→ 目次特集季刊「雲遊天下」単行本CD/読者/情報・後記

雲遊天下第24号本文より

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<今号の昼寝=Siesta on This Issue>
「ブエナビスタソシアルクラブ」
前文
 電話の相手は言った。「あんなふうに年をとっていきたいもんです、ほれぼれします。長生きはするもんですね」と。確かにそうだ。お互いにね、アミーゴ。
 この世界的ヒットを続ける音楽と映画に今回は挨拶しよう。なにしろとびきり愉快な物語がある。彼らは甦ったし、想像もできないような高齢。革命神話には事欠かない国の人たちだ。カリブに浮かぶ島、めくるめくラテンのリズムに満ちあふれ、楽天的で情熱的で…
 しかし、社会の理想を目指した人々も革命とともに老い、理想の楽園は進歩と競争の波にさらされる。かつてのスターもまた苦節の時があった。
「彼らの音楽と彼らの人生、歴史は切り離して語ることはできない、彼らの音楽から伝わる情緒、深みは彼らの人生に満ちている」(ヴェンダース)
 彼らの歌声は艶を増し、踊りはじめる。
 我々の国で30年以上歌を作り歌い続けている人たちを思う。聞き続けている人たちを思う。これから生まれる歌を思う。生涯に、口ずさめる歌をもって、日常の暮らしの中で、夏の太陽の下で、歌い続けることができるなら。

日賀志良子「ハバナの香り、ミナミの夢」
 大阪のミナミにかつてメトロという名のダンスホールがあったのをご存知であろうか。私がそこを訪れたのは後にも先にも一度っきり。あれは確か昭和の終わり、1987年頃のことだったように思う。当時既にうらぶれたキャバレーか閉館寸前の映画館のようなたたづまいであったそのダンスホールは心斎橋筋から宗右衛門町を東へ、風俗店などが立ち並ぶネオン街を抜けて堺筋に出る少し手前にひっそりと建っていた。しかし、そうした外観とは裏腹に内部にはまるで体育館のような巨大なすり鉢状の空間がポッカリと口を開けており、その中央には板張りの広いダンスフロア。また、頭上には全長3メートル、最大直径1・5メートルはゆうにあろうかと思われる超特大のシャンデリアが燦然と輝いている。更に、ダンスフロアを半円形に囲む一段高い位置には皮張りのソファとテーブルが並んだボックス席。ダンスフロアをはさんだその向かい側にはビッグバンドが陣取るに十分な立派なステージまでが設けられていて、その激しくレトロ、まさかにゴージャスな雰囲気に一瞬にして圧倒されてしまったのである。
 おりしもバブルの波が押し寄せていた80年代も後半。ミナミのド真ん中にこんなバカでかいユニークなスペースが残っていること自体、信じられない気がしたし、当時音楽関係の仕事をしていた私はこんな場所がコンサート会場として使えたら…と考えるだけで興奮した。けれど、いざ、この場にふさわしいバンドやミュージシャンとなるとこれがどうにも思い浮かばない。頭の中であれこれ列挙してみるのだがかろうじてサマになるのはプリンスくらいで、後はこの場の特異な雰囲気に似合わないか、太刀打ちできない気がしたのだ。あれから十数年、このメトロのことはほとんど完璧に忘れていた。ところが、ここ数年のラテンミュージック、なかんづく、キューバ音楽の盛り上がりとともに再びあの懐かしい空間が記憶の彼方から甦ってきたのだ。
 ここ数年欧米を中心に熱いブームを巻き起こしているというキューバ。そのきっかけはアメリカのミュージシャンズ・ミュージシャン、ライ・クーダーのプロデュースにより'97年にリリースされたグラミー・アルバム『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(BVSC)と、それに続く同名ドキュメンタリー映画の世界的な大ヒットによる。かくいう私自身もこのBVSCプロジェクトを通して初めてキューバに足を踏み入れたパンク出身者であるからしてアルバム『BVSC』を手にした動機も最初はただただライがらみ。まるでコロンブスがキューバを発見したように、インディ・ジョーンズが秘境の埋もれたお宝を探し当てたかのように、私の音楽水先案内人でもあるライがかつてキューバ音楽の黄金時代を築き、その後何年も忘れ去られていた老ミュージシャンを見つけ出してその素晴らしい音楽を広く世界に紹介した──そんな話を耳にしてのことだった。そしてその結果は? というと、これまでライを通してフラコ・ヒメネスやギャビー・パヒヌイ、喜納昌吉といったお宝にめぐり会えたようにまたしてもライの向かうところハズレなし。心地よい胸騒ぎをおぼえる流麗なソン(キューバの大衆音楽の根底を支えるアコースティックなルーツミュージック)の調べや、とりわけ天から降りてくるような御歳70になろうかというソネーロ(ソンの歌い手)、イブライム・フェレールの艶やかなゴールデン・ヴォイスにもうコロリとやられてしまったのだった。(以下略)

郭早苗
「映画鑑賞…ラスヴェガスをやっつけろ、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ、海の上のピアノ」

 2000年3月14日の朝、卒業式が行われる兵庫中学校の体育館へ向け、大急ぎで自転車を走らせた。
 昨年末以来、長男が学校から配布された一切の書類を見せなくなっていたため、その日執り行われる式については開式時間も知らないままだった。「今日、来るん? 卒業式やで。ボク、9時集合やから、もお行くで」とめずらしく声をかけてきてから長男は家を出た。列席を拒まれなかったと了解し、ドアを閉ざす音が響いた後、二女を連れ、慌てて出発したのだった。
 門柱に「卒業式」の看板が立て掛けられた体育館前には、白ネクタイを着けたスーツ姿の教頭が立ち、「おめでとうございます。ほんま、ええ天気になりましたね、ちょっと寒いけど。まだ、父兄の方は誰も入ってませんよ。30分前くらいにならんと」、と一番乗りの私達に向かって言った。手にしたカメラへ気を止めた彼の、「一枚、撮りましょか?」との申し出を受け、二女と看板脇に並んだ。ほぼ3年前、同じ会場での入学式の日、二女は臨月を迎えた私の体内にあり、桜の花びらが舞い散る中、長男と門柱の看板を挟んでカメラの前に立った。時を経て、長男との記念写真はもはや望めそうもなかった。
 隣接した小公園で二女を遊ばせているうちに続々と人々が集まり出し、開式の25分前に会場へ入った。壇上正面には日の丸が掲揚され、中央の卒業生席は教師席とPTA・来賓席に左右から挟まれ、保護者席は卒業生後方の在校生席の左右に分かれていたが、その右側は兵庫中学校に併設された夜間の北分校のためのものだった。
 保護者席の壁際最前列を選び、パイプ椅子に座ってしばらくすると、学年主任の教師がマイク前に立ち、卒業生入場時の盛大な拍手の要請など保護者向けの簡単な事前指導と、2日後に実施される公立高校入試関連の報告を行った。すでに併願での私学合格を果たしている者がほとんどで、進路決定していない生徒は皆無に近いと、誇らしげな語り口だった。
 受付で配布されたリーフレットを開くと、学事報告欄には卒業生数などと3月1日現在の進学状況が載っていた。学年主任は、校長の強い管理のもとに担当の教師達が全力を挙げた結果、全生徒が希望の進学先を確保したと言い切ったが、新聞発表によると公立高校の合格率は99・6%で、彼の断言に問題はない。卒業式当日に進路が決定していないのは、北分校の夜間中学生を除いた146名中のただひとりに過ぎない。私学入試を失敗した上、公立受験を拒むという異例の行動をとり、公立発表の結果次第で若干名募集を行う或る私学の、二次試験を受けると決めた私の長男だけだった。
 定刻に拍手の渦の中を卒業生達は入場し、順次着席していった。最後のひとりが腰を下ろすや、ピアノの合図とともに全員起立の号令がかかり、北分校卒業生である車椅子の男性以外は、すべての者が席を立った。まず、式次第に従い、開式の言葉が教頭によって述べられ、その直後、着席の指示もなく、いきなり「君が代」斉唱という運びになった。(以下略)

豊田勇造「歌旅日記…夜を重ねて」
 2000年1月1日 京都
 元日になる瞬間はヒヤッとしたけれど、無事2000年になってひと安心。
 正月三が日は、例年どおり昼から酒を飲み、ラジオで落語を聴き、映画を観に行き、本を読もう。今年の正月に読むのは、去年50才の誕生日プレゼントにもらった『山之口貘全集』。
 1月29日 大阪・京都
 大阪へアニ・ディフランコを聴きに行く。スピード感のあるすっきりしたライブでとっても良かった。
 帰り道、一緒に行った森君が、「実は昨日どんとが亡くなってね。ついこの間、ライブへ行って、打ち上げで話したばっかりで、報せを聞いて今朝からずーっと落ち込んでたけど、ちょっと気持が楽になりました」とつぶやいた。
 家族でバカンスを楽しみに行ったハワイで亡くなったそうだ。どんととは少し交流があったから、森君の話を聞いて、いっ瞬ぼぉーっとしてしまった。
 ぽつり、ぽつりと、どんとの話をしながら京都まで帰り、<拾得>に寄って、又、どんとのことを話した。
 「2年ほど前にね、この拾得で、どんとと連れ合いの小嶋さちほさんが、もと奄スま鰍フ柳原陽一郎君とでライブをやってね。招待してもらって聴きに来たんやけど、えらいええライブやったんでCD買うたら、あれっ、勇造さんが買うてくれるの! て喜んで、サインしてくれてね」
 「ライブの後この2階の楽屋で話したんや。どんと、勇造さんのハッパの歌が大好きやと言うてたなあ。拾得でバイトしてた時に、俺のライブを聴いてたんやて」
 「その日のライブのアンコールは、友部の『びっこのポー』やった。シリアスで、複雑であんな長い歌を、若い女の子達が多いお客の前で、どんとは最後まできっちりうたうんや。どんとがうたうのを、目を閉じて聴いてたら、遠い遠い所へ運ばれて行くような気がしたなあ。どんとて、実力のある人やったよね、格好ええ男やったよね……」
 結局あの夜の『びっこのポー』が聴きおさめになってしまった。けれどもあの夜のあの1曲は、俺が今までコンサートやライブで聴いて来た歌の中で、ワン・オブ・ザ・ベスト・シンギング。
 どんと! いい歌を、心から、ありがとう!
 2月13日 スペイン・サンタクレウスの村
 はじめてヨーロッパを旅している。
 まずはローマで、バチカン美術館を見たり、古代遺跡を巡ったり、のみの市へ行ったりした後、バルセロナへやって来た。
 バルセロナはスペインの東北部、カタルニア地方の中心都市。地中海に面した、古代ローマ帝国時代からの貿易港で、商工業の中心地。
 街の大きさも住んでいる人の数も、京都ぐらいとのこと。ここでは昔から、自由と独立、芸術を愛する気風があると言う。
 街のあちこちで、朝も昼も夜も、老いも若きも人目を気にせず恋人達が、身体を強く抱きしめ合って長ーいキッスを交わしているのに、つい目がいってしまった。
 バルセロナには、古くからの友人の井汲三郎君が住んで居て、「スペインは村がいいよ。何んにもないけどね。帰国するまでにぜひ一緒に行こうよ」と誘ってくれて、昨日から、サンタクレウスの村へ来ている。
 「勇造君、朝ですよー」
 井汲君の陽気な声で目が覚める。
(以下略)

森下ヒバリ
「匂いのある町角…ルワンパバーン再訪物語」

「うっ、美しいじゃないか…」
「あああ…」
 夕日がゆっくりと川の向こうの山に近づき、川面はなんともいえない色に変化していく。わたしは冷たいラオスのビール、ビヤラオをぐいっと飲み干した。
「ふう〜。もう一本いく?」
「もちろーん」
 向かいに座るキムラ嬢のグラスはとうの昔に空になっていたようであった。
「こんなきれいな景色を眺めながらおいしいビールが飲めるなんて、ほんと幸せ…」
「バチが当たりそう…」
「こんなとき、お酒が飲めたら気持いいんでしょうねえ」
 と呟くサカシタ嬢。彼女はアルコールが一切駄目なのである。
 わたしたちはラオスの古都ルワンパバーンにいた。
 メコン河の土手に作られたカフェに陣取って、沈む夕日をさかなにビールを飲んでいるところである。
「はああ…」
 さっきからこればっかり。出るのは満足のうめき声ばかりであった。
 ビエンチャンでもメコン河の土手でビヤラオを楽しんだのだが、いかんせん乾季で水位が低すぎ、川はほとんど干上がったような形であまり美しくなかった。ルワンパバーンでは川幅が狭いのかまだ水もたっぷりと流れ、あたりに景観問題となるような建物もない。
「ちょっとおなか空いてきたね」
 わたしは店の他の客をちらりと眺めた。わたしたちの他は全員白人ツーリスト。
「うーん、大丈夫かな。ラオ料理あるかな…」
 ラオスが九四年に全国の町を旅行者に開放し、タイのノンカイとビエンチャンとの間に橋を掛けてから外国人旅行者はゆっくりと増え続けてはいたが、今年からビザ代金を三十ドルに値下げした効果かビエンチャンもルワンパバーンも白人旅行者の姿が一気に増えている。
 ビエンチャンには一、二年に一度は来ていたが、ルワンパバーンに来たのはかれこれ十年ぶりで、しかも前回の時は町は開放されていなかった。観光客はほんの数人しか見かけなかったから、ルワンパバーンに関してはとんでもない増加率である。
 ヒバリの中ではラオ料理というのはかなりランクが高く、『ラオスに行きたい…』というのはビエンチャンでビヤラオと一緒においしいネームが食べたい、ピンガイ、ラオスふうフランスパンのサンドイッチが食べたい…、などということと同義語なのであった。ちなみにネームとは、ごはんをコロッケにして揚げたものを潰してネームという豚の半生ソーセージみたいなものと混ぜ合わせたのをレタスにのせ、さらにミントやらバジルやらバナナフラワーだのパクチーだののハーブをたっぷりのせて包み、いただくという大変美味な料理である。ピンガイはタイのガイヤーン、つまり鶏肉をスパイスに漬けてから焼いたもの。タイのガイヤーンもうまいがラオスの鶏はその辺をバタバタ走り回っている地鶏のせいか、とにかくうまみが違う。
「客がほぼ白人というのは危険なパターンですね…」
 わたしたちはビエンチャンで一度たいへん悔しい目にあっていた。二日目の夕食に噴水のほとりにあった、崩れかけた洋館を改装した半分オープンエアのレストランに入った。(以下略)

武本睦子
「ポルトガルのえんとつ─水道タンクのまわりでは…」

 わが家のすぐ下には水道局の丸くて巨大なタンクがあり、毎日二十四時間ゴーゴーと音を立てて町じゅうの家庭へ水を送り出しています。
 コンクリートで作られたタンクの屋根は平らでちょっとしたグランドほどの広さがあるので、近所の子供たちがやってきてフットボール(サッカー)の練習をしたりします。というのも周りはどこを見ても坂道ばかりでまとまった空き地がないので、水道タンクの屋根の上は彼らにとって格好の遊び場所なのです。
 でも遊びに熱が入り過ぎて大騒ぎをしていると、それに気づいた水道局のおじさんが事務所からのそりと出てきて、子供たちを追い散らしてしまいます。
 しかられた子供たちはすごすごと帰り支度を始めますが、水道局のおじさんの姿が見えなくなると、またぞろぞろとタンクの上によじのぼってフットボールの続きをやり始めます。おじさんは一度注意すると後はめったに出てこないのを、彼らはよく知っているのです。
 子供たちがフットボール遊びに夢中なのと同じくらい、大人たちの関心もプロのフットボールの試合です。どこの街にもフットボールチームがあり、それを応援するファンクラブがあります。セトゥーバルは“ヴィットリア”というわりと強いチームで、試合のある日は朝からスタジアムの前は浮き浮きしたおじさんたちが携帯ラジオを片手に持ってうろうろしています。
 水道局のおじさんも、ひょっとしたら未来の名プレーヤーが出る可能性のある子供たちの遊びに、密かに期待しているのかもしれません。
 子供たちの背丈はさまざまです。小学校の低学年から大きな子は中学生ぐらいでしょうか。声変わりの始まった野太い声や子供らしいかん高い声を張り上げて、日がとっぷりと暮れるまでボールを蹴り続けます。
 ゴールの目印はそこらで拾ってきた石です。それを両方の陣地に置いて、その前にゴールキーパーに指名された子供が構えます。最初は緊張して立っているのですが、ボールはなかなかこないのでだんだん気がゆるんでしまい、しゃがみこんだり、たまたま近寄ってきた猫をかまったりと、のんびりしたものです。
 青いヴィヴェンダ(平屋)に住んでいるジョッコも時々やってきてみんなの遊びに加わります。でも彼はあまり上手ではないので自分の所にきたボールをとんでもない方向に蹴ってしまって、ボールがタンクの屋根から場外に落ちることがしばしばです。そうなるとゲームは一時中断して誰かが屋根から降りてボールを拾ってくるまで待たなければなりません。それが二度も三度も続くとみんなから文句が続出して、ジョッコはゲーム戦線離脱です。
 ひとり弾き出されたジョッコは何を思ったのか、下に置いてあった自分の自転車をかなり苦労して屋根の上に引き上げました。
 水道局の平屋根は土地の傾斜を利用して建てられているので、片方は地面から一メートルほどもない高さで、もう一方は五メートル以上もあります。しかし低い方からでも自転車を一人で持ち上げるのは大変なことです。ジョッコは十二才ぐらい、でもかなり小柄なのです。
 それから何をするのかと見ていると、彼はみんなが遊んでいる周りを自転車に乗ってゆっくりとジグザグに走り始めました。彼としては、こぼれ玉を自転車で追いかけたら速いだろうと考えたようです。でもせっかくの考えもみんなから無視されて、ジョッコは飽きがきたのかすねてしまったのか、また自転車を屋根の下に降ろして、どこかへ行ってしまいました。(以下略)

友部正人「バスの止まる音を聞きながら」
 年末年始のニューヨークは、ぼくが見たいようなライブは何もやってなかった。だから今回ぼくたちが行ったのは一つだけ。年末に三日間、ボトムラインでミシェル・ショックトのライブがあった。しばらく新譜を出していなかったので、どんなライブをするのかと思ったら、十一月の下旬から約一ヵ月で書き上げた三十曲の新曲を披露するのだという。二十九日はその一日目で、ぼくたちはその最初のショウを見に行った。ボトムラインは真ん中に柱が何本もあって、遅く行くと柱の陰になってステージが見えないような席しか残っていない。だからこの日も早めに行き、最近よく飲むイギリスのバスというビールを飲みながら待っていた。
 ミッシェル・ショックトは、よく動く子犬みたいな女の人で、ローリング・ストーンズにいたブライアン・ジョーンズのような髪形をしていた。ひょろっとした体を白いシャツで上品に包み、か細い声で精一杯歌う姿はまだ声変わりしていない少年のようで、時折観客も戸惑う程子供っぽいことをしたりする。だけど歌は結婚もしている大人の人のもので、たまに理解できる歌詞にじーんとしてしまう。ちゃんと経験を積んだ人の言葉だ。ぼくたちは三十曲のうちの半分を聞いただけだったが、その中に一つとして同じタイプの曲はなく、フォークやブルースやソウルやパンクやレゲエやヒップホップやゴスペルが、弁慶が橋の上で奪った剣のようにステージをにぎわせていた。レゲエっぽい曲でにぎやかに始まったコンサートは、フォーク調の子守歌やファンクぽいインストルメンタル曲を経て、最後にゴスペルまで登り詰めた。旧約聖書の中の詩篇を歌ったり、軌道を巡る太陽や月のように休むことなく創造し続けることの素晴らしさを讃えたり、その夜のパフォーマンスのすべてはゴスペルにつきるのではないかと思えた。予想もしなかったゴスペルに戸惑いがあるかのように、観客はなかなかステージと一体になってリフレインを歌おうとはしなかったが、ミッシェル・ショックトは本物の教会のピアニストの参加を得て、バンドと一緒に高く空に登り詰めようとするのだった。バンドの名前はフィロソファー・キングズで、ギターは元ホットハウス・フラワーズの人だった。ぼくたちが聞いた曲はどれも良くて、その夜のライブ盤が出れば最高なのにと思った。
 大晦日のカウントダウンの人出は二百万人と予想されていた。警察はそれだけの人を収容できるように、シックス・アヴェニューとエイス・アヴェニューの間の、三十四丁目からセントラルパークまでを閉鎖して、車が入れないようにした。ぼくたちはインドが新年を迎える午後二時ごろに四十七丁目あたりまで行ってみた。そのころはまだ群衆はそのあたりまでで、まだしゃがんだり寝ころがったりということができた。家族連れの人たちもみんな手ぶらで、気軽に来たという感じが漂っていたのに、瞬く間に大勢の人が集まりだして、あっというまに身動きがとれなくなってきた。ぼくたちは一番しんがりだったが、いつのまにか群衆の真ん中にいて後ろからぎゅんぎゅんと押されていた。このままではトイレに行くこともできないと、ぼくたちは脇に出て地下鉄に乗りアパートに帰ることにした。ところがたった十メートルもないところにある駅にもなかなかたどり着けない有り様で、あの場に残った人たちがいったいどうやって真夜中のカウントダウンまで元気でいられたのか不思議でしょうがない。タイムズ・スクエアーには、酒類はもちろん持ち込み禁止である。(以下略)

鵜戸口哲尚 「詩<路面電車>」
(チャールズ・ブコウスキー作)
短編集『老いても酔いどれてパンク』より(2000年秋刊行予定)
CHARLES BUKOWSKI "SEPTUAGENARIAN STEW"
はじめに
 本誌前々号及び前号に二分載した極めて完成度の高いポストモダンの名短編「ぐうたら人生」と、今号で紹介する詩「路面電車」を含む原著は、ブコウスキーの最後の短編二一編と七九編にも及ぶ詩をまとめ、七〇歳を迎えて発表した作品集『老いても酔いどれてパンク』から紹介したものである。
 短編は、いずれも実験的手法を重ねて、短編作家を自負するブクの力量を遺憾なく発揮した名編となっている。また、詩は明らかに評価に戸惑いが見られるが、それは故なきことではない。ブクは一九五五年頃から詩作に入ったが、この時既に三〇歳代半ばである。フォークナーは「詩を書くには一七歳から二一歳までの年齢がもっともふさわしい」と語ったが、この観点から見ればブクはすっかり薹が立った年齢から詩作を始めたことになる。「二、三夜ものを書かないでいると無味乾燥さに耐えられなくなる」というブクは、その後、四〇年ほどの間に少なくとも千五百編以上の詩を書き遺している。
 ブクのこの量産ともいうべき詩作態度は、一九五〇年代に再評価されて圧倒的影響力を保持していたモダニズムのそれとは対蹠的である。何世紀もの間、詩人たちがほとんど詩のテーマとしなかった生活の側面を意図的に詩のテーマに取り入れようとしている。その上、詩型は驚くほど多様である。つまり、ブクは何よりも「生きるために」詩を書いたのである。
 円熟の短編群と、今後評価が開始されるべき詩群を絶妙に織り混ぜた晩年の作品集『老いても酔いどれてパンク』の邦訳書を、今秋には読者のお手元に届けたい。(鵜戸口哲尚)

中川イサト「ドイツコンサートツアー日記(後編)」
'99.11.17 オスナブルック→トロイスドルフ
 今日はドイツ中部にあるトロイスドルフという町でコンサートが行われる。ケルンの少し東南にある小さな町だ。
 昨日は丸一日のんびり出来たので、なんとなく身体が快調である。
 午後の2時過ぎにオスナブルックを出発し、5時前にはトロイスドルフに到着した。
 会場は多目的ホールというか、大小いくつかの部屋で構成されている変わった建物で、そのうちの中ぐらいの部屋が今夜のコンサート会場になる。
 サウンド・チェックが6時半頃に終わったので、皆で揃って食事に出かける事になった。たまたま町の繁華街を歩いているとエリックがターキッシュ・レストランを見つけ、そこで今夜の夕食はトルコ料理という事に決まった。僕は今までトルコ料理というものを食べた事がなかったのだけれど、これがなかなか美味しいのである。僕の注文したのは鶏のカバブ料理で、香辛料タップリのその味は思ったほど辛くなく、インドのタンドリー・チキンとはまた違った初めて味わう料理であった。ピーターはラム肉のカバブ料理を注文し、いつもの事ながらビールを飲みながら黙々と食べていた。エリックはヨーグルト・ソースのかかった不思議な料理を注文しこれはいけると絶賛していたけど、僕の見た感じだとあまり美味しそうには見えなかった。ところで可哀想なのはトーマスで、彼はベジタリアンなので肉料理が全く駄目なのである。しかたがないのでパンとサラダだけを食べていた。けど本人は平気というか、あまり食べ物に関しては気にしていないようで、いつもメニューを見て肉や卵の入っていない料理を食べていた。
 ところで話は変わる。ドイツには“ホーナー”という有名な楽器メーカーがあるんだけど、特にここのハーモニカは世界的に知られている。楽器店を覗いてみて驚いたのだが、このハーモニカをディスプレイしているスペースの何と広いこと。そしてその種類の多いことにびっくりしてしまった。大きな物から小さな物、また音色も多種多様、それこそハーモニカというリード楽器だけでオーケストラが作れる位、沢山の種類がところ狭しと並べられている。さすが職人の国というか、一つの物に対してとことん拘るという姿勢が伝わってくる。近年は、よりコストを下げる為にオートメーション化された工場で作られているようだが、一昔前は全ての作業が熟練した職人達の手作業によって行われていたという。僕はこの職人の世界がとても好きで、まさに手作りという気がする。同じものが同じでないのだ。自分の音楽もそうありたいといつも思っている。生身の人間が演奏するのだから、同じ曲を演奏しても毎回どこか違って聞こえて当たり前のことなのだ。だからこそ、そのアーティストの個性というものが大切になってくる。またそれが存在感というものに繋がってゆくんだと思う。
 コンサートは8時にスタートしスムーズな流れで11時前に終了した。ただし、これからオスナブルックに帰らなければならないのだ。多分着くのは深夜の2時頃になるだろう。
 Here we go!(以下略)

木村聖哉
「故人追想…浅野翼という大プロデューサーありき」

 生け花の未生流中山文甫会事務局長だった浅野翼さんが急逝されて、およそ一年経つ。
死去したのは平成十一年四月二日(金)。昼間事務所へ顔を出し、その夜自宅マンションの洗面所で倒れ、そのまま逝った。
 発見されたのは月曜日である。服装は事務所へ来たときのままで、周りにコンビニで買った食べ物が散乱していた。心不全だったという。享年七〇。
浅野さんは三年前、華道家で最愛の妻・中山尚子さん(中山文甫会副会長)をガンで亡くし、ひとり暮らしだった。会誌『現代挿花』に毎月「アフタヌーン・ティー」というエッセーを連載しておられたが、妻を失った後はすっかり憔悴し、痛ましい感じがしたものだ。
 その哀しみがようやく癒された頃に訃報が届き、私はショックだった。まだ死ぬほどのお歳じゃないと思ったからである。
 死は生と隣り合っていて、予想もしない時に、突然やってくる。待ったなしである。ガンではすぐに死なないが、心不全や脳卒中あるいは転倒、事故などでアッという間に逝ってしまうことが少なくないのだ。浅野さんの場合もそうだった。

略歴を見て、浅野さんが“東京生まれの東京育ち”だということを初めて知った。私はてっきり関西人だと思い込んでいたが、昭和四年東京生まれ、同二十四年文化学院文学部卒とある。
 文化学院は大正十年西村伊作によって創立された個性と自由を尊重する文科系のユニークな学校である。神田駿河台にあり、かつて歌人の与謝野晶子や詩人の佐藤春夫ら多くの文学者が学院で教鞭を執っている。数年前、私はここの講堂で加藤周一氏の講演を聞いたことがある。 
 そういえば、浅野さんは大阪弁もしゃべったが、基本的には東京弁だった。照れ屋で、お洒落で、モダンなセンスは泥臭い大阪人のものではなかった。
聞くところによると、浅野さんは若い頃は小説家志望で中村真一郎さんのところへ出入りしておられたとか。父親は彫刻家の浅野猛府で、レーニン像を作った人として知られる。だから芸術家の血が流れていたのだろう。
浅野さんは昭和二十五年に東映京都撮影所の演出部を経て、創立間もない大阪労音(会員制の音楽鑑賞団体)の事務局に入った。
 「よい音楽を安く、より多くの人に」を合言葉に、労音は若い勤労者の間に急速に普及し、その波は大阪から全国各地へと広がっていった。
浅野さんは企画制作の中心人物として、斬新で意欲的な舞台、ステージを作り続け、大阪労音の黄金時代を築いた。
特に浅野さんが積極的に取り組んだのは“創作ミュージカル”である。当時(今も基本的に変わっていないが)、東宝や宝塚歌劇などに見られるごとく、日本で上演されるミュージカルはほとんどが舶来のバタ臭い輸入品だった。
 それは日本の若い勤労者の生活実感とはズレていた。これではいけない、もっと日本の風土から生まれた和製ミュージカルを創ろうと、浅野さんらは若手の音楽家や作家たちと協力して“綜合芸術”としてのミュージカルづくりに挑み、次々と話題作を制作した。(以下略)

田川律「祖父黄鉄を訪ねる旅」
 やっと重い腰をあげて出かけた。といっても韓国へではなく、栃木県の佐野市へである。そこの図書館に「須永文庫」と呼ばれる一連のかつて日本にいた韓国・朝鮮の人たちが残した作品、詩や絵画などが所蔵されているからだ。祖父が日本にいた当時、というから1900年の10年代だろうか、須永元という人がいて、彼は当時韓国・朝鮮の人たちにきわめて友好的で、彼らの面倒をさまざまな形でみていた。こと祖父に関していえば、祖父が描いた書画を日本の好事家たちに頒布することをしてくれていた。つまり祖父にとってはマネージャーみたいな仕事をしてくれていたわけだ。もっとも母にいわせると、そのためか祖父が死んだ時には、祖父の画業に関するものいっさいを持っていってしまったという。それもあって、わが家には祖父のものはほとんど残されていなかった。須永元は戦後すぐに彼が持っていた多くの芸術品をすべて佐野図書館に寄贈したという。それが「須永文庫」なのだ。
 すでに10年以上も前にいちど訪問したが、当時はまだ整理がすんでないということで閲覧が許可されなかった。それからもう随分歳月が経ったことだし、と韓国へゆくまえにまずは出かけたのだ。
 東京からは、浅草から東武鉄道の特急に乗って、まず館林までいく。この町どこかで聞いたことがある、と思ったら、かの「しょっ、しょっ、しょじょじ、しょじょじの庭は」で有名な「狸囃子」の茂林寺がある町ではなかったか。そこに隣接する佐野市は広い平野の真ん中にある。もうひとつ有名なのが渡良瀬川だ。なんで有名なのか? しかし降り立った町は、なんの変哲もない、日本の小都市のひとつだ。歩いて10分、今のぼくにはちょうどいい距離だ。
 「じつは東京から来たのですが、須永文庫を閲覧させてもらえないかと思いまして」。
 受け付けで恐る恐る申し出たら、
 「どうぞこちらへ」と、事務所の中に招かれた。この前の時はそうカンタンではなかった気がする。それだけ整理も進み、文庫の存在も周知されるようになったのか。あとで気がついたが、じつはもう10年近く前に、「須永文庫」に属する書画の展覧会がここで開かれていたのだ。ということはぼくが訪れたのはもっともっと前、ということになる。その時は図書館も近く改装されると聞いたが、なるほどとてもきれいになっていた。たいていの人と違ってぼくはこれまであまり図書館を利用したことがない。理由はさだかではない。わずかに大学受験のために浪人中に、大阪中之島の図書館をよく利用したことはある。しかしそれはあくまでもそこで受験勉強をするためだった。だから本来の目的ではなく、したがってどんな本があるか、などはどうでもよく、ただ無料で勉強できるスペース、としてもみ使っていた。
 それが比較的最近になって、そこそこ利用するようになった。ひとつには本の値段が高くなったこと。そのためにいわゆるミステリもそうそうかんたんに買えなくなって、それなら図書館で借りたら、と図書館にいくようになった。いざ行ってみると、とてもかんたんな手続きで本を借りられる。それならと、今度は急に図書館贔屓になって、東京で日比谷図書館と四谷図書館のカードを持っている。なぜ住んでいる杉並区ではないのか。たんに日比谷はたまたま歩くことを楽しんでいるときに日比谷公園の中でめぐりあったからで、四谷は新しく建てられたビルのうえの方の階に劇場が出来てそこへコンサートでいった時、時間があってどうしようか、と思っていたら、すぐ下の階に四谷図書館があった。ここでも生き方そのものみたいなカード作りという気がしないでもない。もっともいざ利用するだんになると、自宅や仕事場から離れていると案外不便なのも事実だ。だから日比谷へはめったに行かないし、四谷も初めはこないだ出版した「シンガー・ソングライター」の出版社が近くにあったので、ついでに随分寄ったが、それが終わってしまうとまたいささか疎遠になっている。それでも昔ほど図書館とは縁遠くないので、こうして佐野市まで来ても、なにか親しみを覚えたりする。(以下略)

光山明美「Blue River」
  8
 アーケードの隙間から射しこむ夕陽の残滓が路上に陽だまりを作っている。通りに向いて座っていたわたしは、外を眺めていた。漂う埃を巻きあげながらきらきらと光が踊っている。
 「聞いてんのか!」田中が声をあげた。ヒマな学生と安月給のサラリーマンで混む時間にはまだ早い。厨房の男が顔をあげた。
 わたしは厨房の男に、困惑と謝罪を混ぜた曖昧な顔を向けた。そして目の前の男に、うるさそうに言った。「聞いてるやろ」
 田中が唾を飛ばして喋っていたのは、最近出版された、おそらく今年のベストセラーになると言われる本についてだ。著者と田中は同級生だった。田中は、身を削るようにしてできた一行のムダもないその本の内容より、著者について語った。学生時代の彼がどんなだったか、出自のコンプレックスをどう跳ね返して今に至ったか、概ねそんな話である。「大まじめに活字の力を信じとるんやな」
 わたしは、田中の友人に対する斜に構えたものの言い方が気になった。堂々めぐりを繰り返す彼の話にうんざりもしていた。「ほめるんやったらちゃんとほめたったら?」
 わたしのことばに田中は、持っていたビールのグラスを音も高らかにテーブルに戻し、そして言った。「わかったようなことを言うな!」
 わたしを睨みつける両方の目が敵意に縁取られて光っていた。すっかりできあがっている。のれんを出してまもない時刻からここに座って、二時間になる。ちびちびとお茶を飲み、氷をかじっているわたしをよそに、ひとりで飲んでいるのだから当然だろう。
 「貧乏人が気取りやがって」水っぽくなった冷ややっこと一緒に、居酒屋のテーブルに広げられていた崇高な芸術論がいっぺんに色あせて、本性がむき出しになった。このお金持ちのぼんぼんは、どうやらわたしが対等にものを言うのがお気に召さないらしい。「聞いててんやったら、俺が何の話をしてたか、言うてみ」
 「自慢話やん」
 わたしのことばに田中はテーブルに手をついて、立ちあがろうとした。「なにぃ?」
 「だから自慢話やって言うてんねん」わたしは目の前の男に一瞥をくれて繰り返した。なんぼでも言うたろやないかい! こむずかしいことばを使って婉曲な言い回しをしているが、田中が言いたいのは世の中への不満を装った自慢話でしかない。ちょっとした小金持ちの家に生まれたせいで、名の通った大学を出たせいで、器用なせいで、自分のやりたいことができない。そんなようなものだ。財産も学歴もない不器用なわたしが、そんな話に共感できるはずがないのだ。やつは愚痴をこぼす相手をまちがえた。
 「何もわかってないな」誰も知己などいない居酒屋で、舌打ちをする田中は、酔ったときの父と同じだ。酔っぱらって饒舌になる者など、みな似たようなものかもしれないが。(以下略)

山田塊也
「なんでもありの世紀末…なにがあっても驚くな!
 …再びさらばふるさと」
 
 ビッグ・マウンテン行進団と入退院
 世紀末の激流に呑みこまれた人々の運命が、木の葉のように有為転変する中で、ぼくもまた大麻事件やインデァン運動の大波に見舞われながら、21世紀に向けて怒濤のように押し流されている。何があっても「偶然ではないのだ」と、おのれに言い聞かせながら。
 一九〇〇年代最後の大晦日は、両面スクナゆかりの千光寺のログ・キャビンで、ビッグ・マウンテン行進団の結成パーティが催された。
 師走に入ってから、予定を一ヶ月も早め、正月元旦に位山を出発し、タイム・リミットの2月1日までに、ビッグ・マウンテンに到着するという強行スケジュールを採ったにも関わらず、40名以上もの参加者がいるのを見てホッとした。
 急なことだったので、大晦日に集会と宿泊のできる場所を探すのは大変かと思ったが、ぼくの代わりにオーガナイザーを担当してくれた「茗荷屋」の大原加代子さんが、タイミング良く千光寺の大下大円和尚と連絡が取れ、和尚の曰く「スクナ様の思し召しによって」、ログ・キャビンが借りられたのだ。
 飛騨盆地の北方にある袈裟山千光寺は、真言宗の名刹だが、仏教伝来以前に当地を開いたのが、郷土の英雄両面スクナだと伝えられており、千光寺にはスクナ像が祀られている。大円和尚によれば、両面スクナの本拠地である位山には三代説があって初代が乗鞍岳、二代目が袈裟山、そして三代目が現位山だという。
 結成パーティにはインデァン・ソングが出たので、ぼくもシヴァのマントラを唱えた。料理もたっぷりで和気あいあい。一行はこの後千光寺の越年行事に参加したが、ぼくは大鹿村のアキとボブと共に、家に帰って横になった。風邪は引いていなかったが喘息が悪化し、神経痛も痛んだ。一刻も早く入院したかったが、ビッグ・マウンテン行進だけは形だけでも参加しようと心に誓っていたのだ。
 飛騨の山々にさえ雪のない暖冬異変の正月が明け、コンピューター二〇〇〇の楽しみも何のその、元旦は薄暗いうちから位山の分水嶺に集合した。残念ながら濃霧のため、初日の出は拝めなかったが、サンライズ・セレモニーを行った後、ぼくとアキが先頭になって横長の旗の両端を持って出発した。
 その旗はぼくが製作したものだが、交差したパイプの周りに、「ザ ロングウォーク フォア ビッグ・マウンテン」と英語で書かれている。蛍光塗料を使って、ちょっぴりサイケに。
 分水嶺から南へほんの数10メートル歩いたところで行進団はいったんストップ、記念写真を撮った後、酸素吸入器と松葉杖の二人のエルダーはさっさとリタイアし、行進団に道を譲った。
 ウォーカーたちが跳ぶように山道を下って行くのを見送りながら、ぼくは長年預かっていた宝物を返納するような気がした。あるいはまた、13年前に敷いた導火線に火を点けたという気分もあった。その火は山を越え、都市を越え、海や、砂漠を越えて、ビッグ・マウンテンで大爆発するだろう。そこでぼくは、位山の“守り人”としての自分の務めが終わったのを感じた。
 「歩けば見えて来る」と言ったが、位山の分水嶺からほんの数十歩を歩いただけで、ぼくは自分が一つのカルマから解放されたことが見えて来たのだ。(以下略)

中村よお「追憶神戸ストリート…五年目の街で」
 震災から五年が過ぎた。四年目にあたっていた昨年から今年までの一年が、僕には今までになく、とてつもなく長く感じられた。震災とは直接関係なかったものの、仕事を含む僕自身の決して順風満帆ではなかった生活とその変化。そして七十年代から続けて来た、音楽やそれを支える精神、展開の仕方などの方法論がみんなが大変な思いをした時いかに有効かを身をもって示してくれた西岡恭蔵さんの死。その存在や動きがいつも僕を元気づけ、勇気づけてくれた友人たちの何人かが精神的にも肉体的にも傷つき、疲れていくことがつづいたこと…。僕自身もまたやるせない思いに囚われ、苛立ち、疲れることが多かった。
 時が立つにつれ、震災に対する個々の思いも変わる。結局、自分が震災までどうだったのか、震災のあとどうしてきたのか、これからどうして行くのかということに行き着くのだと思う。でもみんなの心がひとつになれた…と思えた時のことは忘れたくない。そんな瞬間は震災から数年がたって後も何回かあった。これから先、またあんなことがあるのだろうか。
 町はその後大きく変わった。行政が推し進める整然とした町づくりは僕をいらいらさせ、プレハブのギャラリーや居酒屋など友人たちが作る雑然とした町づくりに心がやすらぐ…と以前あるところに書いた。でもいつまでもプレハブではやっていられない。「あのプレハブが良かったのに」「立ち飲みが良かったのに」というのは不遜である。(と思う)これから先の長い時間をそこで過ごし、生計を立てていく。あの時のことは忘れたくないけれど、いつまでもそのままではいられない。
 一月十七日が、震災から三年目の一昨年、四年目の去年、と休日に当たっていた、街を歩き、旨いものを食べ、震災のあと生まれた魅力的な音楽を聞いて過ごした。夜は(安い)美酒に酔った。今年はその日が仕事日に当たっていたため、前々日の休日、十五日をそんなふうに過ごそうと決めた。
 「震災と表現」という展覧会が開かれていた兵庫県立近代美術館と芦屋市立美術博物館のはしごをする予定で、掃除・洗濯など雑用を済ませて家を出るともう昼近くになっていた。昼飯をどこで食おうか。七十年代、六甲道の東で営業していて、夜遅くにみんなでよくなだれ込んだ中国・台湾料理の店「かっぱ天国」が今は近代美術館の近くで営業しているので、最初そこへ行こうと思った。移転後何度か訪れていたものの、込み合っていて台湾独立連動の闘士だったという親父さんと言葉を交わすことはなかったのだが、震災後とにかくみんなと言葉を交わすくせがついていた頃、近くのギャラリー猫屋猫吉へ行った帰り久しぶりに寄って話をした。七十年代に友達と行った時のことをよく覚えていてくれてうれしかった。ここへ移転したのは震災より前のことなのだが、震災を機にこうして懐かしい人とまた言葉が交わせたのがうれしかった。「ほっといてくれる」のも店の大きな魅力だとかねてから僕は思っているのだけれど、でも震災のあとのこんなうれしいことを思う時、僕はやはり魅力的な店の人たちと話をせずにはいられない。(以下略)

北村和哉「春の風が吹いていたら…春一番物語」
 帝塚山にある姫松園で最初の<春一番>コンサートのチケットは作られていた。そのときのようすを福岡風太とともにコンサートを催した堰守はこう回想している。
 「七一年のまだ寒かったころやったと思うなぁ。共同の炊事場でシルクスクリーンの版を洗ってた。ぼくと春一番のチケットを作った室生ムロウさんが知り合ったんは六七、八年ごろや。室生さんと姫松園の住人でもあった落語家の笑福亭福笑さんは大和川高校の同級生やった。室生さんは姫松園に七〇年ごろから住んでいたんやと思う。室生さんはジャズ喫茶で蛍光色のペンを使って絵を描いたりしていたわぁ。ぼくはそんな経緯で姫松園に入り浸るようになっていた。風太と会ったんもきっと姫松園やわ。風太とはべ平連の活動についてよく話ししていた。それでお互いに顔見合わせて『プッ』と吹き出し笑ってたわ。そう、そう。そのころ姫松園で流行ってた流行語みたいなもんがあってな。『リャン、リャン』っていうんや。『OK!』ということやねんけど、『リャン、リャン』って、みんなよういうてたなぁ」
 風太は堰とはじめてあったのは、ミナミの喫茶店ディランであったと記憶しているが、堰は「ぼくがはじめてディランへ行ったとき、ぼくはカウンターに座って、ようこさんがおって、ピロがおって…・レコード・ジャケットがかかっていた…・それぐらいしか覚えてないなぁ」という。彼はその店で何人かのミュージシャンと知り合った。後に春一番に出演することになる人たちだ。
 「そのころのぼくは“ブラス・ロック”というのを知りはじめたばかりで、シカゴとかグランド・ファンク・レールロードとかや。ぼくはどっちのレコードを買おかと迷って、グランド・ファンクを買った覚えがあるわ。そんなん聴いてたからディランに集まるフォークの人らの演奏は誰ひとりとしてうまいと思ったことはなかった。イサトさん以外は。ただディスコに溜まるミュージシャンたちとは違うひたむきさがあった」
 堰はきっとそのひたむきさに共感を覚えながら、引き込まれるようにして春一番のスタッフとなっていったのだろう。そしてコンサート制作に携わっていくなかで、彼は「誰もやったことのないことを自分たちはやっている」のだということを自覚していく。「まだぼくはそれをすることの“メリット”ということばも知らなかったし、コンサートを開くぼくたちのことを“プロデューサー”と呼ぶことも知らなかった。たぶん、そんなことばすらなかったんだ」
 風太は堰とよく連れだって街を徘徊していたことをよく覚えている。ふたりは箕面にある風太の実家へも何度か訪れているというのだ。といってもそこへはただ寝るためだけにたち寄っただけで、その夜は姫松園がある帝塚山よりも箕面に近いところで飲だくれていたのだろう。あるいは栄養師でもある風太の母に何か食べ物をたかろうとしていたのかもしれない。そのころの食生活を堰は「タンポポの葉っぱをスープにして、姫松園の近くにある万代池のベンチでよく飲んでいたよ」と話してくれている。もちろんその葉っぱは池のほとりで用立てたものだ。(以下略)

峯正澄「<廃市>より…わが町」
 春の第一日目の午後、私はいつものように散歩に出た。ジャンパーはまだ冬物だったが、その下のセーターは、今日は脱いでいくことにした。
 自宅の前の筋を南へ。
「ぬくなったねえ」
 自転車に乗った買物帰りの婦人と、これから買物にゆく婦人が挨拶を交わす。
「ほんまやねえ」
 最初の辻を西に折れる。古い商店街とスーパーがあって、午前から夕方にかけてわりににぎわっている。大正期以来の公設市場の流れをくむマーケットもあったが、去年か一昨年に閉鎖され、この春には、建物そのものも撤去されてしまった。商店街のほうも、さほどはやっているようには見えない。にぎわっているのはもっぱらスーパーである。
 公設市場と商店街は隣接しており、買物客にとっては、それらは一体のものだった。私の子供のころ、おそらく小学校を終えるくらいまでが、その一体化したマーケットの繁栄の絶頂期だったのではないか。狭い通路に買物客がひしめく様子は、殷賑を極めるという古めかしい言葉通りの光景だった。
 子供の私は、『買物ブギ』という笠置シズ子の歌を聞くと、つねにこの公設市場と商店街のにぎわいを思い浮かべたものだ。陽気で活気があり、生の楽天性をみなぎらせた庶民が買物をする、それは現場であった。買物が、消費という概念以前の如実性を持っていた時代だったのだ。
 現在のにぎわいの中心となっているスーパーの本社のホームページを開いてみた。おもに大阪府の中南部に十数店の店舗を持つ食料品主体の中程度の規模のスーパーである。その設立は一九六三年(昭和三八)とあり、第一号店の出店は六六年(昭和四一)ともあった。設立と第一号店の出店の経緯については触れられていなかった。
 スーパーの本社が設立された昭和三十八年は、私の小学六年の年である。公設市場と商店街は、依然としてにぎわっていただろうが、かつてほどではなくなっていたかもしれない。私の近所にそのスーパーが進出した年次についても、ホームページは触れていなかった。そこで店員に尋ねてみたら、昭和四十八年 (一九七三)という答えが返ってきた。この年、私はすでに大学三年か、四年である。スーパーの出店の記憶はまったくない。近所の変化にも関心がないほど、つまり社会性をもっていなかったのだと思う。
 スーパーのすぐ東が紀州街道である。堺にはいると、この古い道は大道筋と呼ばれるが、このあたりはまだそんなに大きな道ではない。その名にふさわしくなるのは、ここから南へ百メートルばかり行ったところ、大堀堺線との交差点からだ。
 私の今日の散歩はその道をとらない。あまり大きくはない大道筋を渡り、ついで路地を抜け、大堀堺線を越え、内川に出るのだ。内川は、堺旧市の環濠の西側部の名称である。
 スーパーの以前には映画館があった。映画館がただちにスーパーになったのだったか、それとも数年のあいだをおいてそうなったのかを、私は覚えていない。やはり社会的関心がなかったのである。ちなみに田中角栄通産相が「日本列島改造」を発表し、そして首相になったのは昭和四十七年(一九七二)である。その翌年、スーパー出店の年は、石油ショックと為替の変動相場制移行の年次であり、地価と物価の極端な上昇があり、商社は売り惜しみをし、主婦は洗剤とトイレットペーパーの購買に狂奔していた。生の楽天性をにじま せた陽気で如実な買物の時代は、おそらくこのあたりを境に永遠に失われたのだが、大学を終えようとしていた私に、やはり社会的関心はなかったのである。(以下略)

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