noteブック ランデエヴウ    椿 わびすけ 

千円札から夏目漱石の顔が消え、中学校の教科書から漱石が消える。そんな淋しい時代になった。
私は漱石山房で行われていた「木曜会」のことをおもい浮かべる。

「それは先生の書斎というより我々の楽しいランデエヴウというような気持ちのする事が屡々あります。
我々の最も自由な最も愉快な時間が其処で過ごされたのでありますから。」(野上臼川『木曜会の話』)




2003/06/11 Wed 00:56 署名 落款(らっかん)

署名 落款(らっかん)


 アメリカの前大統領クリントンの夫人が本を出版してサイン会を催したという。ウェブのニュースでは次のように報じている。

「米上院議員のヒラリー・クリントンさんが夫のクリントン前米大統領との半生をつづった回想録「リビング・ヒストリー」が9日、全米で発売された。初版だけで100万部という「冒険」だが、発売記念のニューヨークでのサイン会には前夜から並んだ人も含め数百人が列を作り、ヒラリー人気を裏付けた。」

 その本の内容もクリントンの不倫問題が赤裸々に書かれているそうだし、何もかも度肝を抜くような話。
「初版の印税などとして、800万ドル(約9億4千万円)を受け取る契約を出版社と交わしているという」ところまで、もう日本とはケタが違っている。

 こちらはチマチマした実話になるけれども、私は作家の出版記念のサイン会に並んでサインをしてもらったことが2、3度 あった。歴史小説の女流作家は某ホテルで。余りにも有名な尼僧の作家はデパート7階の催し会場だった。後者は買い物の時たまたま出くわしたのだ。

 ハードカバーの扉のページに毛筆ペンで署名する手つきは手馴れたものだった。歴史小説のほうは出版社の部長さんが落款の印を押す役目であった。売り上げに貢献するこうした読者サービスも現代はますます盛んになってきた。

 漱石の署名は風格があることで定評がある。印の篆刻(てんこく)まで吟味し、署名の筆跡にはたいへん気を遣った。彼が京都の宿に滞在し、京都という字を入れた落款を、今日の画像とさせていただきたい。
日付からこれがいつ頃のものか専門家には分かっていると思う。







2003/06/04 Wed 23:12 修学旅行の生徒からもらったお土産

修学旅行の生徒からもらったお土産


「こんにちは!どちらから?」
 修学旅行の生徒たちが先日大徳寺の境内を歩いていたので、すれ違いざまに声をかけた。女子中学生の3人連れだった。
 「私たち、静岡からです。」
 「静岡?いいところねえ。あたたかくって。」

 彼女たちはくったくなく笑った。少しはにかんだような笑顔が可愛らしかった。一人が手提げ鞄の中から何かを取り出して私に手渡そうとした。
 「あの、これ使ってください。」

 15センチ四方のクリーム色の紙袋だ。見ると「ビタミンいっぱい さがら茶」と書いたシールが貼ってあった。時代劇に出るような「茶々丸くん」というキャラクターが茶とかかれた大きな湯飲みを差し出しているイラストがある。

 「あら、頂いていいの?ありがとう。」
 私はうれしくなって礼を言った。これまで修学旅行の子ども達に出会った時私はいつも話しかけるのが常であった。みんなでお茶を飲みなさいと小遣いを上げたことだってある。「京のぶぶづけ」の噂が有名になりすべての京都人をそう思われてはかなわないという気持ちだった。

 次の日の朝、主人の前で私はきのうもらったばかりのサンプルのお茶を急須に入れた。丁度2回分の煎茶が入っていた。袋の裏には「静岡県相良町茶業振興協議会」の名と電話番号が印刷されていた。その新茶を飲みながら主人は言った。

 「…そうか。親が勤めているのかもしれんな。旅先で世話になった礼にもと親が持たせてやったのかもしれん。まあ親孝行の子どもじゃぁないか。」
 「おいしいお茶だこと!あとで電話して注文してみようかしら。」
 
 もしもし、と私は電話口でいきさつを話した。担当の方(男性)のおっしゃるには、この土地に約900人の中学3年生がいるので、町の宣伝のために1個づつ修学旅行地へ持って行ってもらっている。それでよくお礼の電話も貰っています、と。

 価格は100グラム千円だという。近くの茶店で買うお茶と同じ値段だけれどこちらのほうが美味しいようにと私は思った。静岡の煎茶は宇治と製法が異なり深蒸しだということである。そのうち注文するかもしれない。

 漱石は茶の中では玉露が好きであったことは有名である。抹茶はどうもご縁がなかったようだ。『草枕』にはその一節がある。
 画像はなでしこと紅額(ベニガク)、あの子たちに重ねてみた。






2003/05/28 Wed 00:02 ジョージ ラウターシュテイン

ジョージ ラウターシュテイン


 George Lauterstein この名前を自己流でカタカナになおすとタイトルのようになってしまった。
ジョージ。これでは間違ってますか?
直接ごご本人にお聞きしたいと思いながら、それもできないままにあなたは急に逝ってしまわれた。

 拙サイトゲストギャラリー「あなたの撮った茶のある風景」を作成するにあたり、ネットで知り合った写真家の方々に声をかけてご協力いただいくのが常であった。

 先に登場されたBさんがアメリカ人で親日家の写真家がいるからと仲介の労をとってくださった。それがジョージだったのである。こちらは写真のイロハも知らないしろうとだ。こんな私で果たして承諾されるだろうかと半ば諦めていた。

 ところが、彼は意外にも私のサイトがお気に召したようで、わざわざスイスにとんでいって撮りおろし写真を送ってくださったのだ。
 第1回2001年2月3日 、第2回 2001年4月22日。私は感激のうちに自分の手で編集しUPしたのであった。

 この時、一期一会の心というものを無言のうちに私は教えられた。茶を知らなくても彼は立派な侘びの人だと思った。ギャラリーに出展された後彼からのメールは度々、「あなたに我々は感謝します!」と書かれていた。彼の最愛のチェリール夫人がいつも蔭で私たちの交際を支えてくださった。

 今日の画像は彼の撮影になる「水と岩石」である。私はこの別館漱石サイトができた時、彼に「石と水のペンネームをもつ日本の作家にふさわしい画像を送っていただけませんか?」と厚かましくお願いしたことがあった。

 彼はトップページの漱石を見て「どうして私が彼の為に協力しなければならないのか!」とおかんむりだった。ああ、私の言葉足らずだった。あわてて「彼は1867年に生まれ、1916年に死んだ日本の文豪である。」とメールしたら、「すまない。私は大変な誤解をしていた。私を許してほしい。」とのお返事。

 チェリール夫人は私たちのメールのやりとりをにこにこと見ておられたようだ。お二人とも爽快なテキサス魂といえばいいだろうか。テキサスの人里はなれた山中に住んで、東洋の高士ともいうべき清貧の生活をしておられたジョージ夫妻。

 いまはジョージのご冥福をお祈りするばかりである。




2003/05/20 Tue 02:55 18歳 の 詩人

18歳 の 詩人


 最近インターネットによる衝撃的な事件がマスコミで盛んにとり上げられている。ネットで知り合った若者が集団自殺を決行するという。信号無視でもみんなで渡れば怖くないのあの心理であろうか。一昔前までは考えられなかったことである。

 諸刃の剣ということは昔からいわれる例えであるが、暗い面だけでなく明の側面をも公正に強調されるべきであろう。
 ネットのよさということの恩恵を私は充分に受けているし最近はそれを一層身に沁みて感じるのだ。

 一昨日(17日)、ひとりの若者の詩を読み感銘した自分であった。その年頃に私も詩のようなものを書いた記憶がある。けれども言葉の深さ、骨格の確かさにおいて到底比較できるものではないと思った。詩は作者の生のありようである。

 18歳の若者はハンドルネームをちょりという。ネットで活動する以前に彼は実生活で自分を表現した。家出、ガソリンスタンドやちらし広告を配るアルバイト、一時、高校生であることを休止して暫く安アパートで自活した。そして彼は詩を書いた。ギターを弾き、作曲をした。仲間と共に路上で演奏活動をした。

 これは現代の多くの若者がやりたいと思う夢であるのかもしれない。エリートの道をのみ目指す向きにははみ出し者だとする見方もあろう。帰るべき家があるから出来るのだとする声も聞かれよう。ただ、彼には確たるバックボーンがあるのではないかと私は思う。

 詩をもって人々に愛される文化としたい…。人間は本来平等だという夢…。そうして新たにこの道を踏み出したことの迷いと決断、それは生易しいものではなかったであろうと思われる。

 「あるく」というかなり長編の詩がある。
 この詩のなかに大叔父とある。その方がほかならぬ昭和天皇であること。この詩を読むにつれて読者はそのことを理解するのだ。作者は皇室のお血筋なのである。

 ちょりさん、本名 S.Akifumiさん。拙サイトと相互リンクのお付き合いがはじまったばかり。私の「最新情報」でご紹介したところ、彼は日記で心に沁みる文章を書いてくださった。
 詩篇とともに、味わいのある彼の日記も私は楽しみに拝読している。

Paprett(パオレ)  http://mypage.naver.co.jp/paorett/

† 日々、祝え。
blanket
DiaryINDEX|past 替えのきく僕はいらない。

2003年05月18日(日) つづいていくこと 。






2003/05/14 Wed 00:07 円覚寺と 『千羽鶴』のこと

円覚寺と 『千羽鶴』のこと


 川端康成の『千羽鶴』を読んだのは娘時代であった。最初、円覚寺が舞台になっており茶の師匠や茶室にまつわる話に興味をそそられた。その内映画も見た記憶がある。私はまだ円覚寺の佛日庵がどういうところなのかを知らなかったが、千羽鶴の風呂敷包みをかかえた令嬢や志野茶碗の描写などは品の良い絵画を見るように思った。

 けれども私は今もってこの作品に出て来る登場人物はどうも好きでない。菊冶という主人公は漱石がいうところの高等遊民であるが、亡父の複数の愛人、その母子ともいとも簡単に深い仲になる。そうした行為を繰り返してもなんら苦しむことがない。

 また女性たちも男を虜にするさがには恵まれているようだけれど、精神的なかがやきを感じさせるであろうか。愛人でいることを職業にしていることの後ろめたさ、その陰影が昇華されたものとなっているだろうか?

 茶の世界で手練手管で成功をおさめた胸に黒あざのある女性。それに対して成功とは無縁のところで生きているはかなくも美しい女性。

 川端が「名品」とした志野茶碗、そして名品にたとえた愛人。
しかし、その茶碗を投げ打つ場面がひとつの見どころであろう。世俗的な茶道界の現実を作者はこの場面で表現し、自らのメッセージとしたのであった。茶人の執念ともいう醜の部分を描き、再生への想いを彼はこの1点に凝縮した。

 この点を、あまり批評家が触れていないのではないかと私は思う。たしかに突飛で無駄と思われる行為であろう。

 ただ、この世には無駄なものがあっていいことがある。その行為がなんの意味もないと思われることでもあっていい。大岡昇平の後、伊豆利彦氏と政府の顕彰をあえて受けない人もある。漱石、百閧フ気質はもとよりのことである。

 主人の叔父である僧堂師家のH老師は90歳であるが軍人恩給を一切受けていない。自ら拒否したのだという。自分らと共に最前線で戦って死んだ兵隊達を思うとそんな金は受け取れないという。
貰わなかったら役人が使うだけではありませんかと私は申し上げた。

 うむ、それでもいいのだ…と、静かに叔父はこたえた。
そういえば、叔父の年祝いも主人の年祝いもうちではしないまま通り過ぎてきた。





2003/05/06 Tue 21:56 風かおる 鎌倉漱石の会

風かおる 鎌倉漱石の会


 みどりの日の4月29日、私は鎌倉漱石の会へ出席するため前日から北鎌倉へ滞在していた。正確にいえば28日午後に東慶寺へ、閑棲の井上禅定さまとの面語。水月堂のほか茶室寒雲亭も見せていただき、室内撮影厳禁であるはずのところをカメラにおさめた。

 それから墓苑にお参りしたいという私に禅定さまは竹杖を持ち出して自ら広大な墓地に案内してくださった。山と谷のなかに造られた墓苑は呆然とするほど清浄でうつくしかった。林立する杉の木は釈宗演の後継者・古川尭道老師が明治に植えたのだという。

 私の参禅の師であったT老師は尭道老師のもとで修行した人であり禅定師とは兄弟弟子にあたる。二人でゆっくりと歩きながら古い記憶を辿り懐旧の情にひたるのであった。その一部分は「東慶寺墓苑を井上禅定師と」と題してUPした。

 夕刻には、七里が浜の宿舎へ移動し一泊。窓からのぞむ夕日、翌朝の海の景色もけっこうであった。早朝に東京を発ってこの宿を訪ねてくださったミモザさんと食堂でバイキングの朝食。それから又この前の時のように私を帰源院まで引っ張って行ってくださった。

 午前11時、待ちに待った漱石の会講演は伊豆利彦氏。演題「『道草』とその前後」出席者は帰源院の本堂に入りきらず庭に置かれた椅子にて熱心に聴講されている。出席者数340名の盛況。

 伊豆氏の話し振りはごく日常的なくだけた調子であったが、内容は漱石文学の核心にふれるもので後々まで考えさせられるものであった。拙サイトの掲示板でいっとき話題になったが、『道草』は伝記であり主人公即漱石だとする従来の見方に対して伊豆氏は明快に所論を述べられた。

 「だろう。」というのは漱石ではない。話者が書いている。話者と漱石とは別。姉の目、細君の眼、学生の目、漱石がその声色をつかう。虚構の中に人間を平等に見た。

 伊豆氏は<その後>として『点頭録』を挙げられた。今まであまり顧みられなかったこの一編は氏が早くから注目されていたものであった。そのため私は青空文庫に入力をお願いしたところ、熱心な工作員の方々のご尽力で現在では漱石作品にデータ化されている。

 風かおるこのよき日、本来なら勲3等の叙勲を受けるはずのところ、伊豆氏は辞退されたのだという。たしか大岡昇平氏もそうだったなあと私はどこか明るい気持ちになった。
日本はやはり自由のあるよい国である。



2003/04/17 Thu 21:53 津田青楓の兄 西川一草亭

津田青楓の兄 西川一草亭


 『侘助椿 』という薄田泣菫の随筆がある。このなかに漱石とは深いつながりのある津田青楓、その人の兄にあたる一草亭のことが出てくるのがおもしろい。泣菫の筆は淡々として且つ陰影がある。


「侘助(わびすけ)。侘助椿だ。―友人西川一草亭(いっさうてい)氏が、私が長い間身体の加減が悪く、この二、三年門外へは一歩も踏(ふ)み出したことのない境涯を憐れんで、病間のなぐさめにもと、わざわざ届けてくれた花なのだ。」

 泣菫は、元来この花を朝鮮から持ち帰ったのは加藤清正だとする当時の風評をまともには受け取らない。世人の軽はずみな噂だろうくらいに見ている。けれども信ずべき説として次のように書いている。

「この椿が侘助といふ名で呼ばれるやうになつたのについては、一草亭氏の言ふところが最も当を得てゐる。それによると、利休と同じ時代に泉州堺に笠原七郎兵衛、法名吸松斎宗全といふ茶人があつて、後に還俗(げんぞく)侘助といつたが、この茶人がひどくこの花を愛玩したところから、いつとなく侘助といふ名で呼ばれるやうになつたといふのだ。」

  
 一草亭は茶道の専門家であると共に華道人であった。昭和6年に『瓶史』という挿花の季刊誌を創刊。花に限定せず、西田直二郎、和辻哲郎、志賀直哉、谷川徹三などのメンバーが集う文化サロンを運営していた。彼は自ら茶人でありながら茶人の高慢を厳しく批判した。

 「兎に角人間が、お互いに自分の地位の高い低いとか、貧乏とか金持ちとか、そういう優劣、勝敗の念を離れて、只一個の人間としてーーー茶を飲んで、ああ愉快だと思えば、それで茶の目的は終わるだろうと思います。」

 漱石は西川一草亭と津田青楓兄弟の上に正直で真摯な性格を見、それを愛したのであろう。
    
  牡丹切って一草亭を待つ日かな  漱石

 
 今日の画像は津田青楓が描いた晩年の漱石の肖像である。昭和29年発行『文芸』の表紙をスキャンしたもの。これほど年輪を感じさせる画像は他にないのではあるまいか。





2003/04/15 Tue 01:43 人の心は昔のままでした

人の心は昔のままでした


 北朝鮮による拉致被害者の曽我ひとみさんが14日記者会見で読み上げた文は、聞く者の心をゆさぶらずにはおかないものであった。政治的には対立状態の両国であり、解決に向けて今後どうなっていくのか不安
だが、ひとみさんの一言が救いを感じさせて嬉しかった。

「月日は長く長くすぎていたけれど、人の心は昔のままでした。本当に帰ってこられてよかった。」

 日本人は古来変わらぬ心を尊ぶような民族ではなかろうか。自分の思想や言動をを百八十度転換して恥じることのない人物を、あれは「変節の士」だと言って断をくだす。若い世代にはこうした思いはもうないかも知れないが、今の世にもあってほしい良識だと私は思う。

 イラク戦争でフセイン大統領の銅像がひきずり下ろされた時寄ってたかって足蹴にしたイラク民衆の映像がテレビで流された。プロパガンダの怖ろしさと共に人心の怖ろしさ哀れを感じさせた。

 日本の敗戦時には全く見られなかった光景であろう。敗戦の民は苦難に耐えてなお自他への敬愛の心を持ち続けたのではなかっただろうか。日本人は12歳の少年だとマッカーサーは傲慢に言ったが自らは左遷され日本を去った。

 政治はまさに食うか食われるか弱肉強食の世界のようだ。ペルーのフジモリ大統領の場合を考えると複雑な思いがする。天文学的数字であったペルーのかつての財政赤字を奇跡的に救ったフジモリ氏。氏あるが故に経済援助を惜しまなかった日本政府。ところが政敵によって失脚するや一転して犯罪者の汚名。

 人心の移ろいやすさ、過激で酷薄な国民性という感を植えつけてしまったペルー。こうした余りにも露骨な変心を思うとき、この世を「火宅」と説いた仏典のことばが身にしむ。
 
 しかし、日本人の美意識である「もののあわれ」はどうなのだろう。今もなおこの国と人々の誇り得る貴重な財産のように、私には思えてならない。

 今日の画像は京都市の花に指定されているしだれ桜、木のてっぺんのほんの一部をカットしてお茶を濁した。





2003/04/04 Fri 22:05 月をみる 月を指す 指

月をみる 月を指す 指


 中国古典によく出てくる「寒山拾得」の画題、漱石はそれを「無題」として1913年(大正2)に描いている。この絵は漱石も気に入っていたようで漱石山房の壁にかかっていたという。

 拾得はさる名僧に拾われた乞食であった。寺では常に箒をもって作務をし、その拾得から残飯をもらう寒山は巻紙に筆をもつ詩人となった。この絵は寒山が月を指し示し月の光のもとに歓喜するふたりの姿が素朴な筆致で描かれている。

 「画でも書でも自分の部屋にかけるものは自分でかいたものが一番いい。」と漱石はいったと伝えられる。巧拙の問題でなく端的にこころが滲み出ているものがいいのだ。寒山拾得の求めたものはただ月である。しかし俗世間ではそれを指し示す人の指が重要視される。

 漱石の学位返上問題は当時さまざまな批判を受けた。漱石自身は学位によって学問の世界に世俗の価値判断が起きることを憂慮したのであろう。自分はただの夏目なにがしでありたいと彼は望んだ。

 漱石のような偉大な学者では決してないけれども、私は主人の性格もこうしたところにあるような気がしている。定年退職に際して勤務した大学の哲学会から記念の会報を出して頂いた。そして私はそれを見たとき心外でならなかった。主人の経歴に京都大学から授与された論文博士の事実も、大学院文学研究科長を歴任した記録もまったく記載されていない。主人に尋ねると、「わしは学生をちゃんと教えることだけが大事だ。」と言う。

 お付き合いのある教授の方ににメールで問い合わせたところ、「先生からご提出いただいた履歴書・研究業績書に基づいて、略年譜を作成され」「幹事の先生(新米の方でした)にすべて委託されたのは今回、先生が初めてでありました。」「しかしご指摘のあった点は、ごもっともなことで」とお詫びの文言。

 こうした割り切れない思いをもつ愚妻に主人はむしろ怒りを覚えるかもしれない。けれども世事の名誉には無頓着でただ月に向かって歓喜する寒山拾得の境涯を私はひそかに主人と重ね合わせてしまう。先に頂いたメールにはさらに次のことが書かれていた。

「先生の歓送会を計画・準備をされた幹事の方は、先生のご欠席ということでがっかりして肩を落として予約をキャンセルされ、本当にお気の毒でした。」

 いっこく者という言葉は現代でも死語になってはいないようだ。



2003/03/27 Thu 21:43 猫の舞踏

猫の舞踏


 カメリアジャポニカとは椿の学名である。原産地は日本ということになっているが諸説があって確かなことはわからない。一昨日テレビのチャンネルを回したら、ヨーロッパの国々で昔日本からやってきた椿が大木になり、公共の場でそれは大事にされている様子が放映されていた。なかでも紅の藪椿がうつくしかった。

「カメリアジャポニカは私たちに光を与えてくれます。」と語った実直そうな一市民の男性がうつった。それに引き換え日本の女性タレントは古木の椿のことを「いいな、おばあちゃんは」などと口にした。外国では自分の祖母にしかこうした言い方はしないのではないか。聞いていてもいかにも蓮っ葉な感じがした。

 スペインのホセ・ガルシアさんはカメリアジャポニカの研究家で自宅に長年椿の木々を栽培されている。ネットのお付き合いで相互リンクをお願いすることになった。その時ホセさんは「あなたのバナーは私が作るから」といわれそのバナーが送られてきた。

 スペインの有名な陶器人形リヤドロの作品のようだ。カップルの猫がエレガントにダンスをしている。彼はあなのイメージで作ったがこれでいいだろうか?と私に問い合わせてきた。私はワンダフル!と答えた。

 拙サイトの英語版の表紙はわが家の飼い猫の写真を掲載しているが、これは漱石『我輩は猫である』の黒猫とは似ても似つかない軟弱な風貌だ。その為かどうやらホセさんには猫が私のイメージになってしまったらしい。

 スペインの舞踏は情熱的だが、こちらの猫はなんとなくもクラシックな感じだから今度は私が彼に問い合わせてみた。
「これらの猫が踊っているのはワルツでしょうか?ポルカでしょうか?」。それに対してホセさんはまことに誠実に返答された。
「私は猫が踊っているのがワルツだあるか、ポルカであるか、詳しく承知していないことをお知らせする。」

 画像はそのバナーであるがこれだけ大きいバナーを彼は自分のサイトへ貼ってくださっているのだ。原寸大のままでUPする。






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