

『伝統』の意味が見えて来た。(040109)

【参考書籍】

■ベネディクト・アンダーソン 『想像の共同体』  リブロポート 

■エドワード・W・サイード 『オリエンタリズム』  平凡社 

■丸山圭三郎 『文化のフェティシズム』  勁草書房 

■岩竹美加子 『民族学の政治性』  ニュー・フォークロア双書27  

■湊千尋  『記憶 「創造」と「想起」の力』  講談社選書メチエ93


絵画・美術工芸品・文化資料の保存修復 中塚祐松堂

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