修復家の私考  〜 伝統・文化・芸術、そして文化財修復の世界 〜


◆見えないモノを見る日本人

伝統的な東洋絵画は、水の稀釈具合によってできる墨の濃淡だけで、自然の山々や花鳥、人物を現す。彩色を用いても、大きな背景には料紙や料絹の色、質感をそのままに、何も描かない空白を残すことによって、そこに大きな空間や奥行きを表現する。これに対して、西洋の絵画や、現代の日本画(岩彩、油彩画を問わず)は、あくまで描いて空間、奥行きを表現する。この2つの違いの中には、ただの製作技法、技術的な問題だけでなく、もともとの文化の成り立ちとか、そこにいる人々の思考、哲学、精神の大きな違いがあるのだと思う。
歌舞伎や人形浄瑠璃には、黒子という演技の補助役が実際に舞台上に出てくる。彼等は役者(人形)の着物を着せ変えたり、小道具や人形を動かしたりと、ある意味、舞台装置としての機能を持っているのだと思うが、暗黙の了解として、観客は『見ない』、『見えない』存在である。だから、彼等はけっして『影』でもない。この伝統芸能を外国人に見せると、彼等はきまって、あの黒装束の登場人物は『何もの』か『何』をあらわすのか?どんな『意味』『役柄』を持つのかと訪ねてくるという。実際に外国人の友人を多く持つ私の友人(生粋の日本人です)は、このとき説明にとても苦慮したといっていた。
日本の文化はとても面白いと思う。見えないモノを見ることが出来、さらに見えるものを見えないと平気で言ってしまうことが出来るのだ。こうした日本の文化は、とかく精神的だとか、抽象的だとかいわれるけれど、実は何のことはない。時の技術や智識だけではどうにも出来ないものに対して、それまでの経験を駆使し、他の新たな思考と方法論で乗り越え、独自の表現のかたちを生み出したのではないかと思う。
物事すべてを利攻めにして、科学的に客観的に物事を捉えようとすると、そこにあるモノにはかならず意味があるのではないかと考えてしまう。なにも無いところに何かを見い出したり、見えるのに"ない"と考えることはとても難しい。近年欧米でも秘かな人気を持つ禅の世界では『無』とか『本来無一物』という言葉がしばしば使われるが、この『無』ということ考えたり、表現したりすることもなかなか面白い発想だと思う。

ドイツのグリム童話に『裸の王様』という話がある。このおとぎばなしは、愚かな王様が、周りの人間の悪戯や風説に踊らされる話だが、ここにもしっかりと、見えないもの(権威だろうか)は存在しないのだといっている。

030317


絵画・美術工芸品・文化資料の保存修復 中塚祐松堂

▲Home▲

▲back▲