noteブック ランデエヴウ    椿 わびすけ 

千円札から夏目漱石の顔が消え、中学校の教科書から漱石が消える。そんな淋しい時代になった。
私は漱石山房で行われていた「木曜会」のことをおもい浮かべる。

「それは先生の書斎というより我々の楽しいランデエヴウというような気持ちのする事が屡々あります。
我々の最も自由な最も愉快な時間が其処で過ごされたのでありますから。」(野上臼川『木曜会の話』)




2004/02/17 Tue 00:48 ほっとするニュース

ほっとするニュース


 ホームレスに低額賃貸住宅 東京都などが2千室確保。
 先ほど、こういうニュース記事が目に入った。寒さがようやく遠のいたこの頃、遅すぎる感はあるもののほっとするニュースである。

 最近明るい記事はなかなかお目にかからない。芸能界ではくっついたり離れたりの人間模様が面白おかしく取りざたされるが、こうしたニュースもマンネリ化し、ほな、なんなりとええようににやっとくれやす、ということになる。

 それからするとホームレスに住宅をという今回の東京都の決定には「よくやらはりましたなぁ!」と座布団なんまいか投げたくなるのだ。

 なんでも、4月から都営住宅や借り上げた民間アパートを低額で貸し出すために、NPO法人(特定非営利活動法人)などに事業を委託し、就労相談にも乗るという。その予算約6億円。

対象になるのは公園でテント生活をしている人で、都と区が2000室を確保し、家賃は月額3000円前後という。税金の使い道もこうした実績があれば納税者もなっとくするだろう。

 京都市も別ではない。阪急の地下街を歩くと多くのホームレスが寝転んでいる姿を目にする。老人だけでなく若者も女性も…。
 繁華街にいれば残飯がもらえるから離れないのだと聞く。そして中には精神病院や非人間的で苦痛をもたらす居場所よりも、自由を求めてたどり着いたのがホームレスだったとも聞いた。

 けれども、いまだ彼らに住宅をという政策はない。私はぜひとも東京都にならって実施して貰いたいと思う。誰しも人間である以上そうした権利はあるはずなのだ。

 人生の最後の住宅といえば墓になるが、ひとは一生涯安住の地を望んでやまない。感覚がなくなった死者でなくとも、今生きている者がせめて雨露をしのぐ場所を望んでも、いいのではなかろうか。

 今日の画像は漱石画、海のみえる墓の絵である。漱石は自分のイニシャルを大きな岩石に書いている。







2004/02/07 Sat 00:13 玉露の一しずく 

玉露の一しずく 


「舌の先へ一しずくずつ落として味わってみるのは、閑人適意の韻事である」
 漱石は『草枕』でこう書いている。これが玉露のことを指しているのはいうまでもないが、胃弱の彼がことのほか愛したのが玉露であった。

 抹茶の茶道については茶人を皮肉っている漱石だが、玉露に関してはただその味のみを至福として文章にあらわした。

 「…普通の人は茶を飲むものと心得ているが、あれは間違だ。舌頭へぽたりと載せて、清いものが四方へ散れば咽喉へ下るべき液は殆んどない。只馥郁たる匂が食道から胃のなかへ沁み渡るのみである」
 『草枕』


 今日庵家元の弟君である故伊住政和氏は、茶道家元を支える若き宗匠であり、複数の会社を経営する実業家でもあった。その氏は残念なことに昨年急逝され、最近一周忌が行われたばかりである。

 社員のお一人に伺った話である。
 伊住社長の部下であったYさんはかつて煎茶を習ったことがあり、その話をすると急に社長が興味をもたれ、そこに行ってみよう!ということになった。

 ところが煎茶道家元の家で初めて玉露を飲まれた氏はいたく感動されたというのだ。伊住氏の遺されたエッセイからその間のようすを伺うことができる。

 
「同じ茶の木から生まれたとはいえ、これまで、煎茶と抹茶はあまり仲の良い兄弟ではなかったのだ。だからといって、人間同士が仲良くできないというわけではない。」

 謙虚に、あるがままの心で茶を語る伊住宗匠。こうした伊住さんを心から慕う社員は少なくない。
 氏は続けていう。
「この喜びを伝え尽くす筆力を私は持たない。その代わり、夏目漱石の『草枕』の一文に目を通されることをおすすめしたい。

このエッセイのタイトルは
「一滴の茶のうまみを極める煎茶道の世界に心震える」文・伊住政和
 
「私はいまだかつて、こんなささやかな豊かさに出合ったことがない。
 一滴の味わいに命を懸ける茶人がいる。滴りの中に一境涯を見たり。私は恐ろしい体験を実はしたのかもしれない。」


 今日の画像は昨冬鎌倉漱石の会で展示されていた漱石書簡。
「饅頭沢山ありがとう みんなで食べました いやまだ残っています 是からみんなで平らげます 俳句を作りました」と読める。





                       

2004/02/02 Mon 22:17 赤坂政次さん

赤坂政次さん


 赤坂政次さんといえばいわずと知れた光悦会の重鎮。茶道具の目利きであるのは申すまでもなく、関西における道具商としてはおそらく随一の方ではなかろうか。85歳とは見えない若々しさをお持ちだ。

 光悦会とは、本阿弥光悦をしのぶ茶会で、春の東京の大師会に対し、秋に京都で開催される大茶会をいうのであるが、その会を作ったのが、土橋嘉兵衛、山中定次郎らの世話役。その筆頭の土橋のもとで研鑽を積み大番頭となったのがこの赤坂さんなのだ。

 もとは遠州流に属しておられたが、戦後復員されてから表千家の茶に親しまれた。流儀は違っても、もともと三千家は親戚であるから当然裏千家にも顔を出される。

 私は京都美術倶楽部の会員制月例茶会でずいぶん前からお馴染みになっていた。赤坂さんはいわゆる道具商といったタイプではなく、ひょうひょうとした人間味があって、茶がある方だなぁと尊敬の念を抱いたのが最初だった。こちらは道具にはずぶの素人だが恥ずかしげもなく会話する。

「お言葉ですが、この掛け物の語句はちょっと違った意味あいではないでしょうか。」
 そんな失礼な問いかけにも
「じつは、私は文学博士でしてな。」
などと、いつの間にか笑声のなかに席中が沸くのだった。
  
 ある時、担当された茶会の券をお送り頂いたが、その筆跡の品格あることに私は感嘆した。自分が恥ずかしくなった。そうした赤坂さんにいつか茶会のご相談をすることができたらなぁ〜と内心思っていた。

 もちろん道具も譲って頂いたものがあり、それらは悔いのない買い物であった。中宮寺山吹茶会のことで私がご相談した時、私がとりあわせた道具組の会記と共に主要な道具もをご覧になりながらこう言われた。

「茶は、無理のない道具組がいいと思いますよ。あなたらしい取り合わせが何よりいいでしょうな。」

 主茶碗についてはたいへんなお褒めに預かった。母の形見であり何より愛蔵の道具であれば私の喜びもひとしおであった。

 そのわびすけの茶会は、夏目漱石と猫が出て来るし、ひろく世界とつながっている。そしてそれは坐忘斉家元の和の心を伝える一会として、表現できれば幸いこれに過ぎるものはない。

 今日の画像は、京都美術倶楽部・松庵茶会における席主、赤坂玄古庵その人である。
 昨年春、4月9日のことであった。






2004/01/23 Fri 23:56 電子メールの日

電子メールの日


 今日1月23日は電子メールの日だという。そのこころは、「1(いい)23(ふみ)」(いい文・E文)の語呂合せだ。

 猫の日があるというのを知った時はなんで、と不思議だったけれども、2月22日がにゃんにゃんにゃん、だからですと聞いて感心したことがあった。よくまあこうした愉快なことを考え出す人がいるものだ。

 尤も語呂合わせは日本語であることが条件である。Eメールもいい文となってゆかしい響きがあるのがいい。

 ことし宮中での歌会始めは、お題「幸」を古式にのっとり詠み上げるようすがテレビ中継で放映された。天皇・皇后両陛下の品格あるお歌も印象的であったが、召人の大岡さんの歌はEメールということばを入れたフレッシュな歌であった。

 いとけなき日のマドンナの幸っちゃんも 孫三たりとぞEメールくる

    大岡 信

 電子メールがどんなに便利なものか、ひとたびそれを知ったらコンピューターを離せなくなるから不思議だ。大学はもとより高・中・小まで習得するという世相を考えると、今度は、文字を書くことがおろそかになりはしないかと心配になる。これを老婆心配というらしい。

 読み書きソロバンが基本であった頃の教育を受けた者としては、この利便性の恩恵を感じることがしばしばである。
 最近、漱石を訪ねるカメラさんぽの新ページをアップしたが、カナダから一瞬にして原稿が送られてくるのだ。こちらも編集者として色々文句をつけるし、両者の推敲が一瞬にしてカナダと京都間を飛び交う。航空便ならゆうに一週間かかるところである。

 私は素直に今日の日がEメールの日であるのをよろこぶのである。いい時代に生まれ合わせたことを感謝したい。そして、よき友人たちに恵まれるえにしと共に平和な時が続いていってほしいと願う。

 なにか適当な画像はないかと探したものの見つからない。結局自分のパソコンの画像を出すことにした。じっさいは整理整頓ができていない乱雑な部屋なのにここではさもきれいに見えるのが可笑しい。






 

2004/01/14 Wed 18:04 月給取り漱石

月給取り漱石


 月給取りといえばサラリーマン。
裁判官も代議士もお役人もみな月給取りなのだが世間ではそうは言わない。

 明治40年4月(1907)漱石は大学教授を辞め朝日新聞社に入社した。5月に「入社の辞」として書いている文に次のようなくだりがある。


 新聞屋が商売ならば、大学屋も商売である。商売でなければ、教授や博士になりたがる必要はなかろう。月俸を上げてもらう必要はなかろう。勅任官になる必要はなかろう。新聞が商売である如(ごと)く大学も商売である。新聞が下卑(げび)た商売であれば大学も下卑た商売である。只(ただ)個人として営業しているのと、御上(おかみ)で御営業になるのとの差丈(だ)けである。


 森鴎外や夏目漱石は、西洋に留学してはじめて印税というものを知った。印税をとったのは日本では漱石からだという。

 漱石の文名があがるとジャーナリズムも放ってはおかなかった。読売からの入社勧誘は断ったが40年朝日から招きがあり漱石は主筆池辺三山の人柄に感じて入社を決意する。

 月給200円。賞与年2回。その他9か条にわたる契約をした。大学の年俸は800円であったから、朝日は約4倍に近い年収を約束したことになるのである。

 こうしたことは合理主義とでもいうべきだろうか。漱石は「理に合った」契約というものを取り交わした先進的な日本人であった。
 ところがその月給を弟子筋の野上豊一郎(臼川)に受け取りに入ってくれと頼んだ手紙があるのも面白い。

 明治41年8月、漱石は野上豊一郎宛てに書簡で月給の受け取りを依頼した。

 社から月給をもらいたいに付ては御ひまな時封入りの名刺を以って京橋区滝山町四の社の会社へ行ってお受け取り願度と存じ候。二十五日の午後が渡す日なれど今月末迄のうちにていつにてもよろしく候。用のあるところ時だけ済まぬ事と存じ候。

 のんびりした師弟関係がほほえましい。
 当時の貨幣価値がもひとつ分からないが、後に漱石が令嬢に買ってあげたピアノの代金が400円だったというから、大体の物価水準は想像できよう。


今日の画像は初期に描かれた漱石画、「書架の図」である。 ”Oct,1902 K.N.”のサインと共に「君と我、かたわらに人無し」と英語で記されている。
 君とは愛蔵の書物を指しているのだろうか。








2004/01/01 Thu 22:22 障子貼り

障子貼り


 内田魯庵 『温情の裕かな夏目さん』のなかに、漱石が障子を貼っていたという話が出ていて興味ふかい。

 たまたま昨年の暮れに、といってもつい二三日前のことだけれども、私の寝室にしている三畳の和室の障子の破れ穴から風が吹きこむので、慌てて目貼りをしたのだった。

 さっぱりと張り替えればいいものを応急処置みたいなことで間に合わせた。後で主人から「まるで子どもが貼ったようだな。」とひやかされたくらい拙い出来上がりだった。

 しかし、あの亭主関白の漱石が障子貼りをしていたとは!しかも明治時代、こうした仕事をするのが主婦ではなく一家の主であったということが面白い。

 魯庵は、「私が夏目さんに会ったのは、『猫』が出てから間もない頃であった。」と書いているところからこの家は、森鴎外が住み、そして漱石も住んだことのある「千駄木の家」である。

 「初めて会った時だってわざわざ訪ねて行ったのではなかったが、何かの用で千駄木に行ったが、」とあり、年譜からも夏目漱石が住んだのは明治36年3月〜明治39年12月ということが判明するのだ。

「丁度夏目さんの家の前を通ったから立寄ることにした。一体私自身は性質として初めて会った人に対しては余り打ち解け得ない、初めての人には二、三十分以上はとても話していられない性分である。ところが、どうした事か、夏目さんとは百年の知己の如しであった。」

 漱石はたいへん機嫌がよかった。
「丁度その時夏目さんは障子を張り代えておられたが、私が這入(はい)って行くと、こう言われた。」

「どうも私は障子を半分張りかけて置くのは嫌いだから、失礼ですが、張ってしまうまで話しながら待っていて下さい。」
 そんな風で二人は全く打ち解けて話し込んだ。私は大変長座をした。」

 今明治村に保存されているこの家を、私は訪ねてみたいと思いながら未だに果たせないでいる。漱石が「我輩は猫である」を執筆した書斎は「我猫庵」と呼ばれていたようだが、ちらっと障子のようすを見たかったのである。

 漱石先生はちゃんとした貼り方をされたのだろうなあ、とそんな子どもじみた想いにしばらく浸っていた。

 今日の画像は鉄道旅さんが明治村に行って撮影された、漱石が『我輩は猫である』を執筆した家。苦沙弥先生と猫の昼寝の場所だった縁側には白い障子が続いている。







2003/12/26 Fri 01:13 クリスマスのパン と シスター

クリスマスのパン と シスター


 イブには毎年必ずパンを作って持ってきてくださる方がある。
カトリック修道院でシスターたちが作られる菓子パンだ。クルミやナッツなどの木の実が入っており、見かけよりも中身はずっといいので私は毎年心待ちにしている。

 ケーキ作りには第一人者と自他ともに認めていたシスターポーラは今アメリカに行って留守だとか。高校の学校長でありながらケーキ作りが得意というすこぶる魅力的な日本女性なのだ。彼女がいないのでで今年のパンは例年より品質が劣るのだという。

 友人であるシスターカーラが今日、プレゼントのパンを運んできてくださった。リフォームした居間のこたつに入ってもらい久々に語り合った。シスターは学校では経理担当の仕事をされ、そのほか茶道の指導もされている。

 いぜん拙宅に稽古にみえていた時期があった。修道院ではわからない世間のものを多少なりともお伝えしたのかもしれない。私の傾向として点前よりも水屋、取り合わせ、道具の見方、茶書についての語り合いなど…。お恥ずかしい指導であったが、むしろシスターから学んでいた自分を思う。

 来年4月の中宮寺での山吹茶会、お家元のお献茶、今日庵席、淡交会奈良支部席、そしてかたじけなくも私が一席釜をかけさせていただく。その添え釜ということに話が及んだ時、シスターは目を輝かせて言われた。
 「私はおてづだいに行きますよ!」

 足を痛められ、長く坐っていられないというシスター。
 無一物ということとは異なるけれども、自分のわがままから門人を持たない私にもこうした方々の多くの支えがあり、とにかく一会は進行しそうな気配である。
  
 ことしもクリスマスのプレゼントは修道院特製のパン!みかけよりも中身が美味しいのが嬉しい。

 そして更に私は、インターネットの恩恵を胸をあつくして思うのである。

 今日の画像は、寒牡丹。松庵茶会12月例会で撮影したもの。
 春牡丹には青い葉が豊かにあるが、寒牡丹には殆どない。そして古木を添えるのが慣わしとなっている。






2003/12/12 Fri 23:55 鎌倉漱石の会 冬日のなかに

鎌倉漱石の会 冬日のなかに


 12月9日の漱石忌を前にして7日の日曜日に開催される鎌倉漱石の会に参加するために、私は前日から大船の宿舎に滞在していた。
 京都を離れるのは一年のうち数えるほどしかないがご縁の有り難さ、鎌倉もうでのこの行事は私にとって欠かせないものになった。

 先ずホテルから東慶寺にお電話して井上禅定さまのご都合をお伺いする。電話に出られた方から「じつはきのう転んで骨折され入院されています。」との思いがけないお知らせ。10月には長年連れ添われた夫人に先立たれたばかりと知ったところだった。まことにおいたわしい。

 しかし、禅定さまのことだ。持ち前の平常心で時間がたてば回復されることだろう。心からご快癒をお祈りしたい。

 翌7日の朝8時半には東京からミモザさんがホテルまで来て下さりごいっしょに朝食をとる。

 雨もようで寒かった前日と打って変わり、この日は陽射しもやわらかく円覚寺境内を幸せな気分で帰源院へと歩く。漱石会会員の方々が黙々と山門への石段を登って行かれる。落ち着いた雰囲気をもつ方々だ。

 本堂に坐って、ご住職が作られた恒例の甘酒を早々と頂戴することにした。前々回だったか遠慮して最後にミモザさんと手を出したところ品切れでガッカリ。今回帰源院和尚さまお手製の甘酒はあったかくていいお味だった。 

 午前・午後とも研究者のそれぞれご専門の講話で、漱石の留学時代の作品と手紙、フランスと英国に絞られたもの。いつもながら学生にかえった気分で聞かせていただく。

 本堂でなく庭の腰掛で静かに聞き入っている会員の方々。こうした不変の読者に恵まれた作家は日本で何人有るだろう。

 大正5年12月1日、漱石は病臥の床で「香をたいてほしい」と鏡子夫人に頼んでいる。夫人は「梅ヶ香」をたいてやりました、と『漱石の思い出』には書かれている。私はその光景をふっと思い浮かべた。

 茶道で炉の季節に用いる練香にその「梅ヶ香」の香名がある。私は帰源院のご住職に手土産にもと持参していたが、ついにお渡しする機会もないまままた京都に持ち帰ってしまった。

 100年後の今、漱石先生はこのようにして、香をたいてもらっているのである。冬日のなかに、こころ厚い多くの読者によって!
 今日の画像は帰源院の本堂と庭での昼食時である。
 

 



 

2003/11/26 Wed 00:08 リフォーム大作戦

リフォーム大作戦


 テレビの人気番組は世相の流れがあるようだ。最近は家のリフォームをのぞむ施主に建築家がどのように対応し住居を完成するかというリポートに人気が集まっている。現在週2本別のテレビ局でそれぞれ放映している。

 平素あまりテレビを見ない私がこうした番組に興味を持つようになったのも、実際のところわが家で似たよううなことを始めたからである。木造家屋の水まわりが年数を経てガタが来たのだ。

 台所、台所に隣接する居間、洗面所、風呂。これらがいつの間にか湿気を含んで床板がボコボコになり、どうにもやりかえねばならなくなった。それに住人の今後のためにバリアフリーでということになり、ちっぽけなリフォーム大作戦になったのだった。

 私たちは国全体が物質的には貧しい時代に育ったからだろう。ものをやすやすと捨てるということが出来ない。今回さし当たって不要になったものを捨てることからはじめ、思い切らねばならなかった。

 あるわあるわ、捨てなければならないものが山のように出て来た。二十年ちかく使用した2漕式洗濯機。冷蔵庫もほぼ同じ時期に買ったもの。電子レンジも旧いものながらまだ使用できる。残念ながらこれらも他のものと廃棄処分にしなければならない。

 シンプルな旧式の家電だったからこそこんなに長持ちしたのだろう。とにかく、システムキッチン・リフォームが台所と居間とだけ一応出来上がった。バストイレはこれからだ。

 決して高級品ではないが、なんとなく幸せな気分になってくる。それでも新しい家電は「10年もてばいいでしょう」と言い、店の人が運んで来た。

 日本人の統計から見れば、人間の持ちは80年としてなかなかよく出来ていると思う。修繕も近代的な病院でなく、ぬくもりのある家の中で、そろそろとやってゆけばいい。台所に一輪の花でも活けておこう。

 今日の画像は、大黒柱ならぬリフォーム柱に掛け花入れをかけ、庭に咲いたホンナミツバキをさしたもの。この花入れは短冊が春慶塗で花入れは渋草焼き。飛騨高山の特産品である。

 主人の大先輩であり恩師でもあるK先生から何かの記念に頂戴したもの。K先生の奥様が好まれたと伺っていた。
 やはり二十年ちかく私が仕舞い込んでいたものを、今回ここにお晴れさせていただいたのである。
 K先生ご夫妻にあらためて感謝!




 

2003/11/14 Fri 01:57 老いるということ

老いるということ


 米大リーグの2003年最優秀監督賞に、ナ・リーグはマーリンズのマケオン監督(72)が、ア・リーグの監督(46)と共に受賞者として選ばれた。

 マケオン監督はレッズを率いた1999年以来、2度目の受賞というからベテラン中のベテランだが、72歳という年齢がひときわニュースをもりあげた。

 今年のシーズン途中に就任しながら、チームにワールドシリーズ優勝をもたらしたマケオン監督だ。この日の電話会見で、「(球団に)私のような老いぼれを雇う勇気があったなんてねえ」と楽しそうに語ったという。

 私はそんな記事を読売ウェブで読みながら、最近政治面でクローズアップされた比例選挙区定年制を思い、日米時を同じゅうして72歳ねえ…とその違いを感じた。

 衆院選出馬を拒否された中曽根氏の85歳と比べれば、この老指揮官は高齢の基準が違っている。しかし大リーグの能力主義はいかんなく発揮されたとみていい。

 アメリカの能力主義は非情な世界であろう。ただ、日本では浪花節的な体質とよくいわれることだけれど、どうしてその違いが出るのだろうか。捨てる神あれば拾う神ありという自由なよき空気があるのは、どちらの世界だろうか。

 老ということは年齢だけのことではないと思う。自然の中の自分を知ること…それもあるのかもしれない。
 いっぽう、傷ついたものを補修し、その傷も作品の風格にまで高める、そうした侘びの美を見出したのが日本のすぐれた茶匠たちであったことを、思いあわせる。

 先日、桐蔭会11月の例会で今日庵第4世仙叟の竹花入を拝見させていただいた。三筋に割れたあとを漆でつくろい鋲でとめてある。その傷がそのまま景色となっているのである。白玉椿が一輪楚々と入っていた。

 ご宗家には宗旦作の老僧というじつに風格ある二重切竹花入があり、時々茶会にお出しになる。美術品というより人生そのものといっていい程の感動を私は覚える。

 老僧という銘がまことにふさわしい。

 今日の画像は昨年天龍寺献茶式の日、今日庵席で撮影させて頂いたその「老僧」である。ストロボの光で侘びの感じがでなかったのは残念だったが。







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