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近年、食育や自然農法などがブームのように取りざたされ、その中で食べ物や栽培といった新たに生み出されていくものに対して強い関心が寄せられている。しかし、その一方で、ウンコや死体というものはほとんどの人にとって、嫌悪感を抱くもの、隠さなければならないもの、触れてはならないもの、話題にすらできないものになっている。私はこれまで生態学を研究テーマとしてきており、自然探索が趣味であるので、森の中で珍しいケモノのウンコを見つけると、つい手にとってしまうし、条件反射的にビニール袋を取り出し、持ち帰ってしまう。死体を見るとまじまじと観察し、死因は何で、どんな虫が死体を食べに来ているのかなどを観察してしまう。ここでは、こんなウンコや死体について考えたいと思う。
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ここで、ふりかえって、私自身の生命を見てみると、同じように私の生命も他の生物の「死」によって維持されていることに気づく。 えっ?あなたも? そう、私たちも生物である以上、「死」からしか「生」が生まれないというのは事実なのだ。人間であっても「生きる」ことはその対象が動物であれ、植物であれ、その生物を「殺す」ことから始まる。私自身、もちろん、教科書の中ではこの事実は知っていたが、自分のものとして理解できたのは大学生になってからだ。それを教えてくれたのは灰谷健次郎氏や鳥山敏子氏の著作だった。そして、20代後半にして、やっと実感し、現在では私のなかの「本当のこと」のひとつとなっている。 以前、都会の住宅地に住んでいた時には、生きている感じが湧かなかった。もっと生きている実感を持てるような生活を送りたいと悶々としていた。そんな欲求はたぶん、上記の事実が分かっていながら、それを実感できなかったからだ。 |
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冒頭に述べたように、一般的には「input」にあたる「食べ物」や「生き物」にスポットライトが当たっており、正当な理由なしに「output」にあたる「ウンコ」や「死体」、「ゴミ」は日陰者になっている。生態学的には進化の過程で獲得した適応的な行動で、生活環境を衛生的に保とうとする行動が起因すると思われるが、現状の日本を見ると、過度になりすぎていて、これらナレノハテはまったく目を向けるべきものではないと感じている人が多い。日々、テレビなどにより「清潔さ」や「バイキン駆除」について扇動されている。私はこれに納得がいかない。システム内の構成要素である手前に向いている矢印である「それ以前」と他にむいている矢印である「ナレノハテ」は同じように扱われるべきではないかと思っている。なぜなら、システムの中に暮らすわれわれにはinputもoutputも両方、必要不可欠であるからである。もちろん、日常生活には適度な衛生観念は必要だが、衛生観念とナレノハテの存在否定は同じ意味ではない。 末永く人が自然環境の中で暮らすために、藤井英二郎氏(千葉大園芸)は、より小さな循環システムによる人間-自然系の再構築が必要であると主張している。また、鬼頭秀一氏(東大)は、ヒトが経済的に依存している自然に対して精神性をも含んだリンクを持つべきだと言っていた。これは自分の「生」がどこからinputされるのかを認識して、その源である自然(農)に対して精神的なつながりを持つべきだということである。 この精神的なつながりをもつためには、できるだけ小さなシステムの方が認識しやすいだろう。遠く離れた外国の事情は見えにくく、実感しにくいが、自分の庭やムラで起こっていることは自分のこととして考えることができるからだ。この小さなシステムの中に自分の生命を位置させることは、自分自身の「生」をより実感できるだけでなく、人間社会全体を持続的に維持させていく秘訣のように思われてならない。そして、この小さなシステムの生命を実感するためにはinput たる農への関わりと、outputたる「ナレノハテ」を意識した生活が欠かせないと思う。だから、毎日自分から出てくるナレノハテたるウンコをみつめるため・・・、 「ウンコ絵本」は重要な教科書なのだ。 |
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また、ウンコと同じように、一般には、生き物を「殺す」、すなわち死体を作るということも隠蔽するに値することと考えられている。毎日のように鶏肉や豚肉が大量に消費されているというのに。もちろん、無差別に殺戮をくりかえしてよいわけではないが、生物としてのヒトを維持・成長させるために死体を生産することは必要不可欠なのだ。だって、そうしないと自分が死んでしまうから。生物として当然の行為だ。しかし、その「必要不可欠」で「当然」なことがなぜか、隠蔽されている現状に疑問を感じるのである。
自分の手で、庭にいるニワトリを絞めることで、食肉の消費とは屠殺から始まることを、毎日ではないにせよ、実感することができる。このことは食肉流通経済で暮らしているときには忘れがちになる重要な点である。スーパーに並んでいるパック詰めのモモ肉に、生命の残像を探すことは困難なのである。魚ですら、最近は頭つきで売られなくなっている。自らの手で絞め、血の暖かさを感じ、筋肉や内臓の付き方を体で確認して、舌で味わうことで、初めて、自分の命が生き物の命でできあがっていることを実感できると思う。 社会問題の面でも、自分の、それも生命の問題として食肉流通をとらえる事ができれば、食肉処理場やその作業者に対する差別問題など生まれようがないと思う。三浦耕吉郎氏(関西学院大)は「屠るという厳粛な営みからの私たちの生活の徹底した乖離」が差別問題を引き起こしている土壌であることを指摘している(三浦耕吉郎(2003)「屠場を見る眼-構造的差別と環境の言説のあいだ.」 pp.45-66. 差別と環境問題の社会学. シリーズ環境社会学6 桜井厚・好井裕明編,新曜社,東京.) |
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私はこれまでの住宅街の中での生活をやめ、通勤時間は増えることにはなったが、田舎の集落に転居し、「農的」くらしをはじめようとしている。農業というのは10数年まえから私にとって「あこがれの職業」であった。「百姓」と呼ばれるように、さまざまな技術と文化が息づく農業に漠然とあこがれていたのである。また、本業の仕事の中で、野生動物が農業へ及ぼす影響を少なからず調査してきた。この中で、いま日本では農業が衰退の一途を辿っていることを知った。上記の話の続きとして、この農業という仕事を考えると、これは他の命(例えばキュウリ)の「死」を人間の「生」に変換する仕事として捉えることができる。この点から考えると、農業や畜産業は、人間の「死」を「生」に変換する医療と同等に扱われるべきであり、しかるべき社会的地位を与え、公務員にするなどで、国による身分保障(賃金など)をすべき職業である。無茶な論理だと思われるかもしれないが、私は本気でそう思っている。 農「業」とまでいくと、現金収入の手段になるわけで、採算性をあげるために小さなシステムで動かしていくことが困難になるかもしれない。しかし、自分や家族だけのことを考えると、「業」にしなくとも、ある程度の畑があれば食物の一部を自給することができる。また、ニワトリを飼うにしても、飼える範囲の数を決められるし、小屋も小さくていい。農を自分の日常生活(歯をみがいたり、風呂に入ったりするように)の一部として位置づけ、暮らすことはできないだろうか?「業」としての農ではなく、「農的」くらしをである。最近は「半農半X」なる便利な言葉もでてきた。 少なくとも、私は自分の命を維持するために、自ら農的なくらしをしていこうと考えている。自分で作った素性の明らかな農産物と卵で、自分の命を伸ばしていく計画。 そこで、自分を維持しているシステムを実感して、そのシステムの中の自分の生命を楽しむように、積極的に自分の食物である生命を殺し、食べ、ウンコをし、そして死にたい。そう思うと、「生」を実感することは、やはり「死」を実感することから始まるのではないかと考える。この思いが、私を農的なくらしへと導き、鶏の飼育を続ける動機となっているのである。 |
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生命倫理学という学問のひとつのテーマに、ヒューマニズム論というのがある。これは生物学的「ヒト」とは異なる「ひと」を定義する作業である。受精卵診断の是非、脳死の定義、臓器移植の倫理などを考える際のキーワードである。この議論では「ひと」の生命がどこから始まり、どこで終わるのかといったように、生と死を同じ論理軸上で扱っているのである。このように「ナレノハテ=死」の問題を「それ以前=生」とおなじ軸のうえで議論するというのは、あたりまえだと思うし、そうすべきだと思う。 もう一つの応用編として、ゴミ問題を考えてみる。ゴミは日用品の死体であり、生活という生命活動のウンコである。私はゴミを日用品と同等に扱われてほしいと願っている。消費者が商品の産地を気にするように、自分の出したゴミの行く末にまで気を配るべきである。 「Do It Yourselfの店(日曜大工)があるように、Junk It Yourself(日曜廃棄) の店があってもいいじゃないか!」ということ。 さらに、この論を進めれば、現時点では廃棄物を処理して利用するサイクルに乗せることができない原子力発電は決して容認できるシロモノではない。再処理とか言っているけれど、使うのはごく一部であり、技術的にはほとんど初期の段階であり、実用的ではない(このくだりは10年前の初稿段階でも書いてある文だが、10年たっても問題は一向に前進していない。そろそろあきらめて方向転換すべき時期ではないか。)。未熟な技術と安全性が不安定であることを理解した上で、日々生産される核廃棄物の量をきちんと明らかにして、電気を使う人が実感する必要がある。 |
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これまでにナレノハテ考の視点を含んで書かれたすばらしい著作がいくつか出版されている。その中から、私が強烈に感化され、同感したものを紹介すると、まず鳥山敏子著「いのちに触れる 〜生と性と死の授業〜」太郎次郎社ISBN: 978-4-8118-0051-6が第一にあげられる。これは著者が教員時代に実践した小学生にニワトリを絞めさせて、焼き鳥にして食べるという授業の記録が含まれている。当時の子どもたちの心の動きも含めて、克明に記述され、絞めて食べることが仮想体験できるものである。この授業のフォローとしては、村井淳志著「『いのち』を食べる私たち 〜ニワトリを殺して食べる授業「死」からの隔離を解く〜」教育史料出版会ISBN: 978-4-87652-402-0が出版されている。当時体験した子どもたちがおとなになって振りかえる記録は人間の発達に「絞める」ことがどのような意味をもっているかを考えさせられるものである。 子どもと一緒に読める絵本としては、近藤薫美子著「のにっき 〜野日記〜」アリス館ISBN: 978-4-7520-0108-9がおススメ。子どもをひざの上に乗せて、落ち着いて、一場面ずつ丁寧に読んでいきたい。悲しみと喜びを同時に共感しながら。さらに自然に興味がでてくるころ、宮崎学著の写真集「死を食べる―アニマルアイズ・動物の目で環境を見る〈2〉」偕成社ISBN: 978-4-03-526220-6や、「死―宮崎学写真集」平凡社ISBN: 978-4-582-52936-4はどうだろうか。後者は絶版で入手困難だが、古本屋で見かけたら即入手をお勧めする。死から始まる生態系を観察しよう。 いずれにせよ、この問題は論理的に捉え方を変えてみるとか、言葉の遊びの問題ではなく、生活を実践することで意味をなす。まずは自分からというところである。 |