「音楽仲間“好朋友”(ハオポンヨウ)」1996.9月、天安門にて


 中国旅行フォト&ビデオ日記 

1992年7月 初めての訪中公演旅行

札幌→成田→北京→ハルピン→北京→成田→札幌

ハルピン讃歌「日中国交正常化20周年記念演奏会」に出演して

現代ギター誌 1992年10月号掲載 より

1996年9月 2度目の訪中公演旅行

札幌→ハルピン→チチハル→北京→札幌

2002年5月 9月公演の為の視察・打合せ旅行

札幌→新潟→ハルピン→ジャムス→ハルピン→新潟→札幌

2002年9月 3度目の訪中公演旅行

札幌→瀋陽→ハルピン→ジャムス→ハルピン→瀋陽→札幌

ハルビン:北方劇場、歌舞劇院音楽庁 ジャムス:ジャムス市芸術劇院

2003年3月 友人の結婚式出席で北京へ


札幌→成田→北京→成田→札幌

2006年8月 4度目の訪中公演旅行

札幌→瀋陽→ハルピン→ジャムス→北京→瀋陽→札幌

ハルビン:北方劇場 ジャムス:ジャムス市芸術劇院



*1992年7月 初めての訪中公演旅行*

札幌→成田→北京→ハルピン→北京→成田→札幌


 北海道文化団体協議会(以下「道文団協」)から「中国黒龍江省で演奏してほしい」旨の依頼があったのは、この旅行の2ケ月前だった。道文団協は、十数年前より「北海道〜黒龍江省隔年相互国際交流公演」を行っており、北海道の芸術家による黒龍江省公演・黒龍江省芸術団による北海道公演を積極的に展開している。直前の依頼とは言え以前より中国には非常に興味を持っていたので、勿論二つ返事で引き受けた。メンバーは、この旅行で知り合い、翌年結成した「音楽仲間“好朋友”(ハオポンヨウ)」(声楽2名・ピアノ2名・ギター)、筝演奏家2名、音響・舞台専門家、道文団協2名の計10名である。
 7月11日、羽田経由で成田から北京へ入った。


7月12日朝 北京のホテルにて朝食風景
建物も庭園も宮殿のようはホテルだった
ハルピンへの出発便が早いため、まだ寝ぼけた時間




北京空港搭乗待合室
今ではギターの「軽量ケース」なるものがあるが、
この時は、ケースカバーも付けて重かった



ハルピン市街着




当時はロバ(私にとっては「プラテーロ」)も市街地で働いていた




松花江(ロシア側では「アムール川」)
石狩川の何倍もスケールが大きい




松花江の遊覧船にて 黒龍江省文化庁の親友(二胡演奏家 左)




私「スイカの種と皮ははどこへ捨てたらよいか」
答「種は口から川へ飛ばすんだよ。皮は遠くへ投げる。魚の餌になるから」
私「まさか」・・・と言いながら、一度試してみた。




公演会場「北方劇場」前にて
鋼琴=ピアノ、吉它=ギター




北方劇場袖にて 司会者と 
当時は中国語を話せなかったので(今でも
初心者ですが)、簡単な英語と筆談で会話




1回目の公演では、場内が騒がしかった




マイクをここまで近づけ、ボリューム一杯に




翌日の公演 話し合いの結果、場内も静かに、マイクも離れて




当時のハルピン空港
現在は近代的な素晴らしい空港
2002年の日記でUPします




空港内のアイスクリーム店前で
あまりの暑さに妙な帽子を買ってしまったが、いまいち評判悪かった




7月15日 北京へ向うため搭乗口へ




 




















今では見られなくなった搭乗風景 

懐かしかった





レストランでアルバイトをしていた高校生 阮薇 と
英語で文通を続け、今では日本語でメール交換している
96年の訪中で再会(成長ぶりをUPします)
2003年3月、彼女の北京での結婚式に参加するため
5度目の訪中をし、7年ぶりに再会した。


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ハルピン讃歌「日中国交正常化20周年記念演奏会」に出演して
現代ギター誌 1992年10月号掲載 より

 北海道と黒龍江省との国際文化交流として、ハルピンにて、2夜にわたる「日中国交正常化20周年記念演奏会」に出演するため、7月11日成田を発った。メンバーは筝2名、ソプラノ、バリトン、ピアノ独奏、ピアノ伴奏、私のギター、音響専門家、文化交流主催者2名・・・の10人の演奏旅行が始まった。
 
 
11日夜北京に入ったが、「東京・パリ・ロンドン並みの大都会だな」と感じたと共に、中国の雰囲気に懐かしさと強い親しみを覚えた。
 
 12日朝の便でハルピンに入ってからは、感動・感動の連続だった。人口220万人の大都会なのに、北京とは随分違っていた。私が幼少の頃の札幌の生活風景がそこにあった。オート三輪、馬車、家族を乗せたり野菜を積んだリヤカーを運ぶ自転車・・・高層ビルが少なく、ロシア風の建物の多いハルピンの街の雰囲気にぴったりはまっている。そして、私が愛する「プラテーロ」たち(ロバ)が一生懸命働いていた。

 
 ハルピンでの一日目の夜、早速、黒龍江省文化庁主催の歓迎会が開かれた。想像を絶する歓迎ぶりであった。小さなワイングラスではあったが、53度の中国酒を十数回乾杯(飲み干さなければ失礼になる)したであろうか。翌日のコンサートを気遣っていた私に「中国酒は絶対に悪酔いしない」と乾杯を勧めた彼らをうらみながらベッドに入ったが、果たして、翌朝すっきりした頭で5時に目覚め、ゆったりと朝のハルピンを散歩することができた。中国酒は漢方薬なのであった。

 7月13日、いよいよコンサート1日目。ホテルでの指慣らしの後、リハーサルのため会場へ向かう。会場の「北方劇場」へはホテルから徒歩数分。32度の炎天下でギターを持ち歩くのはつらかったが、日陰に入ると驚くほど涼しい。乾燥しているのだ。反響板なしの1500人収容の大ホールだったが、思ったより響く。マイクのセッティング・音量調整を終えて本番を迎えることになった。

 開場18:00、ぞくぞくとお客が入り始めた。開演時間18:30には満席である。司会者によって一人ひとり紹介され、次々と演奏に入る。筝の演奏の後、私の紹介が始まった。ステージ中央に立って驚いた。とても騒がしい。話し声が絶えず聞こえる。会場内を歩いたり挨拶しあったりしている。しっかり聴こうと身構えている何人かを確認した後着席し、演奏に入った。バッハのガヴォット、アルハンブラの想い出、アストゥリアス・・・・とうとう会場は静かにはならなかった。「音が小さい」という声が会場から上がった。同行音響スタッフの適切な指導にもかかわらず、演奏の強弱に合わせてマイク音量を頻繁に上下される。時々音が割れた。冷房設備のない会場で、演奏中指から汗がしたたる。何もかも整った日本の会場とのギャップ・・・・我々演奏家たちが、その悪い条件の中でも一生懸命演奏したのはもちろんであるが、終演後、空しさも残った。

 こうして、1日目は我々にとって悪夢のようなコンサートであった。京劇の大きな音に慣れ、生のクラシック音楽に触れたことの無いハルピン市民も、日本での音楽事情に慣れきっている我々も、同時にあっけにとられたのであった。文化庁の中国音楽家協会会員で二胡演奏家の方が「お前のギターは美しい」と言って抱きしめてくれたことが、私にとって唯一の救いであった。

 当日の夕食会、翌日の昼食会で、文化庁の方々は、もっと大きな音で演奏するよう我々に要求し、我々は、音楽の聴き方を勉強する姿勢を持ってほしい旨要請した。そして、お互い努力しようということで、2日目のコンサートを迎えることになった。

 夜遅くまで、ホテルの一部屋に演奏家たちが集まり、話し合い、曲目・演奏順の変更など、明日の計画を立てた。

 7月14日コンサート2日目。異変が起きた。どうしたことだろう。満席なのに会場が静かである。すでに諦めていたものがそこにある驚きと喜び・・・・。筝も、ピアノも、ソプラノも、バリトンも、そしてギターも、よく響き、会場を包み込んだ。我々は来聴者の素直な反応を感じながら、のびのびと演奏することができた。中国で知らない人はいないという<愛のロマンス>を弾き始めた時の、拍手とそれに続く静寂。アンコールで、ぶっつけ本番に近い打合せの上演奏したソプラノとギターによる<さくら>も、喰い入るように静かに聴いてくれた。我々と来聴者との息が合っていたのである。

 我々の音楽、そして我々の努力を認めてくれたのであろうか。文化庁が、会場の雰囲気づくりをしてくれたのであろうか。お互いに歩み寄った良い結果が、コンサートを成功させようという一致した目標が、何らかの力を生み出し、成功へと導いていったのだと信じた。

 打上げの席では、我々演奏家たちは当然のように、文化庁の方々と大いに飲み、騒いだ。心から感謝を込めて・・・・。

 波乱含みのハルピンでの4日間であったが、手応えのある交流の輪を感じながら今回の演奏旅行を終えた。問題はまだまだ山積みである。われわれは文化庁の方々だけでなく、多くの音楽家、音大生、音楽を学ぶ子供たちと交流をしたかったが、それは実現できなかった。今回の交流の持続性・・・・という点でも、我々個人的なレベルではどこまで可能か不安も残る。しかし、音楽交流の第一歩を着実に踏みしめた実感を持つことができたのは、大きな成果であると思っている。

 7月15日夕方、ハルピン空港は家族との長い別れを惜しむような光景であった。良き友人となった二胡演奏家の彼は、中国人作曲家のギター曲集を私に手渡し、録音して送るよう要請した。そして最後に「お前は兄弟だ」と言って抱きしめてくれた。第二のふるさとを発つような気持ちで北京へ向った。

 翌日、北京で、急ぎ「万里の長城」と「故宮」を見学したが、心はすっかり『ハルピン』であった。

 7月17日、ハルピンの中国を発った。


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1996年9月 2度目の訪中公演旅行

札幌→ハルピン→チチハル→北京→札幌



 北海道〜黒龍江省友好提携10周年事業として、産業・教育・文化・スポーツなど様々な分野の交流の節目となる1996年、堀達也北海道知事を団長とする200名からなる親善訪問団が、中国北方航空の2機のチャーター便で札幌からハルピンへ直行した。文化交流の洋楽部門で参加したのは、我々「好朋友」グループ。ハルピン市とチチハル市で合計4回の公演を開催した。



2003年3月 友人の結婚式出席で北京へ


札幌→成田→北京→成田→札幌



 92年に北京で知り合い、96年にやはり北京で再会した阮薇から結婚式の招待状が届いた。2月28日ギターを担いで全日空の国際便に乗り7年ぶりの北京へ出かけた。大学で日本語を習得し、JICA(日本国際協力事業団)北京事務所に勤めていた阮薇は、より美しく聡明な女性に成長していた。お相手はJICA東京本部国際緊急援助隊として内外で活躍している中根誠人氏。中国国内・日本・アメリカから友人・関係者が集まり、二人を祝福した。

 3月1日。北京の銀座 王府井(ワンフーチン)の中心にある「王府井教会」は「ヨーロッパに来ているのでは」と錯覚させられる、そんな雰囲気の教会だった。ビデオを廻しながら涙が止まらなかった。大切な妹(娘?)のウェディングドレス姿を見ているようだった。

 披露宴は、教会の隣の天倫王朝飯店(5ツ星ホテル)。会場はアジア第1の室内広場。祝宴では私のギターソロと、テノール、ピアノ演奏があり、クラシックコンサートの様であった。

 JICA北京事務所のフラメンコダンサーの伴奏にも挑戦した。半月前に演奏ファイルを送信し、当日が初対面・・・ぶっつけ本番だった。中国ではまだフラメンコがあまり普及されていないが、新鮮な感覚で喜んでいただけた。



 


結婚式の超ダイジェスト版ビデオ

(AVI)

ファイルの容量が大きくなるため小さな画面でUPしています。
近々、より鮮明な画面をUPいたします。


 のんびり北京を散策し、11年ぶりに会った北京の友人と美食を堪能してから帰国すると、周りの人たちに「奇妙な病気が流行っているらしいけれど大丈夫だった?」と聞かれた。SARSのことだった。北京市民の殆どがマスクをかけ始める直前の帰国だった。