修復家の私考  〜 伝統・文化・芸術、そして文化財修復の世界 〜


◆破壊と修復のあいだ

一見、薄っぺらな一枚のシートとして見える絵画は、よく観てゆくと、けっこう複雑な組成構造をもち、利用される材料素材はもとてもデリケートで脆いことが多い。日本画ならば薄い和紙や絹織物、油彩画ならば麻布と、絵の具をのせる材料は皆、湿度に敏感に反応し、伸縮、変型を繰り返す。一方、この上にのる絵の具は時間をかけて硬く固まるが、この表現の土台になるものと、表現材料の間の特質差が、大地を揺るがす地震の様に、その上にのったものを破壊する要素になることがある。絵の具にはそれを土台(画用紙や画布)にくっつける接着剤が必要になる。日本画絵の具の接着剤として使う膠は、動物の骨や皮から抽出したタンパク質(コラーゲン)の一種であるが、いずれ経年劣化して接着力を失い、絵具は剥離をはじめる運命にある。油絵具は乾性油と呼ばれる油が酸素を吸収して(酸化して)固まるのだが、硬化には長い時間がかかる。それを無視して絵具を塗り重ねると、表面だけ乾燥して下層の絵具はなかなか乾かなくなり、下層が乾く時には上層の絵具に亀裂や剥離を生じさせることがある。油彩画はまた、完成後にニスを塗る習慣があるが、ある種のニスは経年により変色をして絵画層を見え難くしてゆく、、、。
当前のことであるが、モノは人と違って新陳代謝もしないし、組織の再生能力も、自浄作用もない。一度傷みはじめれば間違っても改善することはないし、放っておけば悪くなるのが関の山。人が手を加えない限り絶対にもとには戻らない。さらに、そこには制作者の意匠(オリジナリティー)という甚だ厄介な代物が存在する。私達修復家は、その姿形、技法、様式はもちろんのこと、表現に使われた材料や素材の一つ一つに創造者の意図や目的があると考えるから、たとえ劣化し、傷んだ部分でも、容易に削り取ってしまうことはできない。では、全く同じ材料や素材を利用すれば良いかというと、実はこれもなかなか困難である。私達が処置対象とする作品や資料は皆相当の年月を経ている物ばかりで、今ある材料をそのまま利用すれば、そこに大きな差異が生じることは避けられない。同じように劣化した材料を得るのも困難で、現代の科学技術を持ってしても、人工的につくることはままならない。そして、たとえそれが可能になったとしても、やっぱり実際はオリジナルなモノとは全く異なる(現代の新しい物)わけだから、逆にそれが判別出来なくなることにも倫理的な問題が発生する。現代の芸術作品の世界には、時間の経過と、その中における自然な変化として、錆びたり、綻んでゆくことを望まれるような作品さえ登場してきたが、これらは何の手の施し様もないだろう。保存を考えることすら破壊になってしまう、、、。

私達修復家は日々の仕事の中で、他に一つとしてない、創造者の意思や情熱の込められたモノに、ほかの誰よりも間近かに迫り、この手で直接触れることができる。だから、きっと誰よりもそこに深い敬意を払い、今ここに在ることに畏怖の念さえ覚えながら、自分達の行動に注意を払っているのだと思う。そんな一方で、開業修復家として、民間にある作品を修復することも多い私は、今もなお強く望まれる『回復』とか『回帰』のイメージ間に隔たりを感じている。修復家としての理想を守りながら、さらに所有者の気持ちを理解しようと努めれば、出来ることはわずかに、処置は限られるばかりになる。個人コレクターや、市場の作品を取り扱う者ならば、なおさら見た目の美しさ、外見の再生こそを望み、それが満たされさえすればすべてOK、あとは修復の倫理も哲学も重要では無い。いつもこの間を埋めようと、口八丁、手八丁と言葉を尽くして説明をし、なんとか互いの公約数を得ようとはしているが、時にそれが自分達の世界のエゴかと悩んだり、相手を理解させられない自分のふがいなさを思い、ひとり腹を立てたりと、これがなかなかしんどい作業である。

貴重な文化財、美術品を修復をするということは、家や車の修理とは異なって、単純に見た目を整えたり、強度を上げたりするだけではすまない、どうしても、それを迂闊に行えない難しさがある。この仕事をはじめて20年余。やっと一人前かなと思った矢先、今さらながら修復家の仕事の厳しさと難しさを思う今日この頃である、、、、、。

021029(080602)


絵画・美術工芸品・文化資料の保存修復 中塚祐松堂

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