2005年6月12日UP


身代わり 中宮寺観音ぼさつは 影武者でなく



平成17年4月15日 山吹茶会のお招きがあり 法隆寺・救世観音ご開帳にも 心惹かれ 参上いたしました。昨年の山吹茶会には 席主としてご奉仕させていただいた自分をふりかえりながら…。あれからもう一年が経ちました。
中宮寺へ行くには 法隆寺・東院伽藍 ふつう夢殿とよばれている処の正面前の門から入ります。まず夢殿に合掌して 撮影。夢殿の庭にはしだれ桜が満開でした。夢殿にはカメラのレンズがちょうど入る位の のぞき窓が一箇所あり 秘仏の救世観音を拝むことができました。
如意輪観音半跏菩薩像 夢殿 救世観音


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この時期 ご本尊さまは 東京博物館へ 運ばれて お留守でございました
ここには お身代わりの にょいりんかんのん菩薩が おわしました

八角堂 屋根の宝珠
風鐸に特徴


 ゆめどの


ゆめどののさくら


 ひぶつ


 おそれおおく


中宮寺へ


やまぶきとさくら


中宮寺の落ち椿


 目を転じて


月光つばきでした


身代わりの
かんのんさま

 よこむきと


 おせなかも


こちらは紙で作ら
れた菩薩

 ほんものの国宝


いにしえの中宮寺
の尼さまが願をか
けて

国宝のまんだら



わびすけはこんな帯を
しめてました 鳩が
みえますか 斑鳩の


中宮寺の台所
猫の爪とぎ器が


ふだんぎの
ごもんぜき
のらのシロかな



お身代わりの かんのんぼさつは たとえば 影武者のような存在かもしれません ご本尊の 代理のお役を つとめられますが おまいりの方々には あまりかんげいされない お役目でしたなぁ おいたわしや こたびは ご本尊さまがお留守になれば 参拝の方々に失礼になるということから 特別にふたつの寺宝が 中宮寺に里帰りなさいました 
ASAHI.COMの (新聞記事はこちら) ←クリック!
でも お身代わりのぼさつは いつもこのお寺に 隠れておわしますし のらねこたちは 爪とぎをして なにおもうことなく にんげんのおかあさんと平和に くらしていてはります
                             7/11 再UP




このころ ご本尊さまは 新聞紙上に お出ましになりました




3寺宝65年ぶり勢ぞろい 太子ゆかりの奈良・中宮寺




聖徳太子ゆかりの尼寺、奈良県斑鳩町の中宮寺で19日、本尊の菩薩半跏(ぼさつはんか)像(国宝)と天寿国☆帳(しゅうちょう)(国宝)、紙製文殊菩薩立像(重文)の3つの寺宝が約65年ぶりにそろった。
 この日午後、飛鳥時代の優美な菩薩半跏像が、特別展示されていた東京国立博物館から無事に帰着。寄託先からそれぞれ里帰りが実現していた天寿国☆帳や文殊菩薩立像と20日朝にも本堂で“対面”する。


聖徳太子ゆかりの尼寺、奈良県斑鳩町の中宮寺で19日、本尊の菩薩半跏(ぼさつはんか)像(国宝)と天寿国☆帳(しゅうちょう)(国宝)、紙製文殊菩薩立像(重文)の3つの寺宝が約65年ぶりにそろった。
 この日午後、飛鳥時代の優美な菩薩半跏像が、特別展示されていた東京国立博物館から無事に帰着。寄託先からそれぞれ里帰りが実現していた天寿国☆帳や文殊菩薩立像と20日朝にも本堂で“対面”する。
 中宮寺によると、文殊菩薩立像は1940年の発見直後に修理のため同寺を離れ、現在は東京国立博物館に。 天寿国☆帳は1982年から奈良国立博物館に寄託されており、3つ並べて展示するのは初めてという。
 (注)☆は繍の旧字体



国宝“里帰り”-天寿国繍帳など一般公開


 斑鳩町法隆寺北一丁目の中宮寺(日野西光尊門跡)で、国宝の「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」(飛鳥時代)と国指定重要文化財の「紙製文殊菩薩立像」(鎌倉時代)が数十年ぶりに里帰りを果たし、2日、同寺本堂で一般公開が始まった。5月15日まで。

 天寿国繍帳は奈良国立博物館、紙製文殊菩薩立像は東京国立博物館がそれぞれ保管。8日に始まる東京国立博物館の中宮寺展に本尊木造菩薩半跏(国宝)が出品され、同寺に残るのが複製品だけになってしまうことから、同寺が両博物館に要請して里帰りが実現した。

 同寺によると、天寿国繍帳は複製が製作された昭和57年以来、紙製文殊菩薩立像は約半世紀ぶりの同寺での公開となるという。

 天寿国繍帳は縦88.8センチ、横82.7センチ。聖徳太子の妃・橘大女郎(たちばなのおおいらつめ)が、太子をしのんで作らせたと伝えられる。現存するものは、飛鳥時代の原本と鎌倉時代の模本をつづり合わせて表装されている。


(奈良新聞)



中宮寺・観音像は 聖徳太子の母君を、 法隆寺・救世観音像は 聖徳太子を、
 ともに写したお姿だと 伝えられます。

法隆寺・夢殿の救世観音

救世観音像は長い間秘仏でした。秘仏を見ると、大地震が起り、寺は崩壊するとの伝説がありましたが、明治17年にフェノロサによって開けられたことはよく知られています。厨子の中には体一面に木綿の布を巻いた仏像があったのです。

  • 和辻哲郎、「腹部の突き出た姿勢は少し気にならぬでもない。元来この像は横から眺めるやうには出来てゐないのであらう。しかし肩から下へゆるく流れる直線的な衣文は非常に美しい。」
  • 亀井勝一郎、「しかし側面から眺めると、この原始の肉体は忽ち消え失せて植物性の柔軟な姿に変ってしまう。胸が平板で稍々猫背であるため体躯が柔い感じを帯びてくる。原始の肉体に植物の陰翳を与えたところに、神々しい中性が生じたのでもあろうか。礼拝はおそらく側面からするのであろう。---」



御参考 (古都散策らくがき庵ホームページから転載)
  • 中宮寺                 
     山号は法興山、創建当時からの尼寺と推察され中宮尼寺・斑鳩尼寺等とも呼ばれ鎌倉時代の1533年以後皇室系庵主の就任が続く事により、比丘尼御所の寺格を持ち1889年門跡寺院の格式を保ち円照寺・法華寺と共に大和三門跡寺院に数えられて今日に到っている、諸説はあるが聖徳太子の母である穴穂部間人の菩提を弔う為に創建されたとされている。太子の母が中宮と呼ばれていたところから中宮寺と称されるようになっ
    た。宗派も真言宗・泉涌寺派(天皇家の菩提寺)であったが法隆寺の独立と同時に聖徳宗に加わる。
  • この寺に訪れる参拝者の第一の目的は和辻哲郎氏の言う、「聖女と呼ぶに相応しい」国宝・菩薩半跏思惟像(樟・寄せ木造・像高87、9cm)に尽きよう、昭和12年亀井勝一郎氏が発表した大和古寺風物詩は傷心の心を癒すため中宮寺を訪れ菩薩の微笑に一切の罪を許す慈悲の姿を見たと言う、ロダンの彫刻考える人との比較で「かかる摂取の微妙さはいかなる西洋彫刻にもみられない」とまでも言う。
    名称は弥勒菩薩とするのが大勢であるが寺伝に拠れば如意輪観音とされている、しかし像造当時には如意輪観音信仰は成立していないとされる、広がりを見せた密教の影響及び、当寺が門跡寺院となった頃に寺伝が出来たのではなかろうか。 弥勒菩薩とされる所以は七百六十六年、野中寺(大阪府羽曳野市)の半跏思惟像に弥勒菩薩と記されている為半跏思惟像を弥勒とされる様になった、しかし半跏思惟像はガンダーラ地方が起こりらしく、本来は釈迦成道以前(悉達太子)に於ける樹下思惟の姿で在り、中国
    (5〜6世紀)に於いても太子思惟像が主流とされ確定する事は難しい、また当寺の場合髪型は双髷(そうけい)であり、これは古代中国に於いて双鬟(そうかん)と呼ばれる未婚女性の髪形である、(上原和氏)うら若き女性の菩薩像を当寺では現在に於いても如意輪観音と呼ばれている、菩薩に性は無いが当寺の菩薩は室生寺・石道寺の純朴な十一面観音とも異なる「磨かれた深遠なる聖女」であり、微かにチベット的なニューマを連想させ官能的な観心寺の如意輪観音と対照的である、宝菩提院の伝如意輪観音(国宝)と共に、中宮寺の菩薩からは煩悩処理に撥せられるオーラがあり寺伝の通りの呼称がより相応しいのではないか。
  • 次に国宝・日本最古の刺繍工芸品として太子が死後に住む国とされる、天寿国曼荼羅繍帳残闕(奈良博寄託・当寺に複製展示)がある、太子の死を悼んで妃の橘大郎女が聖徳太子のいる天寿国浄土の様子を織らせたと伝えられる、鎌倉時代に法隆寺・網封蔵の櫃から発見されたとされるが、本来は4、8mの大繍帳の大部分が失われ、鎌倉時代の補修を含めて残片が集められているのみである。
    また当寺には文殊菩薩立像があり、紙張貫像(しちょうかんぞう)の代表作として貴重である、紙張貫とは古紙・経典の廃棄部分等を張り合わせて作られた像で茶道具の一閑張細工の源とも言える。

    聖徳宗     所在地    奈良県生駒郡斑鳩町大字法隆寺  


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