修復家の私考 〜 伝統・文化・芸術、そして文化財修復の世界 〜
◆過激なぼくら
マイルス・デイヴィスの『アガルタ』は、私のレコードコレクションの中でもお気に入りの一枚である。二枚組、見開きのレコードジャケットには、横尾忠則の手によるコラージュが光る。それはまるで、竜宮城から、遥か未来の都市を覗く様な不思議な世界が描かれている。
横尾忠則は言わずと知れた画家で、過去に三島由紀夫や寺山修司らと親交を持ち、その頃に描かれた演劇のポスターは、当時、彼の真骨頂だったコラージュ(既存の写真や印刷された絵画の切り抜きと自ら描いた作品を継ぎ接ぎする様な技法)が巧妙に使われていて、今観ても色鮮やかで楽しい。今朝、朝日新聞に横尾忠則の記事に目が止まった。現在、東京の世田谷美術館で開催されている彼の企画展に、予定されていた小学校の鑑賞教室が急遽中止になったというものであった。世田谷区の教育委員会の主導のもとに行われた企画のようだが、展覧会がはじまって間もなく、小学校の校長から物言いが入って、教育委員会も慌てる中、結局別の企画にすり替えられた。事前に下見した教師の一部から、裸婦像や男女の性交の描写、ナイフを持った少年像が気になって、『過激』という意見が出たそうだ。あるいは、昨今、凶悪な犯罪が取沙汰される中、しかも青少年の犯罪が多く観られる中、保護者からの批判を警戒したのだろうか、、、。
『過激』という表現が、彼の作品を説明するにふさわしいかどうか私にはわからないが、『過激』な作品であるから、鑑賞教室が出来ないという理由を理解することは出来ない。芸術表現というのは、シンプルな現実の模写であったり、切り抜きであることもあるが、目には見えない精神の世界や、既知の世界には納まらぬ表現もある。だから、鑑賞者がいつも現実の世界に結び付けて考えたり、使い慣れた表現や手近な言葉に置き換えて理解するすることは、時として何の意味ももたない。
一方、芸術表現は、創造者の手を離れて社会の中に放たれた瞬間から、鑑賞者には自由な解釈、理解が保証される。その正しい鑑賞法方はなく、解釈の正誤も優劣もない。『過激』と感じる事も許されるが、それを『美しい』とか『エネルギッシュ』と感じることも出来るだろう。裸婦や性行為をする男女には生命の力や未来を感じる事が出来るかもしれない。少年が持ったナイフは殺りくの凶器ともなるが、正義の象徴や、文明を切り開いた力の象徴として捉える事もできるかもしれない。そもそも、私達人間こそ、言葉と科学技術という『ナイフ』を獲得して、この世界の自然のサイクルから唯一はみ出したもっとも過激な存在である。その同じ人間の『過激』な表現に触れることによって、この私たち自身を再考することができれば、それはまた大きな意味をもたらすだろう。
ただ観て、感じて、各々が知覚した何かに思いを巡らせる事に大きな意味があり、価値がある芸術観賞であると思う。過去に、横尾忠則の作品を幾度となく観る機会があったが、今回の様な企画展はそう滅多にはない事かと思う。公立の小学校の課外授業は、日頃体験出来ない事に、たくさんの子供達が公平に接する良いチャンスだ。そんな大切な機会が失われたのは残念でならない。幸いなのは、その後、この企画展には子供連れの家族の来場も増えているという。横尾氏も美術館側も文句を言ったようだ。そんな大人達がいる限り、きっと子供達の未来も広がり続けることだろう。芸術と子供達の可能性を信じよう。
2008.06.06 朝日新聞朝刊 33頁を読んで
◎横尾忠則 冒険王展
於:世田谷美術館 4月19日(土曜日)〜6月15日(日曜日)
於:兵庫県立美術館 6月27日(金曜日)〜8月24日(日曜日)◎『アガルタ』マイルス・デイヴィス CBS-SONY
1975年に大阪でおこなわれたコンサートを実況収録。
絵画・美術工芸品・文化資料の保存修復 中塚祐松堂
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