noteブック ランデエヴウ    椿 わびすけ 

千円札から夏目漱石の顔が消え、中学校の教科書から漱石が消える。そんな淋しい時代になった。
私は漱石山房で行われていた「木曜会」のことをおもい浮かべる。

「それは先生の書斎というより我々の楽しいランデエヴウというような気持ちのする事が屡々あります。
我々の最も自由な最も愉快な時間が其処で過ごされたのでありますから。」(野上臼川『木曜会の話』)




2003/08/04 Mon 00:50 黒猫の因縁

黒猫の因縁


 黒猫といえば先ずポーの小説になるだろうが、日本ではなんといっても漱石であることは誰しも異論はないと思われる。

『吾輩ハ猫デアル』の序に、猫に対してじつに細やかな心情を書いているのを見ると、昨今テレビなどで評論家が「飼い主とペットはパートナーの関係でなければならない」と弁じているのが、何を今更と笑ってしまう。

 その「序」にはまさしく人間と猫との因縁が同じ生き物として書かれているのである。

 此書は趣向もなく、搆造もなく、尾頭の心元なき海鼠の樣な文章であるから、たとひ此一卷で消えてなくなつた所で一向差し支へはない。又實際消えてなくなるかも知れん。然し將來忙中に閑を偸んで硯の塵を吹く機會があれは再び稿を續ぐ積である。猫が生きて居る間は――猫が丈夫で居る間は――猫が氣が向くときは――余も亦筆を執らねばならぬ。

 明治三十八年九月  夏目漱石


 じっさい漱石はこの書物で一挙に人気作家として売り出したのだから、因縁は深かったのだ。

 私が好きな文章に、『硝子戸の中』で猫と自分を重ねあわした箇所がある。猫はひどい皮膚病にかかり、漱石は大病で入院する。これはその後の記述である。運よく漱石は退院し家へ帰ることができた。


 私の衰弱がだんだん回復するにつれて、彼の毛もだんだん濃くなって来た。それが平生の通りになると、今度は以前より肥え始めた。
 私は自分の病気の経過と彼の病気の経過とを比較して見て、時々そこに何かの因縁(いんねん)があるような暗示を受ける。そうしてすぐその後から馬鹿らしいと思って微笑する。猫の方ではただにやにや鳴くばかりだから、どんな心持でいるのか私にはまるで解らない。


 漱石が書いた黒猫の絵には、1914年の「あかざと黒猫」がある。
素人の絵にはちがいないがどことなく気品があってしかも猫への愛情がにじみ出ているところ、本職の画家には描けないような気がしてならない。





2003/07/28 Mon 17:35 百燈会の灯

百燈会の灯


 掛川市の郊外にくらみ温泉という田園地帯がある。ことし一月に行ったのがきっかけで(noteブックにも一月の下旬にしたためている)、そのご縁があって旅館のおかみさんから案内状が来た。

 その旅館の持ち山である百観音のお山に在る石仏・百観音に、灯明をあげておまつりする「百燈会」が催されるという。とくに今年はここで演奏をしたいと希望する音楽家が来て演奏するとあった。

 私は主人にそのことを話すと「行ってきたらいい。」とぶっきらぼう且つなんとかの一言。とたんに私は子どものように嬉しくなってしまった。私も一つだけお地蔵さんのような観音を寄進させていただいていたので、そのお姿を見たいし会いたかった。

 そしてその日が来た。26日に掛川へ。旅館に一泊、やはりここにも同志といったらいいだろうか、観音を寄進した方々のなかで今回参加された方が三十人位おられ、ご一緒に夕食。その後貸切バスでお山へ。おかみさんが歩きやすい運動靴を貸してくださった。

 山の石段を登る。点在する百観音へ供えられた真新しい行灯。旅館のご主人の手作りだという。私たちは次々に点灯しながら歩いていった。

 夏の宵闇のなかであかあかと百燈の灯明はもえ、ゆらめいた。
 私はいま、灯といえば寺田寅彦の漱石先生追憶の一文を思い起こすのである。この灯は街路であって灯明とはいえないだろうが、恩師をしのぶ灯として私には忘れられないものになっている。


臨終には間に合わず、わざわざ飛んで来てくれたK君の最後のしらせに、人力にゆられて早稲田まで行った。その途中で、車の前面の幌(ほろ)にはまったセルロイドの窓越しに見る街路の灯(ひ)が、妙にぼやけた星形に見え、それが不思議に物狂わしくおどり狂うように思われたのであった。
 先生からはいろいろのものを教えられた。俳句の技巧を教わったというだけではなくて、自然の美しさを自分自身の目で発見することを教わった。同じようにまた、人間の心の中の真なるものと偽なるものとを見分け、そうして真なるものを愛し偽なるものを憎むべき事を教えられた。

寺田寅彦





2003/07/23 Wed 22:04 ダメでなかった虎

ダメでなかった虎


 アメリカ大リーグの野球中継をたまにテレビで見るが、観客が静かにプレーを楽しんでいるのが好ましく思われる。野茂が開拓者となった日本人メジャリーガー達の活躍は、なんといってもこうしたおとなの環境に支えられている。

 ベースボールを野球という名に翻訳したのが子規であったとか、いやそうではなかったとか、そのためでもないけれども私はサッカーより野球のほうが好きだ。

 今のようなドームでは「野球」の名が泣くが、それでも選手の胸のすくようなプレーにはテレビ画面に釘付けになることもある。野茂、イチローをはじめとして技術面のみならず人間的に人を惹きつける。

 世界的になっているがサッカーでの観客の熱狂ぶりはすさまじいものだ。この点は日本の野球でのファンもあんまり差はないかもしれない。ことにターガースファンは際立っているようだ。

 私は「カミサマ、ホトケサマ、バースサマ」と熱狂したタイガース優勝のあの時代を思い出す。とにかく楽しかった!!
 ダメトラがダメでなかったんだと人々はどんなに勇気を与えられたことか。

 ところがその後元の木阿弥に戻ってしまったのだ。やはり…なぁと目をしょぼつかせるその横では、名門の東京ジャイアンツが威風堂々勝ちどきをあげてゆく。
 
 ところがことしは面白くなってきた。バースのような助っ人でなく、殆ど和製トラであるところが特徴だろう。メジャーで思いっ切り稼いできた伊良部の投球もいい。よい時世になったものである。

 政治とまったく同じで、相手が強くてこそよい試合になるのだから政治家も虎の強さをよくよく見習ってほしいと誰もが感じているだろう。

 スポースニュースによれば、好きな球団のトップは巨人で34%、次いで阪神の19%。ちなみに自民支持層の5割が巨人ファンで、阪神ファンは2割弱。民主支持層ではともに3割ほどだったという。

 先に書いた宵々山は、正しくは15日のことであった。
 今日の画像もやはりその日に新町通りで撮影した一枚である。



 
 

2003/07/18 Fri 13:56 浴衣すがたの男女

浴衣すがたの男女


 宵々山といえば祇園祭のなかでも解放的な日である。
 宵山ほど混雑もしないだろうという思いもあって夕方に出かけるのだが、道行く人々が浴衣をきているのを見ると、あぁ、一年のうちでこんな日は滅多にないと思う。

 若い女性は洋服感覚で浴衣を着ていて、昔の浴衣すがたのようなしっとりした趣ではないが、それはそれなりにカラフルな可愛さがある。
 男性は殆どといっていいくらい洋服であるが、なかにはよく似合う浴衣姿の男性も見受けられた。

 京都で最大のメインストリートである四条通り、すべての車を通行禁止する交通規制。歩行者天国はまったく素晴らしい時間帯である。たまたまカメラのシャッターを押した時、仲のよいゆかた姿の男女が写っていた。

 カップルというのはこういう人たちだろうと私は思っていた。いたと過去形にしたのは、最近カナダの裁判所で同性同士の結婚を認める判決があったというニュースをアサヒコムで見たからだ。


 「カナダで2州目、同性の結婚認める判決 8日、バンクーバーの州最高裁前で指輪を交換するGさん(58)とB(35)さん=AP
カナディアンプレスによると、11年前から愛し合ってきた2人は「感激です。権利を求めてきた多くの人々のためにも誇りに思う」と声をそろえた。オンタリオに続き2州目の判決。」


 漱石が話題にした「両方にひげのあるなり猫の恋」の俳句を私はとっさに思い出した。
 なぜなら記事に添えられていた写真はそのことを如実に語っていたからである。
 新郎新婦ならぬカップルはともにひげをたくわえた男性であったのだ。


 漱石先生、
 この21世紀の現代に、なんとかおっしゃっていただけないでしょうか?






2003/07/10 Thu 23:27 祇園まつりはインターナショナル

祇園まつりはインターナショナル


 ごずてんのうさんて、知ってはりますか?
 天皇家の家系図みてもあらしませんえ。

 祇園祭りのご祭神はほかならぬ牛頭天皇なのであって、今ではスサノウノミコトが牛頭天皇となってるんだそうだ。神話の世界だからおっとりと聞いておくほうがいいのだろう。

 八坂神社によれば、「天照大神の弟のスサノヲノミコト(素戔嗚尊),その妻,クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)が,一説に都に流行る疫病を静めようとインドから牛頭天皇を呼び寄せ,66の鉾を神泉苑に送ったことに始まる。」という。

 そうなるとご祭神はインドにおわしたのだ。牛の頭とどういうカンケイがあるのか、こちらもおっとりと聞いて来たので今もって分からないでいる。

 ところがまだ面白いことがある。
 「八坂の名のとおり高麗から渡来した八坂氏の社と社伝にはある」と言い、また
「花街・祇園は江戸中期に門前の水茶屋から発展したもの。」ともいう。
 祇園はもともとインドの精舎の名であり、富裕な商人がブッダに帰依し寄進したものであった。

 しかし、高麗から渡来した八坂氏…、となればこれはますますもってインターナショナルではないか。私はすこし動揺していた。もっとも京都という土地は渡来人の影響が濃いのはよく知られているが、祇園祭までもがそうであるとは!

 京都町衆、日本における民主主義の歴史の一コマである祇園祭。これは京都人にとって何よりの誇りなのだ。
 去年の宵山には洋服で出かけ写真を撮ってきた私だけれども、ことしは久しぶりに浴衣を着て行ってみよう。


 今日の画像は、茶席内の鉾の飾りである。つい先日京都美術倶楽部で席主の「どうぞ撮ってください。」の声にほっとした。





2003/07/05 Sat 23:47 本番 泥縄の歌

本番 泥縄の歌


 いよいよ本番の日がやってきた。先に書いた泥縄の歌よみの本番である。それには先ず、今日という日がなんの日であるかに触れなければならない。

 裏千家十一代玄々斎精中(1810〜1877)は、 幕末から明治の変動の時代に、「茶道は遊芸にあらず」とし、「忠孝五道を精励し」「貴賎衆人親疎の隔てなく交会」するものとして『茶道の源意』を書いているひとであるが、今日庵のみならずひろく茶道界に偉業を成し遂げた宗匠であった。外国人を迎えるための椅子式の茶礼を創案したのも玄々斎である。

 もとは三河領主の松平家に生まれ、10歳で裏千家十代認得斎の養子として迎えられたという。わずか10歳で実の母とも別れ他家に入った少年の胸中はいかばかりであっただろう。それを救ったのは養母となった認得斎夫人の愛情と傑出した教育であった。

 漢学をはじめとしてあらゆる学問・教養を身につけた玄々斎は17歳で裏千家十一代当主となる。今では考えられないようなことではなかろうか。よき人びとの広範な輪にも恵まれた。

 尾張徳川家、なかでも十二代の斉荘(なりたか)は、この玄々斎精中宗室に茶道を学んだ。ともに同年齢であったという。
 友人であり師弟でもあったふたりには茶道を媒介として深い信頼関係があったようだ。

 さて、こうした玄々斎精中という裏千家中興の祖と十三代十四代の歴代宗匠をおまつりし、供養する毎歳忌が今日の精中忌なのである。
 宗家において神聖な座敷である咄々斎、その八畳の間で七事式という協働の点前をご奉仕させていただく。
 いつものことながら緊張と感激の瞬間である。


 本番に私に与えられた花は、白京鹿の子であった。
 この花と紫の桔梗を一輪、花台から取り出して、私は竹花入れにそっと挿した。
 それから懐中していた短冊を出して歌をしたためた。

白京鹿の子 
        十歳にて今日の庵にきたまいし 
                  大いなる君 白京鹿の子 

 京鹿の子の京と、今日庵のキョウをかけて私は玄々斎への手向けの歌とさせていただいた。
 泥さんの縄はなえたのかどうか、どうも自分ではわからない。

 それでもお家元は、「みんなが玄々斎に手向けてくれてありがとう。」と、おっしゃって文台に載せた五枚の短冊を床の間に飾ってくださった。
 ただ感謝あるのみ!
 





2003/06/28 Sat 00:39 両方に ひげのあるなり 猫の恋

両方に ひげのあるなり 猫の恋


 漱石が結婚したのは新夫30歳、新婦の鏡子夫人は20歳の時である。今の女性で20歳で結婚するのは珍しいほどの早婚ということになるだろうが、当時としてはごく普通かむしろ遅いくらいであった。

 夢多き新妻に漱石は一つの宣告を下したという。
「俺は学者で勉強しなければならないのだからお前なんかにかまっては居られない。それは承知していてもらいたい。」

 鏡子夫人は『漱石の思い出』でこう語っているが、明治の女なればこそこうした夫の意向にも甘んじて耐えられたのであろう。お嬢さん育ちの花嫁には厳しい新婚生活であったようだ。

 機嫌のよい時には、俳句をやってみないかと漱石は妻に話しかけた。ある時漱石は俳句の本を読みながら転げかけて笑っている。何が可笑しいのかと夫人が訊ねるとこの句が可笑しいと言って一句を示した。

「 両方にひげのあるなり猫の恋 」

 鏡子夫人も「こちらも一つけちをつけるつもりで」、どうせ相手が猫なんですもの、両方にひげのあるのは当たり前じゃありませんかと応酬する。結局は、だからお前には俳句がわからないんだって愛想をつかされてしまいました。となった。

 いかにも表面では邪険にみえるようだけれども、そのじつ新婚家庭の和やかさとユーモアが伝わってくるヒトコマではないだろうか。思えば、当時女性が男性と同じような格好をしていること自体、なんとも不思議でおかしなものだったのだろう。

 現代なら事情は確実に変わっている。猫の場合はひげがあっても自然のままだから問題にはならないけれども、こと人間になると一口には言えない複雑な内容になるのかもしれない。

 新婚時代の漱石夫妻のこうしたエピソードに、私は明治という時代のおおらかさとあたたかさを感じてしまう。

 

 


2003/06/24 Tue 22:57 泥縄の歌よみ

泥縄の歌よみ


 茶道宗家の年間行事にご先祖の供養の式がある。その時直門の弟子たちが「七事式」というものを披露するのであるが、正しくはご供養として奉納するといったものである。

 今年は夏に、出番がまわってきたようだ。問題なのはお茶を点てるだけでなく、歌を詠んで短冊に書き、朗詠しなければならないのである。目下、家庭内にもそうしたやりとりが交わされるのだが、のれんに腕押しの状態なのは、相手が相手だけにどうにもならない。

以下はいずれも某月某日のこと。

その一
「あの〜、ちょっと聞いてほしいの。花を一輪活けて、その花の歌をよむってことをお茶でするんだけど、こういう歌はどうかしら…最初に歌の題名を書くのよ。」

「京鹿の子っていう花があるでしょ?」
「知らんな。」
「ん〜もう〜。この間まで庭に咲いてたのに。まあそれはいいけど。この花で今日こんな歌を詠んだの。

「京鹿の子   桃割れにゆいし鹿の子のくれないをおもう昔になりにけるかな。 」 

「なんだ。泥縄の歌というやつだな。」
「なに?それ。」
「そんなことも知らんのか。つまりだな、泥棒をとらえようとしてそれから縄を綯い始めるってことだろ。歌を知らんものがあわてて歌詠みになるってことだ。」


その二

「今日のお稽古では、乙女ゆりの花があってその歌を詠んだの。こんなのおかしい?
「乙女百合   あくがるる心はいまも変わらざる わが庭うちに咲く乙女ゆり。 」

返答無し。


その三、

「今日は七段花というアジサイに似た花があって、その花を歌ったの。
神戸の六甲山にあっって幻の花といわれたらしいんだけれど、あるきっかけで発見されて今では栽培もされているらしいの。なんでもシーボルトが此花のことを書いてるんですって。」

無言。

「七段花   その蒼(あお)のいろ幽かなり七段花 六甲の山に自生すらしも。 」

聞く耳もたぬ風情。


その代わり、亭主は散歩がてらにスーパーでもなかを買ってきてくれた。私は主人とともにそれでお茶を飲んだ。安物のもなかはけっこう美味しかった。
泥縄の歌詠みは出番の日が近づくにつれ亭主のことばが気になりだした。
 そろそろ賞味期限なのかもしれない。






2003/06/19 Thu 00:07 西部劇 と 桃太郎

西部劇 と 桃太郎


 子どもの頃、桃太郎の話に親しんだ。桃太郎の勇気と強さは日本の子ども達の憧れであった。鬼が島へ三匹の家来を連れて鬼退治に行く。私の子ども時代には「成敗(せいばい)」という言葉がよく使われていた。

 けれども、その頃はなんの疑問も感じなかった。「悪者はせいばいされるもの」という考え方が学校教育であり家庭にも浸透していたように思う。桃太郎が鬼が島で鬼を成敗し金銀財宝を山のように持ち帰るところに拍手喝さいをしたものだった。

 その後、西部劇の映画に熱中したのも同じ線上にあった。野蛮な人種だからとインデアン達を白人達が侵攻し、文明の利器を使用して殺しまくった。その時も正義の御旗のような考え方に染まっていて、単純に映画を楽しんだのであった。

 後年、自分でものを考える年齢になって、なんという愚かな自分であっただろうと自己嫌悪に陥ることがしばしばであった。いったい、桃太郎とは何様なのか?それまで鬼の集団があって自分達で造りあげともかく生活していた鬼が島であろう。そこへ知恵と武力をもって侵攻し彼らが造りあげた宝を奪い取る。鬼に金棒というが、桃太郎は鬼を亡き者にし金棒を奪い取って来たのではないか。

 桃太郎は鬼が自分と同じ人種でないことに目をつけたのかもしれない。かつて日本は西洋から文化を輸入しともかく列強の仲間入りをするまでになった。ところが彼らの植民地政策をも真似ようとして大やけどをし敗れた。この場合黄色人種であることの認識が失われていたのではなかっただろうか?

 弱者の立場と強者の立場。戦争となればその差は歴然としてある。国益は大切なことである。ただ人間として恥じないものであってほしい。 
 今世界で戦争のための武器を生産することなく一切の武器使用を禁じているのは日本だけであろう。文化的には先進国家であっても殺戮兵器を公然と売買して潤っている国が殆どではないか。

 この点に関しては私は人間の良心に誠実なこの日本という国を誇りに思う。







2003/06/11 Wed 15:06 乙卯, 大正四年 西暦1915,

乙卯, 大正四年 西暦1915,


 漱石が落款に書いた乙卯とは、大正四年 西暦1915 のことであった。易のほうを調べるとじつは今日が同じ干支になるという。年であれば、1975,乙卯,昭和五十年ということになる。ただ、日というものにも干支があるそうでこれには驚いた。 

 大正四年春、それは3月末から四月にかけての京都旅行である。私はこのnoteブックランデエヴウにも水仙の画像と共にそのことを書いた。

 しかし、落款のことから干支を調べるきっかけになったのが思わぬ偶然につながったのである。今日の干支も同じく乙卯(きのと う)だ。乙は木の弟になる「きのと」。卯「う」は木性の陰になる兎だという。

 今日という日は旧暦では5月12日にあたるらしい。腐草為蛍と書かれているのは今日から蛍が出るということなのだろうか?そして入梅。私はとりたたて易を信じるわけではないが、日本の伝統を考える上でここを通り過ぎることは出来ないと思う。

 4月に鎌倉漱石の会へ行き、帰りは北鎌倉から横浜まで同道した方があって、方向オンチの私を助けてくださった。その方はこんなことを話された。

「経済学のほうでは、見えざる神の手といいますが覚えておいてください。。」
「そうなんですか。今日も見えざる神の手が…。ああ、おかげさまで。」
「ははははは」
「でも、日本経済のこの不況を神はご覧になってるのでしょうか?」
「神の手が働いていないんでしょうな。」

 頂いた名刺を見ると某大学経済学部教授とあった。たのしかったひと時の会話を今日ふっと思い出した。

 今日の画像は漱石先生のデスマスクである。
 哲学者を思わせる深い思索的は表情には慈愛が感じられ、こころに強く迫るものがる。(東北大学附属図書館)







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