| ジバゴ > |
椿わびすけ様
早速拝見させていただきました。
実に興味深い記事内容でございました。
会記にある土肥二三が有楽流の門人とは良い事を知りました。越後出身で京都で亡くなった二三が有楽流を何処で学んだのかも興味のあるところです。
ひょっとして名古屋でしょうか?
KIRA様 横から失礼いたしました。
二三と名古屋の関わりご存知でしたら教えてください。
.. 6/16(Thu) 16:51-[182] |
|
| SORA > |
椿わびすけ様
私も早速拝見させていただきました。折々サイトを拝見させていただいていますが実に充実したホームページでしかも温かくて、感服しています。達人は多才とはこのことかと、あやかりたい気持ちは一杯です。精進を心がけてはいるのですがさて…。
ジバゴ様
管見によれば土肥二三は織田貞置の弟子で、三州吉田の牧野成定の物頭役。牧野成定は柳沢吉保とならぶ綱吉の側用人。そして、貞置は千石の直参高家。このあたりにも有楽流との関わりがあるようにも思うのですが。
識者の皆様のお説をお待ちいたします。 .. 6/17(Fri) 21:04-[184] |
|
| 随縁 > |
椿わびすけ様
はじめまして。随縁といいます。
ホームページ拝見しました。
席主の自筆会記にあるとおり、主茶碗の金華山焼の歌銘箱書きは、土岐二三ではなく平尾数也です。
「ひらお・かずや」と誤って伝わっておりますが、正しくは「ひらお・すうや」と読みます。尾張藩の記録、その子孫にも確かめてありますので間違いありません。
箱書きにある花押から判断すると、数也の初代ではなくおそらく七代数也だと踏んでおります。金華山焼は尾張藩岐阜代官所勤めの藩士たちが、金華山の土をもって手すさびに焼いた焼き物です。
平尾家は、二代目以降は日本に帰化。尾張侯に茶道をもって仕えた家で、藩の御数寄屋頭を歴代勤め、尾張家有楽流の宗家の立場にあった家です。
椿わびすけ様がおっしゃる「いま一つある有楽流」は、実はこの平尾家を中心にして尾州家家中に伝わった流儀で、おおかたの武家茶道の例に漏れず、明治以後は衰弱。名古屋の市井でかろうじて相承され、現在にいたっております。
流祖は同じくしながら、茶系、点前を異にする席主が尾張の有楽流の茶器を重用されているのを見て、
その度量の広さに感心しておる次第です。
土岐二三は牧野家を致仕して後、京・岡崎に隠棲。奇行で知られた風流茶人であることは、ご存じの通りです。飄逸な茶掛けや、自作の茶杓など茶器をかなり残しており、有楽流というより流儀を超えて数寄茶人に愛されております。名古屋の茶席でも時々お目にかかります。
二三がどこで有楽流を学んだか。常識的には江戸詰めの折、高家旗本だった織田貞置(信長の孫)に茶を習ったと考えていいのではないでしょうか。貞置の時代は有楽流は織田家の茶法であり、貞置の門流が尾張家と水戸家の徳川御三家のうち、二家に流れ込みましたのは、興味深いところです。
貞置自身は尾張徳川初代の義直から茶道指南に招かれ江戸尾張藩邸に出入りした、とされます。義直は、有楽斎に仕えていた武野仲定(武野紹鴎の孫)も茶道名家の士として四百石で召し抱えており、有楽流の茶法に明るい二人を起用していることになります。
もっとも尾張家は、茶道も能楽も複数の流儀を常に採用(お抱え)しており、一流儀のみの茶道が多い諸藩とは異なる様相を示しております。
中宮寺で席をもたれた織田家は、織田有楽斎の末えいにあたります。奈良・芝本に一万石の領主として続いた小大名の家です。
.. 6/17(Fri) 22:49-[185] |
|
| 椿 わびすけ > |
皆さまのお書き込みに感動しております。KIRAさまがこのサイトをお作りくださったお蔭でこうして心ある方々のお知恵を頂くことができるのですね。うれしゅうございます。
ジバゴさま
私がうかつにも書き忘れておりました、二三と名古屋との縁についてご示唆を頂きました。ひとりでは考えられなかったことがここであらゆる角度から光を与えられた感じです。
SORAさま
これまでにもお越しいただいてた由、そして貴重なご意見を有難うございます。あ、達人などとんでもない、どちらかといえば不器用で実生活にはあまり役に立たない愚妻なんです。これからもよろしく!
随縁さま
はじめまして。この掲示板ですばらしいご投稿の数々をいつも敬服しつつ拝見しております。随縁さまの茶道に対する真摯な志に私は知識ということより大切なものがあることを学ばせて頂いております。造詣ふかく的確なものを見る目。赤坂玄古庵さまとお話している時のようなそんな雰囲気を感じます。拙ページではうっかりミスが多くお知らせいただいた箇所は直ちに訂正いたしました。ご教示、本当に有難うございました。どうぞ今後ともよろしくお願い申し上げます。
.. 6/18(Sat) 01:04-[186]-* |
|
| KIRA > |
KIRAです。
レスが遅くなりまして失礼致しました。皆様、お書き込み有難う御座いました。最近はレスどころかHPの更新すら怠り気味で、お恥ずかしいことです。
椿わびすけ様のHP、豊富な写真にはんなりとした文体の解説が添えられて、『うらく流・・・』の記事を拝見するだけでも、ゆったりとした風流な時間が流れていくようです。とはいえ、これだけのページを作るとなると、そのお手間は尋常ではないはずで、それを茶道その他の御活動の合間にさらりとこなされてしまうわびすけ様に、改めて感服致しております。
土岐二三と名古屋は有楽流という以外ほとんど接点がない、というのが実際でしょうが、しかし随縁様ご指摘の通り、茶器・茶杓などを茶会で目にすることがしばしばあり、流儀にとらわれない取り合わせが出来るので重宝されている印象です。
土岐二三は、他府県では非常にマイナーな存在であるが、流儀を越えた横繋がりの強い名古屋では重宝されて、そこそこメジャーな存在になっているとすれば、名古屋の茶道の特性がこの土岐二三に表れているようで、非常に興味深いところです。
.. 6/19(Sun) 00:35-[187] |
|
| soko > |
椿わびすけさま
中宮寺のお茶会の写真のかずかず。眼福でございました。実は織田宗澄家元を人を介して存じ上げておりまして、中宮寺のお茶会にもお誘いがあったのですが、仕事の都合で無念!行かれませんでした。
皆様の書きこみもとてもお勉強になりました。ありがとうございました。 .. 6/19(Sun) 13:11-[188] |
|
| 随縁 > |
椿わびすけ様
駆け出し酔狂茶人の随縁です。穴があったら入りたくなるような過分なお言葉をいただきまして、恐縮至極。これでは、まるで十階級特進。うれしいやら、怖いやら。何やら、妙な心持ちです。
ひけらかした衒学浅知恵、重箱の隅をつつくような真似の数々、平にご寛容のほどを。
KIRAさまへ。
土岐二三は、メジャーではありませんが、それほどマイナーでもないと思います。数寄者には根強い人気があり、素寒貧随縁などがとても手が届く茶器・軸に出くわしたことはありません。
流儀色が強い茶会ではアウトサイダー扱いかもしれませんが、脱流儀、あるいは片足流儀茶会では重宝。時代もそこそこあって、飄逸、隠逸の風が茶会のアクセントになるためでしょう。自ずと需要もあって、高嶺の花。されば似て非なる物も、出回る次第です。
二三が刀を捨て隠棲したきっかけとして、茶書によりいくつか説があって混乱。駆け出し酔狂茶人を困惑させております。その真説、どなたかお教え乞う。
.. 6/20(Mon) 22:42-[190] |
|
| KIRA > |
KIRAです。
随縁様、上記書き込み、ご覧の通り後半は「勢い」で無理矢理名古屋とこじつけて書いておりますので、どうかご容赦を。試みに旧・現茶道大鑑の「茶会記」から土岐二三を検索してみましたがヒット数はゼロ。これでは特に名古屋では二三がメジャー、とは申せません。
なお手近の入札目録を幾つかめくってみましたら、例えば昭和8年の関戸家入札に茶杓が1580円という結構な値で出ておりました。二三の根強い人気が実感されました。
.. 6/21(Tue) 20:15-[191]-* |
|
| 椿 わびすけ > |
sokoさま
お返事が遅れてしまいました。私自身覚束ないありさまで皆さまからお考えを吸収しては少しずつ解ったような気持ちになります。拙サイトにも掲載しておりますが京の「思文閣」には美術人名事典データーベースがあり、それによると二三はたいへん長命であったようです。
<織田貞置に有楽流を学び、香・花・琵琶を能くした。のち京都岡崎に隠棲し、近衛家熙・鷹司輔信の知遇を受ける。享保17年(1732)歿、94才。>
随縁さま、KIRAさま、これは私の単なる想像ですけれども、武将、その権謀術数の道を捨て隠逸の数寄道に入った有楽斎を、二三は身をもって学んだのではないかと…。人を尊敬するということが行き着けばのお話です。
.. 6/22(Wed) 01:04-[192]-* |
|
| 随縁 > |
随縁です。
土岐二三と名古屋の縁ですが、断片記録があります。二三の墓標が名古屋市東区筒井町の自然院にあったことが、大正版名古屋市史に掲載。いまも同寺にその墓標があるか未確認なので、あえて触れませんでしたが。
よくあるような分骨なのか、あるいは唯一の菩提所なのかも不明です。知名人士の墓誌一覧の中に簡単に収録されております。
KIRAさまへ。
土岐二三の掛け軸は、先日の豊国神社の月釜にも掛かったばかりで、これまでも茶杓なり、軸なり、茶碗の箱書きと、いろいろ拝見しております。
たまたま、KIRAさまが参席された茶会には出ていなかったのでしょう。
名古屋の主だった茶会の記録を網羅している「茶華道ニュース」にあたられると、二三が時々顔をのぞかせているはずです。
椿わびすけ様
二三が有楽斎の身の処し方にならって隠逸したのではないかと、私も漠然と思っておりました。
「本阿弥行状記」でしたか、「表装の栞」でしたか、何かの本に、二三が近衛家熙の邸を訪問した折、床の間の掛け物を見て「ご宸筆」と見極めたエピソードが載っておったことを思い出しました。二三は「どなたの染筆かは分からねど、表具の格式で分かった」旨を伝えておって、なるほど茶人はかくありたい、と思ったことでした。
.. 6/22(Wed) 13:12-[193] |
|
| SORA > |
二三は「槐記」の中に15回程も登場しています。この登場回数からしても家煕候との親交振りが伺えます。床の掛物を見て「勅筆云々」という記載があり、「賢クモ見付タルモノカナト、御褒美アソバス」と道安は記載しています。また「二三ハ物ニ心得タル茶人ナリ…」とも。そして貞置からの聞き書きも折々出てきます。
二三には茶会で何度か会った様に記憶しています。近いところでは4月の栄茶会で二三の一行「水月花」を拝見しました。今もその趣が目に浮かびます。
時空を超えてお人と出会えるのもお茶の楽しみの一つでしょうか。 .. 6/23(Thu) 19:10-[194] |
|
| KIRA > |
KIRAです。
随縁様・SORA様仰せの通り二三は茶会でしばしば目に致しますのに、当サイトの「茶会記」ではノーヒット。つまり私ども管理人が参会した茶会の中でも、二三が使われている系統の茶会の会記はアップ数が断然少ないわけで、「茶会記」は名古屋の茶風を感じて頂く為にあるといいながら、実際は違っていることに気付き、少なからず狼狽しております。
SORA様。
『槐記』に二三が15回程も出てくるということ。これは、SORA様がこれまで丹念に『槐記』を読み重ねられて出されたのでしょうか。それとも『槐記』の索引が付された資料があるのか、或いは既にテキストデータベースとして公開されているものを検索されたのでしょうか。
各分野で資料・史料のデータベース化が凄まじい勢いで進んでおりますなか、もしやこの『槐記』もそうかと思いまして・・・。
(突然、二三・有楽流とは無関係なことで申し訳ありません) .. 6/24(Fri) 00:27-[195]-* |
|
| 椿 わびすけ > |
京都大学附属図書館
維新資料画像データベースに彼の書が出ておりますのは既にご承知のことと存じます。「水 後白川院 池水にみきはの桜ちり敷て浪の花こそ盛りなりけれ 八十六歳 写し 二三」と読みましたがいかがでしょう?後白川院のお歌を写しながら彼の筆跡は枯淡の風格がございます。
こちら
また、彦根城博物館にある禾目天目茶碗に彼は名を留め、「茶碗を納めた箱の蓋表には、江戸時代初期の茶人、土肥二三による「けんさん茶碗」の箱書があり、いつ頃のものかこの茶碗の評価を金五両とする書付が添っています。」とあるよし。
KIRAさまが以前仰っておりましたように、茶の資料に関するデーターベースの完成が待たれますね。茶道辞典等では淡交社も角川書店も二三は出ておりません。これは執筆者側の好みもあるかも知れませんね。
.. 6/24(Fri) 11:46-[196]-* |
|
| 椿 わびすけ > |
ここで訂正をさせていただきます。土肥ははじめの名でのちに土岐と改めたのが正解だったようです。そのため茶道辞典では土肥二三は無く、土岐二三として掲載されております。<岡崎三陰士の一人とされ、主家の妻妾献上の弊風を忌憚してかしてか元禄元年浪人。絡東岡崎に隠遁、自在軒と称し、茶・香・花を楽しんだ>とあります。今、別の資料を見ておりますが、彼の花押は宗旦のそれをそのまま角張らしたものの如くで終生この一種で通したようです。宗旦の侘び茶に傾倒したとも考えられ、彼の本来の茶風がここにあるのではないかということです。え〜、受け売りの風趣を一席。
.. 6/24(Fri) 15:21-[197]-* |
|
| SORA > |
KIRAさま
『槐記』を丹念に読み重ねるとまでは達していません。私なりの技量で読んでいるというところでしょうか。私は、淡交社の茶道古典全集第5巻を読んでいます。その索引によったものです。以前輪読会の書き込みをさせていただきましたが、先週のテキストは『槐記』で、調度二三が登場しました。輪読会のメンバーは茶会その他の学びの場にも良く出かけますので、「二三が茶会にも出ていたけれど覚えている」と、問いかけたばかりです。机上の知識に終わらないようにとの願いにぴったり適って、ありがたい事でした。
.. 6/24(Fri) 18:28-[198]
|
| 随縁 > |
土岐二三が隠逸茶人として名をなしたのは、京・岡崎にて。後世、京洛の茶人たちにこそとりわけ慕われたはず。案の定、昭和初期の京都の数寄者・実業家の平井東庵が代表になって二三没後に二百年にちなみ、遺芳展を開催していたことが分かりました。 その折、出陳された二三作の竹の花入を名古屋某所で見かけました。花入にはその折の出陳感謝状が添っており、昭和5年とありました。遠忌展観が開かれるほど、戦前は京都でも二三は人気があったことが、うかがえます。 今も流儀茶道に塗りつぶされない数寄の茶道が生きていて、二三がそのような茶人たちに根強い需要がある名古屋の茶のありよう。一方で、おひざ元の京都では、二三のような現在主流をなす流儀からは外れた風流、隠逸の茶人は、忘却、あるいは埋もれてしまったのでしょうか。
.. 6/27(Mon) 21:35-[201]
|
|
| KIRA > |
SORA様 今日書庫から『茶道古典全集』をひっぱり出してまいりました。確かに索引の二三の項には15箇所も記載が・・・。「この登場回数からしても家煕候との親交振りが伺えます」とのお言葉通り、索引を見ただけでもそれが実感されました。有難うございました。
また、わびすけ様からは二三の茶室として、東京博物館に寄贈された柳瀬山荘の久木庵をお教え頂きました。今、手元に資料が芸術新潮2002年2月号(松永耳庵特集)の32頁に掲載された点前座からの写真しかありませんので、詳しく分からないのですが、典型的な二畳台目下座床台目切の席のようです。
こうして皆様にご教授頂き、これまで漠然とした印象しか持っていなかった土岐二三という人物について新たな認識を持つことができました。まさにこの掲示板を運営していたからこそ得られた果報というもので、管理人冥利につきます。改めて、皆様に御礼申し上げます。
.. 6/28(Tue) 00:56-[203] |
|
| ジバゴ > |
ジバゴです。 御見識者の皆様から多方面よりの茶人土岐二三を教えて頂き本当に有り難く思っております。 また、随縁さまより平井東庵と二三作竹花入の話題が出ましたが、昨秋新潟市で開かれた茶道古美術展において東庵旧蔵の竹一重切花入を手に取って見る機会がありました。正面がやや奥に窪み節の下の色調が濃い形良し色良しの花入で作者の並々ならぬ力量を感じさせるもの。 背に「岩根 八十一歳 二三(花押)」とあり、価格は200万を超えるものでした。
また、家に古本屋から購入した明治時代の人名辞典がありました。これまでの書き込みに一致するものも有りましたので御参考まで一部抜粋します。尚、原文そのままに記しましたので読みにくい事と思いますがご容赦を。
ドヒ ジサン 土肥二三
茶人なり名は豊隆通稱は孫兵衛二三と號しまた自在軒と號す越後國新潟の人三河國吉田候牧野備後守に事へて物頭役に補せられ二百石を食む甞て茶法を織田有楽に學び専ら茶法琵琶香榮を以て己が任とす後致仕して京都岡崎に隠れ和歌を作て曰く火宅ともしらで火宅にふくめしは直に自在の鑵子なりけりと遂にその居る家を號して自在軒といへり二三常に美衣を披て容色を飾り専ら華美を旨とす年九十に及びても猶高履を穿ち毎日黒谷の茶肆に至りて食うを常とせりその往くときは杖頭必ず錢三十文を挂く曰くこれ一日の費に充つるがためなりと常に率意獨行して方なし金貳両を懐に納れ之に記して曰く予もし斃れば此れを以て乏歸の費に供せよとまた別に一書を添へて曰く一、この坊主何方にて相果て候とも毛頭構無御座候海へなりとも川へなりとも勝手次第御捨あるべく候一、首に懸し袋は十得一ツ其外は皆伽羅名香にて候是は相果候處に可被差置候一、右之通に候ば岡崎天王鳥井前百姓四郎兵衛方までお知らせ可被下候仍て如件と二三享保十七年正月六日没す年九十四或は云ふ七十五甞て琵琶の杜鵑と銘するものを蔵す銘は三寳院房演大僧正の書せしものなり後京師に往くに及びて琵琶及び平部二巻を吉田の山田某に与えて去れりといふ (畸人伝、吉田名蹤踪録、三河名所圖會、近世叢語、茶人系傳全集、古今茶人系譜)
出典 大日本人名辭書 經濟雑誌社 明治四十二年第六版
.. 6/28(Tue) 18:11-[204] |
|
| KIRA > |
KIRAです。
ジバゴ様、非常に「面白い」資料をご教示頂き、有難う御座います。笑いながら読んでおりました。こんな型破りでありながら、それでいて「二三ハ物ニ心得タル茶人ナリ…」(槐記)と言わせるのですから、本当に痛快な人物です。一層、愛着がわいてまいりました。
.. 6/30(Thu) 00:37-[205] |
| 椿 わびすけ
> |
KIRAさま みなさま
話題が他のほうに移ってほしいと願っておりましたが、このままでは尻切れ蜻蛉になりますので、くどくなりますがまた書き込ませていただきます。
二三は家庭を捨てて後に出家隠遁したわけですが、その一子を失ったことにより尼になったのが二三の側室・智光尼であることは既に皆さまご承知と存じます。 (豊橋市豊橋百科事典にこの詳細が出ております。)
智光院(曹洞宗)の創立は享保8(1723)年となっているが,寺の屋敷は吉田の本陣山田新エ門の別業の地であった。開基智光尼は山田新エ門の娘で,吉田候に仕えていた土肥豊隆(茶匠二三)の側室となり,1子を失った後仏門に入り智光尼と称し,庵室を営んで智光庵と号したと伝えられている。本尊は阿弥陀如来座像で,仏前に土肥豊隆と智光尼の位牌が安置され,別に開基竜念拈寺第32世洞流巨川大和和尚の位牌が同列してあった。智光庵は元来無本寺であったが,洞流巨川大和和尚の時に竜拈寺末寺となったものと思われ智光尼以後代々尼僧が住した。本堂の軒に茶匠不蔵庵竜渓筆の木額のあったことから,風流人達の出入が想像される。昭和17(1942)年寺号を智光院と改め,同28(53)年弁才天堂を再建した。平成2(1990)年区画整理を契機に山門,弁才天堂以外の建物を廃却し,同3(91)年堂宇を再建して,本堂に安置されていた本尊位牌等を移座した。同4(92)年5月悟慶院に合併され,現在は悟慶院別院となっている。
一人っ子を失った哀しみを夫婦ともに心に秘め、別々に出家の道をたどった二三と智光尼。なぜ地元を離れ京の岡崎に二三はやってきたのでしょうか。織田有楽斎が建てた如庵のある地・京都。和歌の達人たちが集うところ岡崎。そして千宗旦の侘茶を慕って、彼は京をついの棲家としたのではなかったでしょうか。
けれども、私は名古屋の茶風の自由にして真摯なことを、この度学んだような気がいたします。こちら京都という土地がなにかしら冷淡な気風を持つのではないかと…。土岐二三について、そのような感じを受けました。
.. 7/13(Wed) 23:23-[206]-* |
|
|