| ●2003/11/11 Tue 01:31 働きアリ と お大尽 |
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「働きアリ」2割が働かず、北大・助手らが研究ーーこんな記事が目に飛び込んできた。 「働き者」とされながら、ほとんど働かない「働きアリ」がいるというのだ。その内容とは、昨年春から5カ月間、国内の森林などにいるカドフシアリ約30匹ずつの三つのコロニー(集団)を室内の人工の巣に移して観察した。 その結果、「巣の外にエサを採りに行く」「卵や女王アリをなめてきれいにする」「ごみを捨てる」などの仕事をほとんどしないアリが、どのコロニーにも約2割いたという。 ここまでなら人間さまの世界とあまり変わらない。たまたま昨日は衆議院選挙があって私も投票に出かけたこともあって、妙にこのアリの話が頭から離れなかった。 国民のために働くアリを選ぶのは、地味な働きアリの群集だ。その選んだアリは至れり尽くせりの高賃金で養うことになるのだが、果たして思うように働いて貰えるかどうか? 議会での出席簿を点検するわけでもなく、発言はゼロだというアリもある。親子、夫婦、兄弟、一族郎党、揃って働きアリの「のれん」を出す。こんなに美味しい場所はないのかもしれない。 しかし、自然界の働かないアリは約2割だというのは、立派なものである。しかも研究者は次の考察をしているのも興味深い。 働きの良いのを取り除くと、次に仕事熱心な層の労働量が若干増えたが、働かない層はやっぱり働かなかった。逆に仕事をしないのを除去すると、よく仕事をしていた数匹の労働量は若干、減った。最も働いている層の仕事は、幼虫の世話が大半だったという。 「働かないアリは一見、役に立たないようだが、コロニーにとっては意味があり、役立っている。働かないのは、年を取って働けないのかもしれない。」 こうした観察はなかなか面白いと思った。 それにひきかえ、人間の議員はいうならばお大尽の職分である。選挙民の殆どは営々と働き、中には失業の憂き目にも会い、それでも納税はきちんと払うといった多数のアリたちなのだ。 何よりも、原点であるものを忘れないでいただきたい。取るに足らない、そしてあまり働かない1匹のアリでしかない私は、小泉さんに期待しつつ、このように思った。 今日の画像は、茶庭の露地にある関守石。この石があればこちらは通れませんという指標になるのである。 |
| ●2003/11/06 Thu 15:58 柚子の色づくころ |
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京都は西、水尾の里の柚子は有名である。柚子湯にと、以前お知り合いからたっぷりとした包みをいただいたことがあった。年輪ある柚子の木の実は大きくて重みもありその香り共じつに風格があった。 ゆう、京都ではゆずというより、ゆうと呼ぶことが多い。拙宅のせせこましい庭にも柚子の木は一本植わっているが、天神さんの縁日に出る植木市で苗木を買って植えたものであった。数えればもう30数年もの前になろうか。 ゆうは蜜柑と同じ、その葉は蝶々の大好物である。蝶は必ずやって来て卵を産み付ける。ひょろっとした小さな木ながら春から夏にかけて青虫たちがくっつき、私は割り箸でつまんでは来る日も来る日も青虫退治をやったものだ。しかし、まずいことになってしまった。 「おばちゃん、あかん!ぼく青虫を育てて蝶になるの宿題でやってるんだよ。ゼッタイ、コロシたらアカンのや!」 近所の小学生がある日、やってきて私のこの現場を押さえてしまったのだ。 木と青虫の折り合いをつけどうごまかしたか覚えていないが、あの日以来、虫退治をすることからは一応撤退したのだった。そのお蔭か、黒アゲハチョウがわが家の庭にはヒラヒラ舞うようになったのが可笑しい。 桃栗三年、柿八年――梅は酸い酸い十三年、柚子は九年花盛り〜 そんなことわざがあるが、九年どころか20年過ぎてもゆうの実はならなかった。青虫が葉っぱを食い荒らすからだ。 ところが諦めていた頃柚子の白い花が咲きその花は見事実をつけた。それ以来毎年わが庭の嬉しい行事になっている。 利休は「柚子の色づくを見て炉を開く」と言ったと伝えられる。旧暦十月の亥の日に開炉の日は定められているが、ことしはゆうの色が丁度色づいてふさわしい日になった。 先年、口切の茶事をいそいそと自分の茶室で行っていたことなどが思い出される。ご宗家では宗旦忌に壷飾り花月をして宗旦さまへお供えする。門人として身がひきしまるひとときである。 今日の画像は虫に食べられて葉がなくなったわが家の柚子の木、あちら立てればこちら立たず…(笑)。それでもゆうは色づいてくれた。 |
| ●2003/10/19 Sun 00:17 星野さん と 中坊さん |
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今日、阪神タイガースは日本シリーズ第一戦を行いダイエーに敗れた。 テレビの一場面をチラっと見た限りでは映っていたのは星野監督が笑っている顔だった。勝敗が決していない時でトラ側が失敗した時だが、目下、日本人の人気度ナンバーワンと思われる星野さんだ。その表情もなかなかよかった。 タイガースが優勝した頃、すでに星野さんの母堂は逝去されていたが、彼はその葬儀に行かず野球場にいて監督の責任をまっとうされた。 ひとり監督のその胸中はいかばかりであったろう。 優勝した明くる日にはスポーツ新聞数紙に阪神優勝御礼の全面広告を出した。ファンの皆さまへと数千万を出してその気持ちを表した。 男仙一、とファンやメデアがはやしていたあの言葉は、今はみられなくなった日本男子の理想像だったのだろう。 オーナーに対して強い発言力をもち、チームを変えた名監督。しかし、最後には亡き母上のためにファンのために、純粋に彼は布施をされたのだと私は思った。 そうこうする内に今度は辞任表明だ。なんというすっぱりとした去り際であろうか。原監督を解任した巨人のオーナーをみればこれがこの世界の現実であると彼は達観されたのだろう。 まさに、三界は火宅なり。 漱石が第一義という言葉をもってあらわした倫理観、世の正義感、そうしたものを今の世に見ることは少なくなったが、私の心から尊敬してやまない中坊弁護士のことがこのところしきりと思われる。 中坊さんは誰も成し得ない火中のクリを拾われたが為にとんだことになってしまった。以下がニュースで知った事柄である。 中坊公平弁護士は、整理回収機構の社長だった97年から98年にかけて、旧住専に負債があった大阪、不動産会社の債権回収で土地を売却した際に、ほかの債権者に実際より低い金額を伝えたとして、不動産会社側から詐欺容疑で刑事告発されていた。 10日午前、会見した中坊弁護士によると、「私のほか、部下が東京地検の取り調べを受けるに至った。厳しい回収姿勢を求めた私の責任だ」として、46年にわたった弁護士資格を返上することを決意したという。 ああ、中坊さん! 私はここでも、ひとり中坊さんの胸中を思わずにはいられない。 三界は火宅なり。 法華経の比喩品にある仏のことばを反芻するばかりである。 |
| ●2003/10/13 Mon 15:08 京都五花街の芸妓 |
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友人で、長年お茶屋に茶の指導に出かけている方があって、よく舞台の券を頂戴する。京都五花街についてくわしい方でいろいろ教えてもらえるのが有り難い。 祇園甲部が都おどり、先斗(ぽんと)町が鴨川おどり、上七軒が北野おどり、あと、祇園乙部、宮川町と五つある、京都五花街はお茶屋が母体である。 先日も北野上七軒の寿会にお誘いを受け歌舞練場に行き、ひとときを楽しませてもらった。お茶屋のなかではスターともいえる売れっ子芸妓がいてその人の出る舞台はひときわ観客をとりこにする。 私はストロボなしで舞台から最も離れた壁際に立ってカメラを構えた。同性の自分でもうっとりとなる美しいひとの舞であった。なんとなくあの文章が浮かんできた。 漱石は『我輩は猫である』のなかで、美しい三毛子にあこがれる男の想いを語らせている。新道の二絃琴の御師匠さんの所の三毛子(みけこ)についての一文だ。 三毛子はこの近辺で有名な美貌家である。吾輩は猫には相違ないが物の情けは一通り心得ている。うちで主人の苦い顔を見たり、御三の険突を食って気分が勝れん時は必ずこの異性の朋友の許を訪問していろいろな話をする。すると、いつの間にか心が晴々して今までの心配も苦労も何もかも忘れて、生れ変ったような心持になる。女性の影響というものは実に莫大なものだ。 杉垣の隙から、いるかなと思って見渡すと、三毛子は正月だから首輪の新しいのをして行儀よく椽側に坐っている。その背中の丸さ加減が言うに言われんほど美しい。曲線の美を尽している。尻尾(しっぽ)の曲がり加減、足の折り具合、物憂げに耳をちょいちょい振る景色なども到底形容が出来ん。ことによく日の当る所に暖かそうに、品よく控えているものだから、身体は静粛端正の態度を有するにも関らず、天鵞毛を欺くほどの滑らかな満身の毛は春の光りを反射して風なきにむらむらと微動するごとくに思われる。吾輩はしばらく恍惚として眺めていたが、やがて我に帰ると同時に、低い声で「三毛子さん三毛子さん」といいながら前足で招いた。 漱石先生は祇園に来てお茶屋で舞妓とざこねをした経験もあったが、色っぽいものでなく幼い舞妓に同情したのだった。それを書いた新聞記者の記事も残っている。 |
| ●2003/10/02 Thu 00:19 蓮池 と 蓮茶 |
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天龍寺の蓮池には石橋がかかっている。昨日その場所を歩いていて『虞美人草』のなかの甲野さんと宗近さんとの会話を思い出した。 大燈国師や夢窓国師の名も出てくるところがやはり漱石の好みなのだろう。 「どうでも、好いさ。――まあ、ちっと休もうか」と甲野さんは蓮池に渡した石橋の欄干に尻をかける。欄干の腰には大きな三階松が三寸の厚さを透かして水に臨んでいる。石には苔の斑が薄青く吹き出して、灰を交えた紫の質に深く食い込む下に、枯蓮の黄な軸がすいすいと、去年の霜を弥生の中に突き出している。 私は和服であったけれど、愛機のライカデジルックス1をバックから取り出し首にかけた。そしてすぐさまシャッターを押した。漱石が朝日新聞にこの小説を著した当時は、天龍寺の蓮池もかなり広いものだったのではないか…などと想いながら。 季節は違うものの、枯れ蓮といい石の橋といい、現在もあることが何よりである。石には苔の斑の代わりにススキの穂がなびいている。 寺の境内であればこそこうした景観が守られたのであろう。神社仏閣は庶民の間ではどうも親近感が薄れているようだが、自然破壊の世相を押しとどめる役割を果たしてきたことは大きいし認めなければならないと思う。 蓮について今日はいい話を聞くことができた。裏千家今日庵に於いては毎月一日は直門が家元の道話を拝聴する。家元のお話の後、前家元の千玄室大宗匠が先日ベトナムに行かれた折の土産話をされた。 「共産主義国家のベトナムの国家元首の歓迎を受けましてね。ホーチミンの遺骸も見ました。ホーチミンというひとは偉い方で…。」 「そこで蓮茶というのを飲みましたが、蓮の葉を煎じたもので蓮の実も入っているようでした。」 ベトナム。過去のベトナム戦争を知る年代の私たちにとって、それはほっとする和やかなひとときであった。 私もいつの日かその蓮茶を飲んでみたいと思う。 |
| ●2003/09/12 Fri 00:26 夕顔もよう 宗旦の子・仙叟が好んだ夕顔釜 |
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釜ひとつあれば茶の湯はなるものを 数の道具をもつは愚かな 利休百首にある和歌であるが、素直にみれば釜の重要性を言ったものだろう。利休時代ヘチカンという貧しい茶人があって、手取り釜、つまり大きい鉄瓶で茶の湯をし、人をもてなしたという。 彼は侘び茶人の代表選手のようになっている伝説の人だが、実際にはなかなかこういかないのが茶の世界かもしれない。 京都美術倶楽部。およそ、茶道具や骨董に興味をもつ人ならこの倶楽部の名を聞いたことはあるのではなかろうか。ここは全国から集まった骨董品が鑑札のある道具商人の間でせりにかけられる処である。いわゆる卸、そうしてここから小売へと。 その京都美術倶楽部で行われる松庵茶会。よりぬきの道具商による茶会ということで年10回開催されている。道具がわからないと困るので私も長年勉強にもなればとこの茶会には通ってきた。会員制になっていいるがその多くは京阪神の数寄者のような人々だろう。とにかく道具を見るのが好きだという…。 今月の例会は善田好日庵。京都の道具商では知らぬ人はない大御所だ。しかしそれは驚くべき席であった。 釜。私が釘付けになったのは、夕顔のもようが浮き彫りになっている地肌と、これを好んだ宗匠の在判がくっきりと出ている釜であった。その次第というのが尋常ではない。仙叟自筆の添え状に加えて更に一燈、玄々斎と続くのである。 釜 仙叟好夕顔釜 仙叟在判 添状 一燈折紙 玄々斎箱 浄久造 田村家伝来。 これこそ、裏千家今日庵において秘宝ともいえる道具ではないか! おそらく途方もない値段がついているに違いない。席主の善田氏はそんなことを匂わせておられたし、ひょっとして億近いのではないかとも思った。 ただ、愉快であったのは、この釜のことを知らせた仙叟の書状の内容である。魚のいわしを貰ったことを喜び、相手にこれから賞味すると礼を述べているのだ。こうしてみるとどこかに侘びの気分がにじみ出ているようで、私は或る救いを感じたのであった。 |
| ●2003/09/04 Thu 16:24 野球 のーぼーる |
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阪神タイガースの優勝はマジック7となり星野監督胴上げのその日が愈愈近づいてきた。 なんといってもこれまでが永年ダメトラだったから、ファンならずとも今年の健闘には快哉を叫びたくなる。 ところでベースボールを野球という語に訳したのは正岡子規だという説があるが、どうもスポーツ界でははっきり認知されてはいないようだ。 ただ、彼が自分のことを野球と書いて「のーぼーる」と読ませたということは確かな資料として残っているらしい。 子規の本名は升(のぼる)といい、野球青年だったという。のぼるから「野のボール」すなわち「野球」となったと千葉にお住まいの朝川 渉さんに教えられた。 それは、明治23年3月16日の葉書で、子規は自分のことを「野球」と署名し、「のぼーる」と読ませた。同年4月には、手紙に次のような俳句を書いているという。 恋知らぬ 猫のふり也 球あそび 能球 恋を知らぬ猫のふりして、キャッチボールで遊んでいるのは、青年子規のプロフィールであろうか? ここにある能球という署名もやはりのーぼーるのシャレであろう。まことにほほえましいエピソードではないか! 後年、病気であれほど苦しんだ彼にもこのような快活で愉快な日々があったことをしみじみと喜びたいと思う。 今日の画像は子規が描いた「玩具図」である。九月二日の署名があるのがうれしい。漱石に勝るとも劣らぬ美しい画像をつつしんでお借りする。 |
| ●2003/08/25 Mon 00:55 鴎外が訳した 「椿姫」 の名 |
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椿の原産地は日本であり、そのため学名はカメリアジャポニカという。日本では一重咲きの藪椿や雪椿が基本的な椿とされているが、ヨーロッパなどではどちらかといえば八重咲きの椿が愛されてきた。 「椿の花をもつ女」、デュマが書いた小説の原題を森鴎外が「椿姫」という名に訳したというが、見事な翻訳である。けれども小説よりもヴェルデイ作曲のオペラで多くの日本人に親しまれてきた。 椿の花には香りがない。椿姫がいつも胸にさしている椿の花は、香りがないゆえに胸を病む彼女が好んだのだという。百合のように香気がつよければ胸苦しくなるからであろう。 その椿姫にはモデルが存在したという。マリ・デュプレシという美女がヴィオレッタ(マルグリット)の実際のモデルとされている。今日の画像はコメデイーフランセ−ズ所蔵と伝えられるマリの肖像である。 聞くところによると聖職者との私生児として生まれ、不幸な環境に育ったマリ。その彼女は類まれな美貌と芸術的センスによって瞬くうちに多くの貴族達の憧れの的となった。ただし、身分はいわゆる高級娼婦、クルテイザンヌとして…。 先に私は吉野太夫と比較して椿姫には多分に失礼なことを書いた。思えば文豪・デユマの心をとらえ、大音楽家ヴェルデイを虜にした心あるマリ!私はその魅力についてとやかくいうものではない。ただ贅沢を欲したあまりに悲劇を身をもって演じた西洋の「姫」は、吉野とは余りにも違いすぎると思ったのであった。 吉野はつつましさを体得した女性であった。身請けされた後に灰屋紹益に嫁した彼女は貧しかったせいか常にみすぼらしい身なりをし、夫と家に尽くしたと伝えられる。吉野が好んだ吉野窓はよく知られているが、それは完全な円形ではない。底辺が切り取られており、それは不完全な欠けたものを尊ぶ気持からなのであった。 今夜は、高級娼婦というまことに哀しい名を一時はつけられた二人の美女を想い、その時代を想い、椿の花に寄せて、ささやかなしのび草とした。 |
| ●2003/08/18 Mon 22:40 京都五山 大文字送り火 |
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16日の8時過ぎに家を出て大通りまで歩いた。大文字送り火は自宅の2階の物干し台に出ると、彼方の山に燃えるのがくっきりと見えるのであった。ほぼ2、30年前にもなろうか。 そうして家族とともに、逝きし人を送るために合掌するのが習いであった。他の都市ほど高層建築がニョキニョキと建つことなく、京都は住宅地域の規制が厳しかった頃のことである。けれども望景という点において今はすっかり変わってしまった。 ネットのお付き合いでいえば知人ということになるが、一人娘を亡くされた東京の方があり、せめてその方に大文字の送り火を写真に撮ってお届けしたいという想いもあった。 夜の往来は見物人のラッシュだった。手に手にカメラ、中にはケイタイをかざして写真を撮っているのが見える。交通整理のおまわりが「立ち止まらないで!」と声をからして叫ぶ。観光客が多いようだ。 大文字の送り火の歴史は古い。京都の送り火は松明を投げて虚空をいく霊を見送る風習から出たものである。また病気平癒、悪霊退散のご利益があるというも人気を呼ぶのだろう。 京都にならってか日本各地で大文字焼きという盆の行事がかなりあるのを知った。「三島夏まつり大文字焼き」は日本一の大きさを誇るもので、「甲斐いちのみや大文字焼き」も有名だそうだ。 もっとも古い説は平安中期、弘法大師空海が始めたものだという。 山麓にあった浄土寺が火災に遭った際、本尊の阿弥陀仏が光を放ちながら山上に飛び、火を免れた。 そこを弘法大師空海が耳にし、人の体を表す「大」を描いた。(都名所図会) 今日の画像は、大文字送り火の夜景で偶然撮った一枚である。デフォルメされているようなのが可笑しい。 |
| ●2003/08/10 Sun 17:52 吉野太夫と放映ドラマ |
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歴史上の人物を取り上げるドラマは視聴率がよいので、なんのかんのと創作をしては人気ドラマを作り上げ放映するようだ。そのことで今お膝元の京都島原ともめている。 ことの起こりは、NHKの大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」で4月6日に放映された、江戸時代初期の名妓(めいぎ)、吉野太夫(1606―43)の半裸シーンについて、太夫ゆかりの京都・島原の文化財保護団体「角屋(すみや)保存会」と地元自治会が「一流の文化人だった太夫への偏見を招く」と、NHKに抗議していたことが公になった。 問題になったのは、背中をあらわにした太夫が武蔵に「抱いて下さい」と言う場面らしい。島原側が今年2月と3月、NHKに「裸のシーンや性的な文言の削除」を求めたが、制作担当者らは「必要な個所」として譲らなかったそうだ。 製作側としては、遊女だから当然という考えだろうし、そうした性的シーンが人気を呼ぶ風潮を熟知してのことかもしれない。けれども、吉野の地元にいる者としてはやはり心穏やかではない。 私は、吉野太夫とは世界でもあまりみられないような魅力的な女性だと思っている。椿姫が西洋では有名であるが、到底この二人ではくらぶべくもない。吉野には教養と情けとさらに日蓮へのふかい信仰があった。常照寺の赤い山門は「吉野門」とも呼ばれているが、吉野太夫の寄進によって建てられたのであった。 当時、彼女に思いを寄せて通い続ける二人の男性があったのはよく知られている。関白・近衛信尋と佐野重孝(灰屋紹益)。本阿弥家の生まれである佐野家。近衛と共に京の町を代表する文化人であった。紹益は彼女を身請けする。紹益二十二歳、吉野は二十六歳の時であったという。 佐野は親の許しが得られず駆け落ちしたのであるが、後に吉野の人柄に感じ入った養父に認められ幸福な家庭を営んだと伝えられる。灰屋というのも茶につながり吉野は吉野窓という窓を考案し遺している。 今日の画像は、吉野の夫・灰屋紹益が彼女の没後、生前を偲んで、御所の絵師・土佐光興に描かせたものである。 |