交通取締りの方法に対するドライバーらの根強い不信感が存在することは否定できない。取締りに不服のあるドライバーは交通安全よりも取締られないための方法を追求する。それに対し、現場の警察官は交通安全よりも、いかに効率よく取締りをして、いかに文句を言わせずに処理するかの方法を追求する。こうして交通警察とドライバーの対立の構図が生まれる。
 しかし取締りの現場レベルでの取締り方法の正当性の議論に情熱を傾けたとしても、その争いは不本意な戦争に参加させられた前線兵士同士の泥沼の殺し合いなのではないだろうか。
 戦争問題を解決するためにはなぜ戦争になったのか、また誰が戦争を始めたのかを明らかにすることが必要であり、最前線で向かい合った敵同士が憎しみあっても得られるものはない。
 ベトナム戦争において、前線で闘ったアメリカ兵士はゲリラに苦しめられ、帰国しても一般市民からの賞賛の声はなかった。 同じことが交通取締り現場の警察官にも起こっている。
 日本のドライバーは圧倒的な権力をもつ警察官に勝ち目はない。しかし交通取締りに従事する警察官への賞賛の声も少ない。
 平和的な解決をするためには事態を招いた原因を明確にするべきである。しかし交通警察に異論を唱えるドライバーらはゲリラでしかなく、戦争原因を追求する術はない。さらにマスメディアは戦争の存在すら認めようとはしない。
 一方トラックやタクシーは公益法人という業界団体の設置によって戦争を回避している。しかしその代償として天下りをはじめとする癒着の構造を招くこととなった。
 交通行政監察官室は戦争の存在を明らかにして、もしそれが存在するのならゲリラ戦に頼ることなく平和的な解決の方法を模索することを理念とする。
 日本人の特殊な価値観
MACHINARIZM
マシーナリズム
自動車への価値観、拳銃やナイフによる犯罪、レイプやセクハラ、目的を見失った行政システム構築の要因を検討するテーゼ
ROBOT-SYNDROME
ロボット・シンドローム
中央省庁の縄張り体質、日本人の「寄らば大樹」の深層心理を考察する
Self-Control
セルフコントロール
刑罰主義の功罪を考察する
議論されるべき三要素

 行政を正しく評価するためには法律に代表される制度面、その制度がどのように運営されているかという運営面、そして制度と運営の結果としての実態の三要素を分析することが必要とされます。

 このサイトはこれら三要素での評価分析を常に念頭に置いて編集しています。

 さらに諸外国との比較、歴史的背景の考察を行うことで、、さらに詳しく分析し政官業癒着の構造・天下り・談合・贈収賄・問題の先送り・利用者無視の行政の実態を明らかにして行く予定です。

 
 問題の背景を明らかにする方法

問題の存在

 取締りの問題は規制がその道路の交通の実態に適合しているか否かと必ずセットで議論されなければならない。交通の実態より規制が低く設定されているのであれば取締りは緩和すべきであり、交通実態にあった速度規制であれば多少厳しい取締りであったとしてもドライバーに批判されることはないだろう。

 日本の交通行政の問題のひとつは、それが明らかに厳しく設定された規制であっても厳しい取締りを実施していることにあるといえる。

 もし当局が『違反は違反』の姿勢を強力に貫くのであれば、交通の実態と比較して著しく乖離している規制は見直さなければならない。その可能性がないならドライバーら自らが乖離していることを実証していく他はないだろう。

問題解決の方法

 道府県警察が行う交通行政は法令の範囲内で各都道府県毎にそれを行うことになっている。問題点は、各都道府県で制定される道路交通法に関連する条例や取締りの大まかな方針が警察庁の意向によって全国一律のものとなっており、地域性や都道府県の意見が全く反映されていない点にある。

 警察の実施する交通行政において、全国を一律にまとめて議論をする前に各都道府県毎に道路事情、交通の実態、自動車に対する意識などを議論し、問題が法令の範囲内で都道府県警察が行い得るものであれば都道府県警察への働きかけを行う方が現実的であると考える。厳しい規制も取締りの運営次第で多くのドライバーの納得する規制になり得る可能性はある。

 例えば警視庁は一時停止規制の厳密な取締りに力を入れているが、北海道では一時停止規制の取締りは全く行われていない。このように各都道府県警察の裁量で実施されているのか、それとも全国的な傾向なのかを知ることによって陳情の仕方も変えていくべきだろう。

 現在私は北海道に住んでいるので、特に速度規制については強烈な違和感を感じるが、もし私が沖縄に住んでいたら速度規制への疑問は感じないかもしれない。

道路交通を中心とした各都道府県警察の権限で行い得る法令・条例を抽出してあるので参照して欲しい。(条例は北海道条例であるがおそらく全都道府県が同じだろう)

 問題は速度規制である。速度規制は道交法施行令で定められた時速60kmを頂点として、逓減方式で決められている。つまり都道府県に時速60kmが交通の実態と比較して非合理な道路(誰もが速度違反している道路)があったとしても、その道路は時速60kmというシーリングのために、例え都道府県警察が緩和しようにもできないからだ。

逓減方式の速度規制

 逓減方式とは、まず頂点を定めて頂点との相対性において速度を低く設定していく方式である。極端に簡単に例えれば、2車線で中央分離帯があれば時速60km、中央分離帯がなくなれば時速50km、1車線になれば40kmという具合だ。通行人が多ければ10km減らし、カーブがきつければ20km減らすという設定方法を基本としているのだ。もちろんある程度の根拠を持った設定も存在するが、道路の多くはこのように決められている。

 制限時速時速50kmを時速60kmに緩和したら、「制限60kmの道路をもっと高く設定してくれ」との意見が発生する。しかし時速60kmを超過した速度を認めることは都道府県警察の権限を越えてしまうのでできない。だから時速50kmの道路も時速40kmの道路も交通の実態を無視したまま据え置かれることとなるのだ。

 速度規制と速度取締りの問題を解決するには、警察庁の速度規制の方針を変えてもらうほかに手段はないだろう。

注)速度規制に関する記述は私独自の調査結果であり、警察の見解とは異なります。

社会人の責任

東京の地下鉄エスカレーターで撮影した写真である。

皆が急ぐ人のために右側を空けているのに対して、老婦人は何も気付かず通路を塞いでしまった。これは日常茶飯事にみられるが、気になるのは後ろからきた急ぐ人の態度である。

露骨に顔をしかめ舌を鳴らしたり、「ったく、じゃまなんだよ。ババア」とわざと聞こえるように言ってみたりする。

自動車の世界も同じく、自分の道を塞がれた場合にクラクションを鳴らすことはあっても、交通社会全体の調和のために注意を促す行為は一般的とはいえない。

後ろから来る人の行為を分類してみる

■急ぐことをあきらめる■
■急ぐことをあきらめない ■
T 黙って後ろにつく
U 自分は被害者であることを周囲にアピールする
V 老婦人に聞こえるように悪口を言う
W すみませんと言って道を空けてもらう
X 黙って押しのける

 もちろん通路の幅に比較して混雑がひどければ、右側を空けることのほうが不合理なこととなる。また混雑がひどいかどうかを判断する厳密な指標はないので、ここでは大混雑とはいえない程度に混雑している状態を想定して検討する。

 急ぐことをあきらめる場合はTで、あきらめない場合に望ましいのはWであることは誰の目にも明らかであろう。さて問題はTとWのどちらが~望ましいかである。

 後ろから誰もこないことを確認して、おとなしく急ぐことをあきらめる場合になんら積極的な問題はない。しかし老婦人は自分が人に迷惑をかけていることを知ることもできない。新しいルールが合理的で公益に合致するのであれば、そのルールを知っている人が知らない人に教えてあげることが知る人の責任ではないだろうか。
 だれも教えてあげなければ老婦人は何も知らずに周囲の冷たい目を浴び続けることになる。

 追い越し車線で遅い車にパッシングを浴びせろ、ということをいっているのではない。
 いかなるときも絶対的なルールは場合によっては理不尽なルールになり得る。
 必要なのは何のためのルールであるかを理解することにあるのではないだろうか。
 副作用の防止

 このサイトの大きな概念は管理社会全体の見直しをすることですが、道路交通に限れば既に右のように警察への反感と警察権力外への逃避が多くみられる状態になっています。

 交通行政の現状を変革するということは、民衆と警察との間にある壁を押し広げる力が必要になります。

 しかし警察行政に不満を持ちながらも、何かあったら警察が対応してくれると信じ込んでいる人々が大多数を占めているのが実情であり(警察神話と民衆の安全認識にをご参照ください)、そういった人々にとって警察力の減少は『安全の危機』をイメージさせます。それが警察支持の世論となり、変革の障害となります。

 それゆえ警察の実態を正しく理解することがまず必要になります。その次に圧迫されている『自発的正義』をもとの大きさに戻すという段階が必要になるのではないかと考えます。

 『自発的正義』をもとに戻すことの必要性は、交通行政への不満を爆発させるという形での変革は、一部のインモラルドライバー達を「表面的な変革」が刺激して彼らを暴走させる可能性を否定できないからです。

 つまり抑圧からの開放というイメージではなく、『自発的正義』という良心が変革の原動力となったと正しく認識させることで、副作用を防止することも可能になります。

 ※もちろんこのサイトは眠っているモラルを呼び起こすことによる変革を基調としており、警察への反感を起爆剤に使うつもりはありません。

 自発的正義が警察力を補完し得るものである、ということを意識付ける必要があると考えます。もちろんこのことは変革の材料のためにウソを信じさせるのではなく、少なくとも道路交通行政においては、自発的正義は行き過ぎた警察力を補完してあまりあるものを得ることができると考えます。

 

 権力者の義務

 

 権力は英語ではPOWER(パワー)と書きます。
 パワーが意味するものは国家権力だけではありません。
 おとなはこどもに対しパワーを持ち、力の強い男性は力の弱い女性に対しバワーがあるといえる。
 警官は市民に対し行使する特別のパワーを持ち、行政に関わるひとは市民に対してパワーがあるといえる。
 クルマは歩行者よりもパワーを持ち、大型トラックは乗用車に対してより大きなパワーを持っている。
 現在の日本は力の強いものがパワーを振り回す。
 権力者たちは私利を得るためにパワーを使い、警官は拳銃のパワーで市民を威圧する。
 社会に否定的な力自慢のおとこ達は腕力をひけらかし、頑丈なクルマはそのパワーに任せてわが道を行く。
 おんな達は性のパワーを露骨に表面に出すことを好み、子供たちはこどもの特権というパワーを利用する。
 このホームページは自動車に関することを主体としているので自動車に焦点を合わせて書けば

 歩行者<自転車<2輪車<軽自動車<普通乗用車<大型乗用車<大型車

 の順番でパワーは大きくなる。
 権力を持つものは権力に伴う責任を自覚する必要があり、小さなものには配慮をすべきだろう。
 道路交通法は現実に大きく遅れをとった法律であり、法律の守らせ方に大きな過ちを続けてしまった。
 大事なことは法律が○○だから○○しないことではない。
 法律がどうであれ自分がNGと思うことはしないことであり、それを他人がすることも許さない信念をもつことだろう。
 ただし他人に対しては、客観的な受忍限度をはかる必要があることを念頭に置いておくことは大事なことである。