noteブック ランデエヴウ
椿 わびすけ
千円札から夏目漱石の顔が消え、中学校の教科書から漱石が消える。そんな淋しい時代になった。
私は漱石山房で行われていた「木曜会」のことをおもい浮かべる。
「それは先生の書斎というより我々の楽しいランデエヴウというような気持ちのする事が屡々あります。
我々の最も自由な最も愉快な時間が其処で過ごされたのでありますから。」(野上臼川『木曜会の話』)
| ●2003/01/19 Sun 23:00 和菓子の店 東西考 |
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文人墨客と呼ばれる人々は和菓子とは縁の深いものである。漱石の場合は藤むらの羊羹であった。私も藤むらの羊羹はその色といい甘さを控えた味といい好きな羊羹であった。京都から出た虎屋の羊羹は今では東京風の濃い味になっているが、その点東京の藤むらはむしろ京都の味といっていいような味の深い羊羹であった。しかし現在休業中とか、淋しい限りである。 昨日、京都文化博物館別館で「ロアレル賞連続ワークショップ2003 京都」「空間の色ーアートの可能性とその根源」と銘うった催しがあった。色をめぐる科学者と芸術家の対話と実演を特色とする内容で、東京から今回は舞台を京都に移しての講演会&対話集会であった。京菓子の「老松」主人の大田氏が熱弁をふるわれた話もよかった。質疑応答の時、私はふっと思いつくままこんな発言をした。 「京菓子の場合は地元の人々が何よりもそれを支えています。夏目漱石は藤むらの羊羹を愛しましたがその店は今では絶えてしまってますね。あの羊羹の色・味ともに消えたことは残念でなりません。東京では支える人々がいないとは。」 私は、漱石のためにももう一度あの由緒ある店の復活を願うのである。 「いやー珍客だね。僕のような狎客(こうかく)になると苦沙弥(くしゃみ)はとかく粗略にしたがっていかん。何でも苦沙弥のうちへは十年に一遍くらいくるに限る。この菓子はいつもより上等じゃないか」と藤村(ふじむら)の羊羹(ようかん)を無雑作(むぞうさ)に頬張(ほおば)る。 『吾輩は猫である』 四 宝暦年間(1751-63)に本郷4丁目に店を出した和菓子の老舗。黄味時雨や羊羹、田舎饅頭で名高い。夏目漱石が愛好した他、森鴎外も雁』の中でお常にここの田舎饅頭を買いに行かせている。本郷3丁目脇(文京区本郷3-34-6)で営業していたが、現在休業中。 |
| ●2003/01/14 Tue 00:12 学究の立場 |
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漱石研究においても優れた業績を残していらっしゃる伊豆利彦氏、私は氏に多くのものを学ばせて頂いているが、先日、主人の著書について次のようなメールを下さった。 ご主人様のご著書ありがとうございました。 仏教は世界でもっともすぐれた宗教だと思っています。 その仏教学の学者としてすぐれた研究をなさっていらっしゃる方の、宮沢賢治論を、一部ですが興味を持って読ませていただきました。 <現象としての自己>についてのご指摘は、私があてずっぽうに考えていたことを、学問的な裏づけをもって書いてくださっているのをうれしく思いました。 ゆっくり読ませていただきたいと思います。 主人の書く専門書は私には難解で到底わからない。そのため数年前に私は主人に頼んだのだ。「私にもわかるものをぜひ書いてみて!」。そんな願いを主人は聞いてくれ、宮沢賢治について書いてくれたのだった。それは大手出版社から新書として出たものの2万部を売り切ったところで絶版になってしまった。 私はキリスト教信者の伊豆氏がこのような理解をもって主人の書き物を読んで下さったことに感謝した。そしてさらにご自身の著書『夏目漱石』をご恵贈くださった。ネットとはなんと思いがけないお付き合いが生まれるのだろう。じっくりと繰り返し読んでゆきたい。 主人が昨年の夏、敦煌へ学術調査のため旅した時の画像を同行の方から頂いているので、今日はその一枚を挿入する。砂漠地帯をラクダに乗っている老学究。昔から見栄えしないのが気楽なものである。 |
| ●2003/01/09 Thu 00:18 愛子さま |
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皇室のニュースでは皇太子ご夫妻のお子様の愛子さまが大人気である。笑顔もしぐさもたまらない位愛らしい。一般に産まれた女児の名前に「愛子」の名が急増しているというのも頷けよう。古くからの「和顔愛語」という四文字は自分でも大切にしてきたものだ けれど、もう一人、漱石の第四女に愛子さまがいらっしゃる。 随筆『永日小品』の「猫の墓」に出て来る最後の一節は読み返す毎に哀切である。 この方は父漱石にもっとも可愛がられたようだ。道草」の連載がはじまった頃鏡子夫人は次のように書いている。「4番目の愛子というその頃十か十一かだった娘が、或る時夏目に申します。 「お父さんたら、伯父さんのことや人のことばかり書かないで、もう少し頭を働かせなさい。」 夏目は笑いながら、 「この奴、生意気なことをいう。そんなことをいうと、こん度はお前のことを書いてやるよ。」 などとからかっておりましたが、、、、。」 愛子さまは後に、末娘から見た父漱石の素顔と題したエッセイで、父へのかぎりない尊敬をこめて臨終のさまをこう綴ってている。漱石が描いた「達磨渡江図」について。 「暗い夜に、手も足もない達磨がただ一人小舟に乗って、どこから来てどこへ行くのか?流れのままに身を任せて行く、そんな絵であった。自画、自意識を捨て、天意のままに生きているこの達磨の絵、これこそ彼の理想ではなかったか? 晩年父が達せんとして達し得なかった境地がここにあったのではないか。自然に逆らわず、あるがままの姿で生きて行く。そうした澄み切った心境こそ晩年の父漱石があこがれていた境地ではなかったろうか。父の「泣いてもいいんだよ」と言ってくれた死際の言葉と、この絵とは、なにか相通ずるものがあるように思えてならない。かわいがっていた子供が、自分の死を悲しんで泣いている、漱石はこの末娘が泣くのがつらくていやなのだ。しかし、「なくのはおよし」と言う代わりに、「お前の気がすむならそうおし、お父さまはかまわないのだ」父は臨終の苦しみの内にさえ、己を去り、娘の涙を自然のままに流させてやりたいと願ってくれたのではないだろうか。」 |
| ●2003/01/06 Mon 17:57 日記の功罪 |
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漱石はよく日記を書いた。樋口一葉も日記で評価を高めた。永井荷風の日記も時代を超えて愛読されている。読者というのは私小説的な読み方をしていて作家の素顔をそこに見るようだ。けれども、漱石は日記を残したことで「はた迷惑」をかけた側面は否定できない。 鏡子夫人の『漱石の思い出』に、次のような一節がある。明治三六年、37歳の頃と思われる。 「二一 離縁の手紙 この頃こういふあたまでつけた日記があったのですが、今見当たりません。一体よく日記を書いては後で破って捨てる人でしたから、これも大方捨てたものでしょう。(後略)」 その日記は夫人の死後、公開されたという。これを見た人たちはこぞって漱石夫婦の不仲説を信じ、悪妻呼ばわりをしたのであった。 しかしご長男の夏目純一氏は、「親父の弟子たちは、こんな親父の気違いじみたことは一切認めようとはせず、悪いことは、すべて母のせいにし悪妻にしてしまった。しかし、後年、母の口ぶりから察するに、母は心の底から親父を尊敬し信頼していたようだ。母の口から親父にたいして愚痴らしい言葉を聞いたことは、絶えてなかった。」と語っている。 私は女性として、鏡子夫人はその並々ならぬ覚悟といい見上げた女傑のような方だと思う。他人がなんと言おうと夫に連れ添い遂げた強い信念と深い愛情!明治のあの時代に漱石を私人ではなく公人として考え、死後の解剖を決意されたこと一つをとっても、並の人物ではない。まことに漱石は伴侶に恵まれた方ではなかっただろうか。 昨日が漱石の誕生日であったことから、今日の画像は、夏目漱石筆「人物図自画賛」「 居眠るや 黄雀(クワウジャク)堂に入る小春 」 この句は明治29年12月の「正岡子規へ送りたる句稿 その二十一」 にある。雛僧ともよびたい人物が無邪気に寝入っているところである。 |
| ●2002/12/31 Tue 00:41 一日でも長くこの世に |
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若い時分には夢があった。夢と現実の狭間でなやみもした。それが人間の辿る道だと自分に言いきかせた。同じように見える日々を繰り返しながら失敗しながら、そうして今、人生の晩年を迎えている。 主人の叔父である曹洞宗の師家・白山老師に先だってお電話で話したことがある。叔父は年が明ければ90歳になられる方である。 「私、このごろ希望といいますとごくちっぽけなものになってますの。主人と一日でも長くこの世に生きたい・・・なんてそんなことを思ってます。」 「それでいいのではないかな。一日を清らかに生きられたら、それは・・・それはいいことでょうね。」 受話器を置いた後で、私はその言葉を反芻してみる。いやいや、そのような境地には遠い自分だ。まだまだ片付けなければならないことがわんさとある。部屋の中のこの散らかりようはどうだ。ハウスキーパーとしてはまったく失格だ。それに何より美味しいものには思わず口元がゆるむではないか。 そんなことも忘れて、あのようなことを叔父に話した自分に苦笑を禁じえない自分がいる。 40から50を過ぎた男の顔は領収書。女の顔は請求書。こうした格言のようなものを何かで読んだことがあった。なるほどと妙に感心したのだった。 いま、請求書でなく私の領収書にはマイナスがくっきりと書かれている。求めた道の夢と、実現したこととはあまりにも遠い。 そうしてやはり思うことは、一日でも長くこの世に生きていきたい・・・いっしょに・・と。 誰しもが思うであろうことを思ってしまう。 注 上の画像は白山老師の書。信者の方が銅版に彫られたもので、語は「七佛通戒之偈」(しちぶつつうかいのげ) 諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸佛教 ( もろもろの悪を作すことなく もろもろの善を奉じおこない みづから心を浄くす これが諸仏の 教えである ) |
| ●2002/12/25 Wed 22:02 花束を贈って下さった学生さん |
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先の花束をそのまま部屋のなかに飾っておいたら暖房でしおれてしまった。それで束を解いて水切りをしてから古い海鼠(なまこ)の壷に入れてみた。まもなくシャンと生きかえったので、玄関の供待ちの隅へ置いて写真を撮った。 私は主人にそれとなく尋ねた。「カードにお隣の国の人と思える苗字が書いてあったけれど、ほら、金さんって?」「ああ、そうか、日本人の女子学生で最近同級生の男と結婚したのだ。」 なんだか新しい時代になったような感じだった。オープンに誇りをもって、外国人の夫の姓を名乗る。覚悟のある女性だと私は思った。 いま日韓、日朝間には越えがたい難問が山積している。政治はそうであっても若い人たちの間に純真な情熱があり、国家を超えて共によりよき人生を創っていこうとしている。某新興宗教の企画による国際結婚でなく、それこそ漱石が言う「自己本位」の結婚であるならば、私はすばらしいことだと思う。 昨日、アメリカから大型封筒の手紙が届いた。プロ写真家のジョージさんかと思ったら差出人はマックレイン松岡陽子さん!。ご両親と一緒に写られた幼児期の写真や、国際結婚でアメリカに住み、オレゴン大学から表彰を受けられた記念パーテイ。名誉教授としてのいくつかの写真等々、ほんとうに若々しいお手紙である。ご子息の風貌はやはり東洋人の血が入っていらっしゃる。 いずれ来年、拙サイトでご紹介させていただこうと思っている。 |
| ●2002/12/23 Mon 01:16 最終・・・講義 |
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明治前後に生まれた人なら人生50年といってもおかしくないが、今では日本は男女とも世界の長寿国だ。老夫婦には違いない自分たちであるが、私はきのう今日、ジーンとこたえた日であった。昨日の朝、主人が「学校に行ってくる」と言った。授業のある日ではないのにと思いながら黙って見送った。夕方帰宅した主人は大きな花束を抱えている。「学生たちがくれた。今日が最終講義だったんだ。」 あまりにも淡々としている主人、私は自分が恥ずかしかった。現代のというよりどちらかといえば漱石の生きた時代の雰囲気をもっている男である。自分の仕事について妻には立ち入らせないし職場の話は殆どしない。定年退職するまでに一度だけでも主人の大学研究室に行ってみたいと頼んだこともあったが、笑って拒絶されてしまった。しかし今日が最終講義の日だったとは、それも知らず、ああこの一日、自分は何をしていたのか。 世間では不倫ということが往々にして取り沙汰される。男性が生涯にわたって一人の妻を裏切らずに生きて来たということはさほど多いことではないだろう。文学において女と酒はつき物であったが、漱石先生は違っていた。「第一義」を「誠」においた人であった。そしてこうした言葉を口にするのはおこがましいことと思うが、私の主人もそのような男である。悪妻からすれば来世も共にという想いがあるが、これは又やんわりと笑って拒絶されることだろう。 主人の研究は退職後も継続される。常に心変わることなく地道に2000年前の文献を探求し構築してゆく・・・。学生たちの祝福のカードを読ませてもらいつつ私は幸せにひたっていた。 |
| ●2002/12/22 Sun 01:46 兜門(かぶともん)をマックレインさんがくぐる |
ことし4月9日、前日にあたかじめ打ち合わせていた通り、マックレイン陽子さんを裏千家今日庵にご案内した。午後3時まえ宗家から少し離れた処でタクシーを降り二人で歩いていった。陽子さんは少し緊張なさっている。以前いただいた何通かのメールに夫々こう書かれてあったのを私は思い出した。 「私は戦前、戦時、戦後の、日本が経済的、文化的に最も貧しかったただ中を日本で過し、御茶、御花の御稽古ごと一つしたこともない無粋な女で、裏千家の御宗家など、とてもお恥ずかしくて伺わせて頂ける人間ではありません。」 「裏千家を訪問させていただくとき、スラックスを履いていてもよろしゅうございますか。それともきちんとした洋服を着たほうがよろしいでしょうか。ただでさえ御茶の御作法を知らない人間で、これ以上失礼に当たることはしたくないと思っておりますので、何でも正直におっしゃってくださいませ。」 大丈夫です、と私は申し上げた。 ・・・厳粛な面持ちで兜門をくぐられる遠来の客。露地という名の茶庭の踏み石をしめやかに歩かれる。それでいてあどけない童女のような笑顔。 私たちが招き入れられた又新(ゆうしん)という立礼席の茶室で、お茶をいただいていると暫くして若宗匠のお出ましになった。文学者としては日本ペンクラブ会員でもある若宗匠。漱石の孫・マックレイン松岡陽子さんとそれは又なんという和やかで楽しい会話であったことか! その忘れられない語らいはそっとしておこう。後日オレゴンに帰国された陽子さんのメールには次のような一節があった。 「若宗匠との御写真とてもよく写っていて嬉しいです。本当に楽しい日でした。彼はご自分の分野だけに優れていらっしゃるだけでなく、プロの写真家ですっかり感心してしまいました?本当のあーテイストでいらっしゃるのですね。」 若宗匠は今日、第十六世今日庵家元の継承宣誓式を宗家利休堂において行われる。もう若の名は無い。その思い出にと私は拙サイトの表紙に、記念の筆跡をUPした。ことし3月、私が筆者となった七事式の会記である。「閑談無賓主」の語と花押が若宗匠の筆になるものである。 |
| ●2002/12/17 Tue 22:09 雑司が谷へ 二度目の墓参 |
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昨年の秋にはじめて漱石の墓所のある雑司が谷へ行った。その時は一人タクシーを拾い、運転手に行先を告げると「霊園ですな。」と彼は地図を広げながらともかく目的地に着いたのだった。しかし、今回はミモザさんが一切の世話をやいてくださった。鎌倉漱石の会がある12月8日、その前夜から私は東京巣鴨のミモザさんのお宅に逗留していた。翌朝9時に彼女と雑司が谷へ墓参のため、都電に乗ったのだ。都心でない空間があってほっとする。 漱石の墓は既成の墓の形態ではなく安楽椅子をかたちどった設計である。これまで多くの方からこの墓については不評悪評を聞いていたけれども、昨年はじめて私はこのお墓に接し遺族の方々の想いがここに結実したように感じたのだった。この世で心身の病に苦しみ煩悶した漱石先生。あの世ではせめてご夫婦で安楽椅子にやすらいで頂く・・・。 私は昨年、松岡陽子マックレインさんからメールでご教示いただいていたことをここで皆さまへお分かちしたいと思う。 2002/11/11 メール 伊津子様 以下亡父、松岡譲の『夏目漱石』の最終ページからの引用(河出書房、市民文庫、昭和二十八年版): {十二月}二十八日に雑司が谷の墓地に愛子ひな子の遺骨にとなりして埋葬された。一周期の時新しく広い墓地にかへ、墓を建てて改葬された。墓は未亡人の妹婿鈴木禎次の設計になり、新様式の石塔である。字は漱石の親友菅虎雄の筆になった。この墓地も落合火葬場とともに彼の作品の中に描かれた有縁の地であるのである。墓地は『こころ』に、火葬場は『彼岸過迄』に) ・・・・・・・・・・ 鈴木禎次は名古屋の松坂屋を設計した建築家、大震災ですべての建物が壊れたとき、松坂屋だけが残り、優秀な建築家として名をなしたと母が言っていたのを覚えています。祖母のすぐ下の妹の主人。 マックレイン陽子 |