修復家の私考  〜 伝統・文化・芸術、そして文化財修復の世界 〜


◆IPMに優るもの

IPMと言う言葉を聞いた事はあるだろうか。これは、Integrated Pest Management の略称で、日本語に直すと総合的有害生物管理。
博物館や美術館、資料館では収蔵している作品、資料の保全業務の一つに、館内に侵入する害虫を駆除したり、収蔵品に害を与える微生物、黴の発生を防ぐ仕事があり、昨今までほとんどの施設で定期的に薬剤による燻蒸を慣例として来た。
しかし、この燻蒸剤(メチルブロマイドと酢酸エチル)はオゾン層を破壊し、人体に対しても猛毒で、近年では、従来の燻蒸をするしか保全の手立てが無い施設に限って、必要最小限の利用が許されている。この燻蒸剤は、その危険性から、すでに諸外国では利用が禁止され、今も利用しているのはおそらく日本ぐらいかと思うが、亜熱帯のモンスーンと呼ばれる気候地域に属する我が国は、文化財に危機的なダメージを与える害虫も多く生息していて、けっこう厄介だ。そこで近年、欧米より導入された方法がこのIPM法。これはまず、近隣に生息する害虫を調べ、その生体を学ぶ事から始まり、施設への侵入経路を調査し、経路を断ち、さらに可能であれば施設の周辺にも捕獲トラップをもうけて施設の周囲から害虫の駆除、防衛をはかるなど、知識と人力を駆使して虫害対策をおこなうことである。この方法は、一見、とても効率がよく、燻蒸剤に頼るのみであった以前の虫害対策にくらべると、人にも自然にも安全で、最近流行の言葉でいうならちょっとロハス(Lifestyles of Health and Sustainability)っぽい。
でも、何かにつけて大変で、とにかく人の力が必要になる。今までは、専門の業者に一度依頼さえすれば、あとはなんの心配もなく、どこかの引っ越し屋さんの宣伝の様に手間いらず、学芸員達の人手不足、日々煩雑で忙しい毎日の事だから、いつもの様に業務も出来るし、時間があればゆっくりとお茶でも飲んでいれば、専門家が後片付けまでちゃんとしてくれる。それが打って変わり、写真を見るだけでも不快なイボイボだのケバケバだのがついたグロテスクな虫の生態を調べ、侵入経路が特定されるまでひたすら調査に追われ、トラップを仕掛ければ、そこに捕まったキモチノ悪い虫をまた調べ、調べたあとは始末も必要になるだろう。大切な文化財の延命のためなら仕方ない。環境のためにも確かに良い事だけれども、実際にトライしている施設の報告を聞く程に、その大変さを思い知り、彼らの努力に頭が下がる。そんなIPM法である。

私はここ数年、ある離島の資料館とお付き合いをさせていただいている。そこは、かつて役場であった建物で、もう随分と老朽化をしているが、その施設自体が文化財指定を受けているために増改築が出来ない事になっている。昔の建物で、立て付けも悪く、外壁も薄い。床は板一枚で、節穴が空いていたり、はめ合わせが狂ったりもしている。空いた隙間からは容易に虫も侵入可能。屋根には時々蜘蛛の巣が張っていたりする。展示ケースの中には、タンスに入れる様な防虫剤が入れられているが、虫の死骸を見つける事もあった。エアコンなどはなく、空調は常時自然まかせ。
この施設には常駐の学芸員もいない。いつも、仕事をリタイアした老人がボランティアで受付の窓口に座り、時折施設を案内している。ここを管理している町の教育委員会も人手が不足し、日頃の来場者も決して多くないこの施設には手を焼いている様にも見える。

もっとたくさんの人たちに、自分たちの住む町の歴史や文化に関心を持って欲しい。地域の文化財の保存には、人々の強い関心こそが何よりも必要だ。それがなければ、何もはじまらない。

20080530



絵画・美術工芸品・文化資料の保存修復 中塚祐松堂

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