■国語改革論は江戸末期からあった
戦後の国語改革の根拠について、丸谷才一は「信じがたいことだが、煎じ詰
めれば次の二つの理由である」として次のように要約している。「一つは『文
字(漢字)が難しくて、とても覚えきれないから簡単にすべき』ということ。
いま一つは『難しい文字ではタイプライターやコンピュータが使えないし、印
刷にも不便』ということである。これだけの理由で、漢字を制限し、新字をつ
くり、仮名づかいを変え、送り仮名の仕方を変えたわけだ」。こうした浅薄な
機能主義・形式主義による国語改革が、どれだけの弊害をもたらしたかは、計
り知れない。愚かな「善意の押し付け」として、すまされるものではない。
国語改革は、GHQ(占領軍総司令部)の指導のもと、「民主化」「国民の
文化振興」といった錦の御旗を掲げて強行されたのだが、その推進者たちの意
識の底にあったのは、国語(日本語)に対する根深い劣等感・不信感だと推測
される。「日本語は曖昧。論理的な思考・表現に適さない」「日本語は習得す
るのが難しい」「こんな国語を使っていては、戦後の復興の妨げになるに違い
ない」といった発想だったと思われるが、国語の改革論は、実は江戸時代の末
期までさかのぼる。(以下、加賀野井秀一「日本語の復権」より)。
のちに郵便制度の創始者となった前島密は、当時、幕府の開成所で翻訳係を
務めていて、「繁雑な漢字を覚えることばかりに気をとられていては、肝心の
西洋の新しい学問の内容にまで目を向けることができない」と考え、国字は仮
名だけに絞るべきだと『漢字撤廃論』を唱えている。続いて明治二年には、政
府学問所の南部義籌(よしかず)という学生が『修国語論』という一文をした
ため、文部省に日本語をローマ字で綴ることを進言している。明治五年には、
のちの文部大臣森有礼(あつのり)は、日本語をやめて英語を国語にすべきと
考え、エール大学の言語教授W・D・ホイットニーの意見をあおいでいる。ホ
イットニー教授は、「国語を他国語に取り替えるのは得策ではない。まずは漢
字を廃止し、アルファベットで日本語を表記するのがよかろう」と助言したそ
うである。この考え方は、近代翻訳語を多く造語した西周(あまね)も同じで
あり、明治七年に発表した『洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論』の中で、「洋字は
26文字だけで書いたとおりに読め、読むとおりに書ける。つまり言文を一致
させることができる」と主張している。さらに明治三十三年には、大阪毎日新
聞の社長であった原敬が『漢字減少論』を発表し、文部省の保科孝一もこれに
呼応し、漢字の削減、あるいは全廃を唱えている。こうした改革案は、その後
も繰り返し続出しては立ち消えになっていたのだが、敗戦後ににわかに復活し、
GHQの威を借りながら官僚と作家の山本有三や志賀直哉らが中心になって、
ついに実行に移されたわけである。ちなみに、志賀直哉は昭和二十一年、『改
造』誌上で「フランス語を国語にしてはどうか」と提言した人物である。
■国語問題はおそろしく保守的であるべき
以上、簡単に国語改革にまつわる経緯を紹介したが、ともあれ、国語改革論
は@「日本語を捨て外国語を取り入れる A日本語をローマ字(アルファベッ
ト)で表記する B日本語を仮名のみで表記する C漢字制限をする の4つ
に集約できる。とりあえずは今のところ、「漢字制限をする」及び仮名づかい
・送り仮名の変更などで、おさまっているわけである。
もしも、外国語と取り替えたり、ローマ字表記・仮名のみ表記が現実のもの
となったら、どういうことになるのか。前回、紹介した司馬遼太郎の言う通り、
母国語、つまり国語は生まれた国の文明・文化の基本、人間としての基本であ
る。この基本が失われいくことになるほかない。私は「日本人だから日本語を
つかう」のではなく、「日本語をつかうから日本人だ」という考え方をこよな
く愛している。国語改革を唱える者が新しくて「民主的」「開明的」などと言
うのは幻想であると思う。国語問題については「おそろしく保守的であるべき」
だと考える。国語は、いま現在の会話や読み書きのためだけの道具ではない。
むしろ民族の精神的遺産を摂取し、それを血と化し肉と化すためのもの。そし
て次世代へと伝えていくために国語があると思う。また、言葉に対する粗雑で
怠惰な姿勢は、対自己、対人間、対自然への粗雑で怠惰な関わり方と無縁では
ないと思う。言葉は人の心を正すものだ。
国語改革は「漢字制限」で一応おさまったといえど、いつまた過去の亡霊が
出てくるかはわからない。「グローバルな言葉社会」とか「言語のエコロジー」
といったキーワードなどをひっさげて復活するのではないかしらん。もちろん、
あの国語改革だけでも、大きな弊害があることは言うまでもない。
■漢字と仮名の混ぜ書きは怠惰な役人根性
前回は漢字制限による「漢字の置き換え」という珍妙で鼻しらむ実態をお話
したが、今回は、さらに不快な現象について再確認したい。それは、漢字制限
で使用できない漢字を仮名にし、熟語を「漢字と仮名の混ぜ書き」で表記する
ことである。この例は毎朝見る新聞にとくに多く見られる。「憂うつ」「金融
破たん」「ら致」「すう勢」「排せつ物」「データ改ざん」「ふん害」「覚せ
い剤」「情報漏えい」「残がい」など、いくらでも数えあげられる。しかも、
わざわざ目につく見出しに採用されているのである。
新聞記事の表記については、「国語改革に伴う内閣訓令」に基づいた「新聞
用語」というのがあり、記事を書く人はこれに準拠することになっている。な
にせ国家のお達しなのだから遵守しなくてはならないということだろう。例え
ば、市場の動きを分析・要約し、「○○を中心とした業界再編の動き」といっ
た事態を端的に表現しようとして「△△再編のすう勢」と見出しを立てる…。
なぜ「趨勢」と表記しないのだろう。「趨勢」という熟語がもっともふさわし
いから選んだ言葉のはずであるし、読者も「趨勢」という漢字から「物事が足
早に移りゆく勢い」を感じるはずである。もともと、漢字熟語はそれぞれの漢
字の意味・語感を暗黙の前提として受け止めることから、一目瞭然に伝わるも
のなのである。それを「すう勢」と表記したのでは、微かに「趨」を意識する
程度で、熟語の機能をなさなくなってしまう。「破綻」は破れほころびること
である。「破たん」では「ほころびる」という暗黙の理解が希薄になる。漢字
の持つ伝達能力を混ぜ書きで奪っておきながら、しかも平然とその言葉を使う
…。「読者の大半が読めないような難しい漢字は使わないようにする」という
大義名分があったにせよ、実際はむしろ理解しにくくしていることに気づかな
い。「もともとの漢字は知っていますが、その筋のお達しのため、事務処理と
してこのように表記しています」という気休め・申しわけめいた姿勢、これを
ずぼらな役人根性と言わずして、なんと言えばいいのか私にはわからない。
常用漢字かどうかの以前に、その使いたい熟語が今の私たちの認識に有効で
的確かどうかが本当の問題であろう。その判断のもとに「趨勢」「破綻」を使
うのであれば、ルビを打ってでもきちんと表記すべきだ。それができないのな
ら、他に代わる熟語、表現を考えるべきだと思う。その努力を惜しむ記者の心
理が私には理解できない。なによりも「憂うつ」「ふん害」「残がい」などと
いう「漢字と仮名の混ぜ書き」の言葉は、私たちの国語ではない。こんなもの
は日本語の体をなしていない。なによりも汚らしい。しかるに、大新聞ではこ
の見苦しい怠惰な表記が毎日、再生産されているわけである。
■「エリツィン翻ろう」「発らつ」の怪異
この「漢字と仮名の混ぜ書き」で困惑したことがある。古い話で恐縮だが、
ロシアのエリツィン大統領が猫の目のように発言や態度を変えるので、どのよ
うに対応すべきか国内・国外の関係者を大いに迷わせたことがあった。この端
的な言動を伝えるニュースの見出しが次の表現。「エリツィン国内外翻ろう」。
朝日新聞の記事だが、私は一目見た時、「翻ろう」を「ひるがえろう」と思わ
ず読んでしまったのだ。翻弄されたのは朝日新聞の読者だ。
なお、新聞と比べると雑誌関係は、この「漢字と仮名の混ぜ書き」が随分と
少ないようである。反権力の証と言えば、うがちすぎだが、当然の見識として
うけとめたい。私の仕事(いわゆる商業文)の世界では、さらに少ない。当然
である。お客様に向かって表現しているからである。とはいえ、PR誌の編集
会社に勤めていた時、部下となった新人が「発らつ」と書いていたので、これ
はどういうことかと聞くと、「『らつ』の漢字は『刺』で読めそうもないから
『らつ』とした」と答えたことがある。「はつらつ」は正しくは「溌溂(剌)」
と書く。刺すの「刺」でなく、「たがう・そむく」という意味の「剌」である。
しかし、新人君は知って知らいでか「溌」を「発」、「溂」を「刺」と漢字の
置き換えを行い、さらに「刺」を平仮名にしたわけである。しかし、「刺」は
は常用漢字であるらしい。だから、「溌」の置き換えを行わずに大新聞のごと
く「正規の混ぜ書き」をしたとすると、「溌溂」は「はつ刺」となるのかも知
れない。もちろん、「発らつ」も「はつ刺」も不明瞭で汚らしい表記であるこ
とは、言うまでもない。ここは「はつらつ」と仮名で書くのが妥当だろう。
新聞ばかりを目の敵にするのでは片手落ち。商業文の世界にも悪癖は多い。
コピーライターが書き始めたに違いないペダンチックな漢字表記がある。例え
ば「きれい」を十年ほど前から「綺麗」と表記している。「綺」は常用漢字で
はない。しかし、みんなで渡ればこわくないので、なんでもかでも「綺麗」を
使う。もっとも「綺麗」は陳腐化し、最近では「キレイ」がトレンディ…。そ
れから「ほめる」は「褒める」という漢字が好んで使われ、「ずさん」も「杜
撰」と表記している例がよく見られる。「すう勢」が役人根性なら、「綺麗」
「杜撰」などは空虚な追従根性だと思う。こんな表記の必然性はない。
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