| 2006年8月 スライドショー 建仁寺本坊から 茶室東陽坊 元建仁寺寺領 祗園町南側 8月13日UP この写真は昨年2005年と本年6月5日の建仁寺開山忌の日に 撮影したものです。 栄西禅師といえば、1141年、備中岡山にて出生。14歳で落髪、比叡山で天台密教を修めた後、二度にわたって入宋。彼の地から禅を日本に伝えた方です。そして茶の種を持ち帰り栽培を奨励し、茶の効用を研究した結果、『喫茶養生記』を著しました。 こうしたことから栄西禅師は、日本に禅の心と喫茶の法を伝えた「茶祖」としても尊崇されているのです。 開山堂の近くには、栄西禅師を顕彰する自然石の「茶碑」も建っています。 私は建仁寺の本坊に上がり、お堂に合掌したのちにカメラを向けました。栄西さまはこのうつけ者をお許しくださいますでしょう。 それでは、ここに来るまでの道順を申し上げましょうか。 四条通りから花見小路を南に入ります。ここは、東山区 祗園町 南側という通りになります。馬券売り場もあって 人の通りも賑やかですが、ここをまっすぐ行ますと突き当りが建仁寺の北門になるのです。 先ずは、祗園町南側のことからお話いたしますね。 京都らしさが今も残っている町の一つが、ここにあります。もとは建仁寺の寺領でしたが、明治の廃仏毀釈によって民間へ払い下げられのでした。 もともと働く女性のために作られたので、いわゆる男性に奉仕する遊興・娯楽の町とは、簡単にいえないいものがあるのです。 私は6月5日、建仁寺開山忌・献茶式に参列したあと、建仁寺北門を出て花見小路を歩きました。この通りの位置を知るには、建仁寺の地図をご覧いただくのもいいかと思います。 建仁寺 ☆祗園町 南側 京都市東山区。八坂神社の門前南西側の一帯をいいます、中心となる女紅場学園の所有地は約3.3ha、294区画。地区内の土地の殆どは明治時代以来財団法人女紅場学園が所有しています。 地区全体(女紅場学園の所有地含む)では、祇園町南側地区協議会が京都市市街地景観整備条例に基づき建築物の審査をすることになっています。女紅場学園の所有地では、借地人の選定に際し、祇園に相応しいか審査した上で決定されるといいます。 ☆女紅場 明治5年、日本で最初に設立された女学校。裁縫・料理・読み書きなどを教えました。その後、新英女紅場もでき、科目には英語が加わりました。新島襄の妻となる八重さんが養蚕を教えたそうです。同志社女子大学も元は「同志社分校女紅場」といっていたのです。 財団法人女紅場学園 1867年 建仁寺の所有地が上知される。 1872年 祇園で働く女性のための株式会社婦女職工引立会社が設立。同年、4.9haの土地が払い 下げられる。 1874年 女紅場と改称、1900年財団法人としての許可申請を行う。(この時点での財産は4.6ha) 1902年 財団法人として成立。(3.5ha) 1911年 四条通・大和大路に面する部分の貸座敷営業が禁止され、花見小路にお茶屋が並ぶように なる。 1951年 学校法人八坂女紅場学園となる。(4.1ha:道路部分を含む) 1990年 財団法人化。 ☆株式会社婦女職工引立会社 その由来をみるとなかなか奥が深いようです。 滝沢馬琴が享和2年(1802)秋に京都に来訪した折、島原を訪れ失望した様子をこう書いています。 「島原の廓、今は大いにおとろへて、曲輪の土塀なども壊れ倒れ、揚屋町の外は家もちまたも甚だきたなし。太夫の顔色万事祗園にはおとれり。」 時代は変わり明治になって、遊里の廃止、存続へと変遷をたどります。京都府参事槇村氏の計らいにより、本人の希望と月々の税金を納めることを条件に遊里の営業が許可されるようになったといいます。今の「お茶屋」のことでしょうか。 「婦女職工引立会社」の開設は府の指導の元、半強制的に行われたとする見方がありますが、 画期的な革新だったと思われます。 しかし、祗園町はいわゆる遊里の性格ではなく、技芸にすぐれた文化サロンといったものだったようです。そのため祗園に生きる女性達は、現代でも古風な厳しいしつけを受け礼儀作法をわきまえています。 観光客の外国人の女性が、舞子さんにお願いして一緒に記念撮影をしていました。舞子の女らしい美しさにたいへん憧れているようすで、私もほほえましく2人をカメラに収めました。 京都のよさを知らしめてくれる町であり女性たちであること、それを維持する 努力は並大抵ではないのです。技芸の研鑽はもちろんのこと、働く女子として観光にも大きく貢献しているのです。 ちなみに、花街を京都では「かがい」とよびます。 京都の花街は「五花街(ごかがい)」。祇園甲部、祇園東、上七軒、先斗町、宮川町、(島原は除き)五つの花街の意味です。 参考にさせていただいきました。 京都市祇園町南側 最後になりました。 ☆茶室・東陽坊 二畳台目の草庵。天正十五年(1587)、豊臣秀吉が催した北野大茶会で東陽坊長盛が担当したのがこの副席であった伝えられています。 ☆真如堂 東陽坊長盛(とうようぼう ちょうせい) 安土・桃山時代の天台宗の僧・茶人。京都真如堂東陽坊住職。号は宗珍。茶は千利休に学ぶ。薄茶の先達といわれる。長次郎作黒楽茶碗「東陽坊」などを所持したことで知られる。北野大茶会で建てた茶室「東陽坊」は建仁寺方丈裏庭に移築された。慶長3年(1598)寂、84才。 東陽坊に関連して拙サイトに記事をすこしばかり。 2003年6月6日UP 建仁寺献茶式 四代目の家系 或る業躰家 2004年6月25日UP 家元とヤブレガサ 建仁寺献茶式の日 2001年6月12日UP 建仁寺開山忌 献茶式・茶会
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