noteブック ランデエヴウ    椿 わびすけ 

千円札から夏目漱石の顔が消え、中学校の教科書から漱石が消える。そんな淋しい時代になった。
私は漱石山房で行われていた「木曜会」のことをおもい浮かべる。

「それは先生の書斎というより我々の楽しいランデエヴウというような気持ちのする事が屡々あります。
我々の最も自由な最も愉快な時間が其処で過ごされたのでありますから。」(野上臼川『木曜会の話』)




2003/03/19 Wed 00:20 生誕記念菓子 漱石ごのみ

生誕記念菓子 漱石ごのみ


 掲示板「夏目漱石が好きなかたへ」の中でご披露させていただいた松岡陽子マックレインさまのメールには、源吉兆庵という菓子屋についての記述があった。ここに再掲する。


 一月に私は東京の若い友人夫婦から大変面白いお菓子を頂きました。彼等は偶然それを銀座で見つけて送って下さったそうです。お店の名前は源吉兆庵(みなもときっちょうあん)、本店は鎌倉とか、 店主がよほど文学好きなのでしょう、生誕記念菓子というのを毎月作るそうです。
 
 一月は漱石で、ともかく、「夏目漱石ごのみ」という一月のお菓子の包装が大変凝っていているのです。箱自身が漱石の本になっていて、中身は彼が好きだった羊羹とお団子、それも凝った箱に入っています。お団子は「吾輩は猫である」の初版本の箱、羊羹は漱石の原稿がコピーされた箱という調子です。

 そのお店にサイトもあるそうですから、ご覧になったら面白いかもしれません。こんな凝ったことは日本以外では考えられません。


 陽子さまのお勧めに従い私は店のサイトを検索で探し、早速注文したのだった。ただ月代わりの3月は樋口一葉であり、注文できたのはその菓子になったが、漱石の箱だけはサービスに同封されて送られてきた。

 なるほどこれはおもしろい!箱の表紙には漱石がイギリス留学時代に描いた絵葉書で、中に入っているのは『我輩は猫である』の初版本、中村不折が描いたあのユーモラスな挿し絵。もう一つは鏡子夫人へ宛てた留学中の漱石の手紙である。

 菓子の味はさておき、このような趣向はファンにとってはたまらないものだ。私は今回漱石ならぬ一葉ごのみの菓子、栗饅頭と変わりカステラで漱石が好きだったお煎茶を飲んだ。値段が高いのも致し方ないと思いながらそのいっときを楽しんだ。

菓子箱を撮ってみたがいかがであろうか?




2003/03/10 Mon 18:34 『道草』の装丁

『道草』の装丁


 『こころ』の装丁には漱石の美意識が十二分に発揮されている。その審美眼は「気品」があってしかもやさしい雰囲気がただよっている。鏡子夫人からシナ趣味ときめつけられた漱石だけれど、たしかに漱石は漢学・絵画等中国の古典を学びそれを自分のものにしている。

 岩波から初版復刻版が出た折購入していたこの『道草』、その装丁をデジカメで写してみた。京都の津田青楓が描いたもので春をおもわせるはんなりとした表紙である。花々のなかにいる青い鳥もうつくしい。

 漱石は『こころ』では、荀子の文を引用してみずから装丁を手がけ内容を表現しているが、孔子ではなく荀子であるところが注目される。これは性悪説を採っているからだ、と私は叔父の老師から教えられた。

 表紙の装丁にはいずれもそうした心配りが出ていると思う。そして、絵の上では師匠であった青楓も当然漱石の意図を知らなかったとは思えない。道草の装丁のなんとやわらかく安らかであることか。青い鳥が身辺にいる描写もほっとするものがある。

 漱石の二男でいらした夏目伸六氏は、父君の幼年時代母千枝の出生を書いた記述は鏡子夫人のも松岡さんのにも間違いがあると『父、夏目漱石』のなかで述べている。
親戚のことを直接聞いたのちに新たに公表された伸六氏の誠実さを私は感じた。

 また大岡昇平の『小説家夏目漱石』、伊豆利彦氏の『夏目漱石』は共感をもって読み直させていただいた。大岡氏によると『道草』は個人的な伝記としてより小説として捉えておられる。私がいぜんから感じていたことでもあり、私小説を超えた作品であることが素晴らしい。

 そしてその大岡氏はとりわけ伊豆氏の論文を賞賛されているのであった。出来ることなら多くの方々に、伊豆利彦著『夏目漱石』を読んで頂きたいと私は思う。




 

2003/03/04 Tue 17:22 ナンテン 弥生の雪 2

ナンテン 弥生の雪 2


 
ところが長兄次兄が亡くなり三兄はぐうたらでものにならない。長兄の「漱石を準養子にする」という遺言があったことも父が漱石の復籍に乗り出した要因でもあった。復籍の条件となったかの有名な「書類」は現存している。

 漱石が夫婦喧嘩の地獄絵巻の中から救い出され、実家に引き取られたのは多分10歳の時であったであろう。と、松岡氏は書いている。
 日本にとって家というものが最も重大であり、人々もその制度を厳守していた明治時代である。

 私は何よりもこの事実から目をそらすべきではないと考える。
 松岡譲といえば、その著書『敦煌』においてもきわめて正確な記述だと高い評価を受けている作家である。作家というよりもむしろ学究といったタイプの方ではなかっただろうか。



2003/03/04 Tue 17:14 ナンテン 弥生の雪 1

ナンテン 弥生の雪 1


 先日来の暖かさに春の到来とばかり思っていたら今朝は雪。ナンテンに弥生の雪が積もっていた。難を転じるともいう南天、野鳥たちはまもなくこの実をついばみにやってくるだろう。

 難ということは人の世につき物である。昔から「人の不幸は蜜の味」ともいうが、とかく他の幸せよりも他の落ち度を探しそこから尾ひれをつけて話を作りたがる。そうしたことが歴史上どれくらい繰り返されたことか。

 松岡譲の『夏目漱石』(昭和28年初版発行・河出書房)は、漱石の幼年時代から綿密に調べた評伝であるが、客観的でなるほどと納得できる内容だ。

 養父となっていた塩原は若年の頃夏目の父に書生同様に養われているうち、見どころがある青年だといふので、仲人に立って同じく家に奉公していたやすを嫁がせ、そうして新宿の名主の株を買ってやって取りたてたのだという。

 塩原は子のないのを幸ひ、夏目の家ではいわば厄介者の末っ子を引き取って、一つには主家に対する恩返しをし、又自分の家をも引きたてようとしたらしい。明治の新制度が敷かれると共に、夏目直克の肝いりで浅草の戸長(区長)になった。漱石5歳か6歳のはじめころ塩原は漱石を自分の長男として戸籍に登録し、それが後半思わぬ面倒の種となった。

 「養父母」の章に、塩原夫婦の騒動が明らかにされている。とうとう仲人の夏目の父のもとまで夫婦喧嘩が持ち出されて別れ話になり、子供の教育上もよろしくないといふので、結局父が養母と漱石を引き取ることになった。

 少年は浅草の戸田学校で最初の初学教育を受けることになった。塩原は新築した自分の家へ移ったが付属の借家は漱石名義になっていた。
実家に引き取られても少年は依然として塩原姓であり、夏目金之助ではなかった。

 漱石が夏目に復籍したのはそれから10年後彼が22歳の折で大学予備門の学生時代である。漱石は塩原の長男として戸籍に登録された為に、子のない同家から簡単に籍を抜くことは出来なっかった。

 塩原も落ち目になっていたので、先々の欲にかかり、いずれ実家で教育させておいて、後で当然取ってしまへばいいと考え、決して籍を渡そうとはしない。
 
 

2003/03/02 Sun 01:57 水仙

水仙


 先月、今日庵家元の弟君・伊住宗匠が急逝され大徳寺で本葬が行われた。約6千人の会葬者があったと京都新聞は報じていた。密葬のもようは拙サイト「伊住宗晃宗匠遺影」でお伝えしたが、後日の本葬の際には焼香でなく一同が献花をさせて頂いたことに触れておきたい。

 献花には昔からある水仙が用意されていた。ラッパ咲きの西洋水仙でなく日本のそれはまことに清楚であった。噂によれば京都中の花屋から水仙が集められたのだという。ランでなくこの花が選ばれたことに私は感じ入った。

 毎月ついたちは宗家に参上する日である。今日、坐忘斎家元の切々としたお話を私たちは拝聴した。みな涙し目頭を押さえていた。家元が話された中に思いがけず水仙の花についてのエピソードがあった。

 「弟は健康優良児で私は腺病質のこどもでした。そのまま成長しましたが必ず先に逝くのは私だと信じていました。ある時私は弟に言いました。
「もし自分が死んだ時は後を頼むぞ。葬式には派手なランなんかでなく、水仙にしてくれ!」
じつは、先日の葬式の献花は私の死んだ時の為に私が望んでいた花だったのです。」
 そして家元はしみじみと、「私は今、弟の分まで生きようと思っています。」と結ばれた。
 

 漱石が描いた水仙の花、これも昔ながらの日本水仙である。京都に宿をとった時にこれを描いたという。大正四年六月には俳画展覧会出品の誘いを断り、そのいいぐさに「今は下らない事で朝のうちを過ごしています。」と「道草」執筆中の旨を俳人の青木月斗に告げている。

 茶道ではこうした籠花入れは夏季に使用するがこれは正確には「宗全籠」といって茶人の名をとってつけられた花入れである。

 漱石は京の宿で見たさまを「小さなきれに籠の中に投げ込んだ水仙を描いた」と津田青楓のもとに書き送ったという。


 

2003/02/27 Thu 01:02 白雲自去来

白雲自去来


 昭和五十年九月二十五日発行の『別冊太陽』は、日本のこころ32として夏目漱石を特集している。この頃は出版社の誇りが感じられる入魂の紙面造りで特別付録がまたふるっていた。

 漱石自筆書画は三枚とも和紙で印刷もよい。漱石自筆原稿「ケーベル先生の告別(複製)」もしっかりした和紙を使用している。台紙原稿用紙とも漱石山房の写しであるのがうれしい。紅野敏郎氏の解説が小さくついているが、その中の一節に心惹かれた。

 漱石は、二度までケーベルについて、小宮豊隆の言葉に従えば、「円味と気品としをりとさび」とから組み立てられた文章を書いた。この生原稿を見ていると、「さようなら御機嫌よう」という言葉が、なんと落ちついた、生きた日本語として使われていることか。別れても、地球上の何処にいても、心はつながっている、という感が深い。「天然自然」という言葉も加筆されているが、この生原稿の加筆自体、漱石らしい味が出ている。ケーベルの生活の古典的な静謐、それは晩年の漱石の実生活における願望の一つといい得るものだ。

 解説も名文である。こうした雑誌の定価が当時2千円だった。とすると今は代価に値する雑誌がどれくらいあるのだろう?

 今日の画像は「雲去来」の三字である。この語は禅語の「青山元不動 白雲自去来」から採られたものと思われる。私自身この語にはどんなに励まされたかわからない。

 二十代のころ病弱だった私は大手術を受けたことがあった。禅の恩師はその時この語を短冊に書いて贈って下さった。青山元不動白雲自去来 (青山もと動ぜず 白雲おのずから去来す)

 その時の私は、この語の上に日本の古歌をひとり重ねていた。

 晴れてよし曇りてもよし 富士の山 もとのすがたは 変わらざりけり

 

2003/02/23 Sun 01:50 二宮金次郎の石像

二宮金次郎の石像


 内村鑑三が著書『代表的日本人』のなかで、19世紀末欧米諸国に対し「日本人の中にも、これほどの素晴らしい人物がいる」と苦難の時代を救った偉人として書いているのが、二宮金次郎だ。

日本の公立小学校では殆ど二宮金次郎の石像が建てられていた。私は子ども心に「働きながら勉強したエライ人」ということ位にしか知らなかったが、学校の校庭にあるその像には畏れ多い気持ちは抱いていた。けれども昭和も後半から平成へと移り、学校はあれよあれよという間に変わってしまった。

昨日は雨だった。午後から室町蛸薬師にある京都市芸術センターに行った。ここはもと京都市立明倫小学校。呉服商の建ち並ぶ町で明治はじめ頃竣工したという歴史ある小学校であった。けれども児童数の減少で先年閉校の憂き目に会った。それが市民に役立つようにと芸術センターとして改装、現在大いに活用されている。

私は内心、日本の小学校でこれほど贅沢で立派な木造建築を造った処はなかっただろうと思った。さすが豪商の多かった室町だ。地域の多大の寄付があったに違いない。庭にある石すら選び抜かれた銘石だし、子供向きではないにしても情操教育にはまことにすばらしい。本物をみる目が養われるだろう。

最初門を入って暫く行くとなつかしいものに出会った。薪を背負った二宮金次郎が手には本を広げている。今も変わらずにあるのだなあ、と私はしばし立ち止まっていた。写真を撮ろうと近づいてみると本の上になんと十円銅貨がたくさん置かれているではないか!神社仏閣のお賽銭のつもりだろうか・・・。それを置いた人は善意かも知れないがやはりここは学校ではないと思った。

いや、ひょっとすると、今の日本の学校、児童生徒学生、家庭環境、教育に関する社会ぜんたいの、すがたなのかも?

「毎晩独学で勉強していた金次郎。夜間読書をするために必要な明かりの原料を得るため、荒地に自分で菜種を植え、たった一握りの菜種から7〜8升の菜種油を得た」ことから「積少為大:せきしょういだい」を説き、農民と地域住民へ献身した金次郎!

もう一度ここから出直す、それは昔物語に過ぎないのだろうか。しかし日本の将来をみて今一度自分の事として考えてみるのは、いかがであろうか。




2003/02/16 Sun 23:57 アメリカの人種差別

アメリカの人種差別


 昨夜NHKテレビでたしか開局五十年記念番組と書いてあったと思うが、『アフリカの蹄』という長時間ドラマを前編・後編と引き込まれるように見た。
 帚木蓬生原作。これまで関心をもちながら読んだことのない作家だったが現役の精神科医で山本周五郎賞を受けている経歴から、正義感のある作風だろうとは感じていた。

 見るとこのドラマはたいへん迫力がありアメリカの人種差別の根強さをうまく描いていた。若き日本人医師が大学の組織から出て黒人居住地で天然痘と極右の謀略と戦う。ストーリーは主人公の役柄と男優にも恵まれ、久しぶりにさわやかな後味であった。

 アメリカの人種差別は根が深い。黒人に限らず原子爆弾をドイツには落とさず黄色人種の日本へ落とした厳しい事実もある。ただ、このドラマも最後にはアメリカの良識が悪をやっつけることになっているので、救いがある。その為「このドラマは事実ではなくフィクションです。」などと断り書きを入れずとも済んだのだろう。今イラク問題が危機的状況でありなんらかのメッセージなのかも知れない。

 松岡陽子マックレインさんから昨秋、私はカードを頂いた。アメリカ在住50年の記念パーテイをされたこと。オレゴン大学から表彰を受けられたこと。その写真などをスキャンして特別ページを作成しなければと思っているものの、なかなか時間が取れないでいる。

 ユージンと大きく書かれているカード。オレゴン州ユージン市に在住されてからの50年記念、漱石先生のお孫さんはこの地で立派に種をまく人となられたのである。

 陽子さんの一粒種、ハンサムなご子息は医師だと伺っている。どこかお祖父様の漱石に似ていらっしゃる。
 私は陽子さんを通して、アメリカの良き一面を見る思いだ。



2003/02/10 Mon 01:43 「禅堂風景図」

「禅堂風景図」


井上禅定さまの特別寄稿『鈴木大拙と夏目漱石のこと』を自分の手で編集させて頂きながら、漱石が書いた禅堂の絵のことが気になって仕方がなかった。

あの絵を原稿のなかに挿入したほうがいいか、考えては行きつ戻りつした。結局この場に掲載することであちらのページは原稿を生かす意味で背景画像の睡蓮を使用することにしたのだった。

作者の死後五十年経てば著作権は消滅するという。この点は公共性ということで社会に還元されるのだろう。私などにもたいへんな恩恵を受けている。

絵というのは、「禅堂風景図」と題した彩色画で大正二年ころの作品である。禅定さまが本文でお書きになっているように、漱石が鎌倉へ行き円覚寺山内帰源院に投宿し釈宗演老師に参禅したのは、明治二十七年暮れから正月七日までであった。

この時の参禅の体験がなければこうした絵は描けなかったであろうと思われる。中国の禅堂でキョクロクに坐った老師は払子(ホッス)を手にしているがその目は厳しい。若い修行僧は真剣なまなざしであるがどこかたじろいでいる風だ。

敷き瓦の堂内といい、中国様式の雰囲気がなかなかよく描かれていると思う。大正五年の正月『点頭録』に「趙州の初発心」を祈りにも似た想いで書き綴っている漱石は、二十年近い昔の体験を常にあたためていたのではなかろうか。





2003/01/28 Tue 01:08 掛川の温泉宿

掛川の温泉宿


掛川の温泉宿に家族と旅をしてきた。掛川は静岡県にある小さい城下町である。静岡市は先の大戦で中心地は殆ど焼失したが、掛川は全く戦災に遭っていない。私はなんの知識も無いままに、ただ静かな温泉宿でゆったりと心身の湯浴みをしたいという思いで宿に電話をしたのだった。

丁度シーズンオフだし雨も上がるから早く来たほうがいい、といわれすぐ予約した。新幹線はひかり号からこだまに乗り換え掛川駅で下車。気になる天候は曇りだ。温泉宿は市中とはいえ奥深くの山村にありバスは数本しかない。一時間待ちになるので掛川城周辺を見物する。ところが行く先々見るものすべてが面白いのだ。

城に行く途中に銀行があったが両替所と書かれ昔の雰囲気をかもし出す和風の建物だ。壁には城主の山之内一豊の像が浮かび上がっている。通り自体そんな建物がずらりと並んでいる。行政がよくここまで住民を引っ張ったものだと内心私は感嘆する。掛川城は新しく再建された木造のよい城であった。

その他の見物を終えバスが延々と続く田園の中の道を走った。終点に目指す温泉宿があった。紅梅の古木が畑にあり米搗き水車があり大根が点々と植わっている。山々はかなたにかすんでいる。どこまでもひなびた景色であるのがうれしかった。しかし宿は実に行き届いたもてなしで食事もよく女将の方言はやさしく親しく響いた。

不況のせいで客は私どもとあと一家族だけ、広い浴場は朝6時から夜11時まで使用でき、常に温泉がこんこんと湧いている。

「いいところですねえ。聞けばアメリカのユージン市と姉妹都市なんですって?」
「そうだよ。姉妹都市になった時、夏目漱石の孫の有名な先生を市長が招いて講演してもらっただよ。」
「ええーっ、マックレイン陽子さんが!」
私は思わず大きい声を上げてしまった。なんという不思議なめぐり合わせだろうか。

その夜は雨が静かに降り、窓を開けると寒気が入ってきた。
私は漱石が書いたあの良寛を思わせる書を思い浮かべていた。
彼の書の中でももっとも私が好きな書風である。最晩年の作であろうか。
夜静庭寒ーーー清らかな四字である。




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