短編小説「空腹」
家の中に風が吹き込み、シンは目が覚めた。冬の冷気が薄い毛布に凍み込んでくるの
を感じた。一晩中固い木の台の上で縮こまっていたので、疲れていた。
シンは毛布をまるめて、起き上がった。いつもの朝と同じように、どこからともな
く、重苦しく希望の見えない憂うつ感が心にずっしりとのしかかってきた。
周りの物が、暗やみの中にぼんやりと現れてくるのを見て、シンはまた自分の困窮ぶ
りを考えた。
壁の隅におかれている、傾いた小さなテーブル、竹が何本も割れているベンチ、綿の
ない急須用保温カバー、ひびの入った湯のみ、黄色くにごった水・・・。
その中に皮のスーツケースもいっしょに置いてある。以前、裕福な生活をしていたこ
ろの名残だ。
部屋の中にあるものといったら、それだけだった。もう長い間、シンのまわりにはみ
すぼらしい物しかなかった。
シンがこの暗いじめじめした部屋へやってきてからずいぶんたっていた。どのくらい
寒くてひもじい日々をすごしたかは、もう数えることすらできない。
夜中に戸の隙間をビュービュー吹き抜ける風の音には、もう慣れた。空腹でふらふら
になってしまうことにですら、もう何度も我慢した。
シンはため息をついた。仕事をクビになった時のことを思い出した。冷淡で有無を言わさない社長の声。
同じ状況に陥った同僚たちの落胆した表情。
あの時から今にいたる困窮生活が始まったのだ。
外の歩道から下駄の音が聞こえて、シンは顔をあげ、戸のほうを見た。妻が帰ってき
たのだ。
妻は、戸につるしてある赤いのれんをあげて、入ってきた。
明るいところにいる妻の体が光の中にくっきり浮かび上がるのを、ちらりと見た。
痩せ細り、着古して擦り切れた薄絹の服をきた体だ。その姿を見て、シンはあわれに
思った。
妻はベッドのそばに来た。静かにシンを見て、何も言わなかった。
シンは手を伸ばして妻の手をとり、自分のほうへ引き寄せ、いとしげにたずねた。
「こんなに早く、どこへ行っていたの?」
「道外れのバーさんのところへ、お金を借りに。」
「で、借りられた?」
シンの妻は、夫を見て、ため息をつき、首を横に振った。
「今じゃ、もう誰も貸してくれないわ。あの人、昔、私を頼っていた事なんて忘れ
ちゃったのよ。」
シンは悲しくなり、落胆した表情で言った。
「人生とはそんなもんだ。責めたって仕方がない。だけど、これからどうしようか
?」
米びつはもう空っぽだし、ポケットには小銭もないし・・・。夫婦が最後にご飯を炊
いて食べてから2日がたっていた。シンは空腹で、つらかった・・・。
「どうしよう。」
妻はその言葉を繰り返し、顔を下に向けて泣いた。荒波のように、シンの心に哀れみ
がどっと押し寄せた。
シンは妻をじっと見つめ、心を込めて妻の手をしっかり握り、胸に抱いた。
シンは肩に重くのしかかっている困窮から逃れるために、その時すぐにでも死んでし
まいたかった。
午後は冷たい風が吹いていた。シンは部屋のドアの前の小さな軒に椅子をだして欄干
によりかかり、家の下を見渡した。
シンが借りている家は、幅が狭くて、細長く、いくつもの部屋に仕切られていた。そ
れぞれの部屋に、家族がひしめき合って住んでいた。
全部、商売をしている貧乏人だ。
今は食事の準備をする時間だ。人々が賑やかに働くのをみて、シンは自分の家の台
所はいまだに冷え冷えとしていることを考えた。
朝出かけたきり、今になっても、まだ帰ってこない妻のことを心配した。
帰ってきたとしても、何か持っているだろうか?
今まで何度もそうだったように、ただ、失望するだけだろうか・・・。
そこまで考えて、かつては満ち足りた暮らしをしていたのに、今や自分のせいで貧乏
に耐えなくてはならない妻のことを哀れに思った。
二人は歓楽街の酒の席で出会った。その時、シンには仕事もお金もあった。
知り合って、愛し合い、家族の反対をものともせず、彼女と結婚した。二人は、共
に、楽しい、愛に満ちた暮らしを送った。
シンの記憶にはそんな日々がほのぼのとした思い出として残っていた。だが、そのこ
とを考えると、どうしても未練を感じてしまうのだ。
そのあと、貧窮生活が始まった。疲れきった、惨めな生活が始まった。飢えて凍える
日々が始まった・・・。
それでも、惨めな生活は、妻の自分に対する愛を変えはしなかった。
昔とかわらず、二人の愛情は熱く、激しく、ただ、哀れみあう気持ちによって、苦しみ
が加わっただけだった。
今朝早く、明るいところに浮かび上がった妻の痩せた弱々しい体が、シンの脳裏に浮
かんだ。
お金を借りられなかった失望感、じっとシンをみつめる悲しげな二つの瞳を思い出し
た。限りなく愛している、いくらでも犠牲になる、と言っているようだった。
風に吹き付けられ、シンは骨の髄まで冷え切った。空腹だった。今まで感じた事がないほど
の、ひどい空腹感だった。
腸がえぐられるような空腹で、シンはくたくたになった。目はちかちかして、何もか
もがぼんやりと揺れているようにみえた。
食べ物も着る物も十分にあったころ、シンは空腹に注意を払ったりしなかった。まず
考えもしなかった。
今になって、空腹とはどんなものなのかがやっと分かった。猛烈な空腹感を前にし
て、シンは身震いした。体の欲求が精神の規律をも圧倒しているのを感じた。
家の前で炒め料理をするにおいが漂ってくると、シンは耐えられないほど苦しくなっ
た。シンは欄干の上で首を下に向け、人々が夕飯を作るのを眺めた。
平凡な食事だったが、おかしなことに、シンがこれほどまで食欲をそそられたこと
は、いまだかつてなかった。
火にかけたフライパンの熱い油の中で、黄色い豆がだんだん膨らみ、焼き魚の体が曲
がりはじめたのを見ると、シンは体中が震えるほど、ほしくなった。
あの食べ物を、これほどまでにも食べたくなったことはなかった。
かつて、人々が食べ物を奪い合った話を聞いて、シンは軽蔑して笑ったものだった。
食べ物なんて取るに足りないものだと考えていた。ただ、清廉で高邁な精神だけが必
要なのだと思っていた。
だが今、実際に飢えに直面して、食の必要性がどんなに強いものかということが、つく
づくと分かったのだった。
以前、満ち足りた暮らしをしていたころ、貧しく、汚い庶民の集まる場所を通ると、
軽蔑して自問したものだった。
あの連中は何のために生きているのか。
惨めな思いをするためにか。飢えて凍えるためにか。
生きる事があの人たちにとって意味があることだとは思えないのに、どうしてあんな
に生きる事に執着するのだろうか。
今、寒くて冷たい日を過ごすために、彼らと同じように、シンもまた一かけらの食べ
物を渇望している。
手がやさしくシンの肩に触れたので、振り返った。妻が微笑み、清潔できちんとした
セロファンの包みを数個、目の前に差し出した。
ちらっと見ただけで、最近できた欧風店の上等の食べ物だということが分かった。味
つけした肉のにおいやハムのにおいが漂ってきた。
包みをとめてあった紐をほどくとき、シンは手まで震えた。嬉しくなってたずねた。
「ああ、どこでこんなものを? マイ、どこでお金を手に入れて買ったんだい?」
マイはシンがたずねるのを聞いて、頷いて答えた。
「食べてからよ。空腹がおさまったら、話してあげる。本当にラッキーだった。あの
人は本当に慈しみ深い方だわ。」
「誰? 話してよ。」
マイは愛しげにシンを見つめていった。
「だめよ。食べてから。食べながら話すわ。」
それから、妻は軽やかにテーブルの上に包みを置いて、外側の包みを広げた。
赤い味付け肉と水晶のように白く澄んだ脂身、きめ細かなハム、焼き色のついたパン
・・・
マイは楽しそうな声をだした。
「こういうことなのよ。出かけていったものの、あてはなくてね。
みんなが私達に薄情なのも当然よね。
これだけ貧しいのを知って、誰が助けてくれるかしら。見返りが期待できないんだも
の。
それで、私、道をぶらぶら歩いていたの。そのときは辛くて、川に身を投げて楽にな
ろうと思ったわ。でも、あなたのことを考えて、思いとどまったの。
幸運にもちょうどその時、前から知り合いだった、ヒエウさんに会ったの。私を見
て、掘り出し物を見つけたみたいに、熱心にいろいろ聞いてきたわ。」
マイは早口でしゃべった。
「親切な人だわ。お金を貸してくれて、その上、私が商売できるように資金の面倒も
みてくれるって約束してくれた。
そのうち、びんろうを売りに行くわ。本当に思いがけないわ。あんなに人のことを考
えてくれるなんて。」
シンは嬉しそうに言った。
「じゃなかったら、僕らは今日も飢えに耐えなきゃならなかったね。だけど、どうし
てこんなに贅沢な買い物をしたの?」
マイは下を向いて笑った。頬が赤く染まり、額に髪が数本かかって、彼女はいつも以
上に美しく見えた。
マイは手をポケットにつっこんで札束を取り出し、シンの前に置くと楽しそうに、軽
やかに家の中へ入った。
「ちょっと待ってね。パンを切るナイフを取ってくるから。」
マイが背を向けて行ってしまうと、地面に折りたたまれた紙切れが落ちているのがふ
とシンの目に入った。
マイへ
約束したお金だよ。もっとほしかったら、またいくらでもあげる。でも、今夜は、必ず、
約束通りに、ここへ来るんだよ。待ってるからね・・・。
シンの手にある紙は、いつ落ちたのだろうか。大きな力が心臓を圧迫し、シンは息も
できなかった。一瞬のうちに、シンの人生の明るい希望は砕け散ってしまった。
その時、すぐに死んでしまいたいと思った。苦しみが、底無しに、体にじわじわ染み
込んできた。
できることなら、これが事実ではないことを、夢であることを願いたかった。
だが、どこにも疑うべきところはない。あのお金はまさにこの手紙のなかに書かれて
いるお金だ。ほかの誰が貸してくれるというのだ!
お金を借りに行った日々、失望と悲しみの日々、妻から聞かされた、人々の刺のあ
る、ひどい言葉の数々、妻の知り合いが冷淡で、無関心だったことを思い出した。
ヒエウて誰だ! シンの目をごまかすための作り話に過ぎなかったのだ。
心に強い怒りがむらむらと湧き起こってきた。
口が軽蔑的に自然とひきつり、体が震えだした。声が押し出された。
「畜生」
針が刺さったように胸が痛んだ。シンは椅子の端をしっかりと握り、机の上の札束を
見た。包みが解かれた食べ物をみて、折りたたまれた紙を拾い上げた。
シンはしばらく黙っていた。それからドアののれんが風でめくりあがる音、草履の音
がしずしずと自分のほうに近づいてくる音をはっきりと聞いた。
シンは唇を噛んで、なんとか心の中の怒りと高ぶる気持ちを押さえようとした。体が
震えないように、拳を握り締めた。
手はシンの髪を優しくなでた。妻はすぐ傍に立っていた。紙を広げてナイフでパンを
切り、楽しそうに言った。
「このパン、おいしそうじゃない? ハン・チョン通りで買ったのよ。この味付け肉
は最上等のなの。私、5ハオも払ったのよ。切ってあげるわ。
お腹がすいているみたいじゃない。さ、食べてお腹いっぱいになりましょう。それか
ら考えましょう。」
マイは味付け肉を切って皿に載せ、微笑んで言葉を続けた。
「ほら、食べて。私たち、本当に幸運ね。もし今日ヒエウさんに会わなかったら、私
たち、どうしていたかしら。」
マイはシンの肩をたたいて、夫を揺すった。
「どうしていたかしら? いつもみたいに我慢していたかしら。ほかにどうしようも
ないわ。
あの人に感謝しなきゃ。本当に、思いやりがあって、やさしい、いい人だわ。私がお
願いするやいなや、懐から15ドン出して、全部渡してくれたのよ。
あの札束、まだ数えていないの? 私、嘘なんかついてないわよ。」
シンの怒りは極限に達した。もう我慢できなくなった。「ヒエウさん」の名が彼を憤
慨させた。
妻の嘘が・・・、巧妙で自然な嘘がはっきりしたからだ。
マイはどうしてそこまでやるんだ? あのきれいな目が、やさしい顔が、今みたいに
まずいことは隠し通せるなんて思いもよらなかった。
シンは腕を強く振りあげて、いやなものを振り払うように、マイを振り払った。
マイはよろめいて後ずさりし、壁に倒れ掛かった。ハンカチが飛び、髪が絡まった。
驚いて目を大きく見開き、夫を見た。
「あなた、いったいどうしたっていうの!」
シンは声をあげて笑った。歯をギリギリ鳴らした。狂人の笑い声のような、嫌な笑い
声だ。
「どうしたって? まだどうしたなんて聞くのかい? これ以上、芝居するのはよせ。
もう嘘をつくのはやめろ。」
シンは手を開いて、皺くちゃの折りたたまれた紙を見せた。
「この紙はいったい何だい?」
マイはそれを見て顔が青ざめた。両手で頭を抱え、がたがた震えた。
シンの声は嘲り、皮肉、辛辣の度合いを増した。
「親切なヒエウさんね! ああ! あの人は親切だ、思いやりがある、やさしい・・・
なんで、その上、今晩約束があることまで言わないんだ。」
マイは顔をおおって、しくしく泣いた。その泣き声もシンの怒りを押さえようがな
かった。それどころか、火に油を注ぐように、怒りを助長しただけだった。
言葉を口にすれば、するほど、シンの怒りは大きくなった。
「シンさん、あなた・・・」
シンは聞いていないかのように、言い放った。
「泣いてどうする。今すぐ行け。この家から出ていけ。あと一分だって、お前の顔な
んか見たくない。これを持って行け!」
シンはテーブルの上の札束をとって、マイに投げつけた。お札はばらばらに散った。
シンは食べ物の包みをも地面に払い落とした。パンが、肉が、テーブルの下に飛び
散った。
「こんなもの、誰も食べたくない!」
それから、シンはくたびれて椅子に倒れ込んだ。
油のついた両手で額を押さえ、許しを請おうと、おびえながら彼の方に手を伸ばして
いるマイには見向きもしなかった。
マイはしゃくり声をあげて泣き、服の前身ごろをひっぱって顔を隠し、外へ出て行っ
た。
シンはうつむいて考えた。怒りはおさまっていた。そして、限りなく絶望的な悲しみ
が残された。
心の中は凍り付き、内臓が締め付けられるような冷たい感覚を味わった。飢えや寒さ
に耐えた過去のつらい日々を思った。
貧窮生活をした数年間、シンは自分の運命を呪ってきた。だが、どうして、この上に
、さらにつらい思いをしなければならないのか?
マイはずっといっしょに苦しみをともにしてきたのに、どうして、今になって、お金のた
めに身を売るようなことをするのか?
どうして、今みたいなひどいことをするのか?
つらさのあまり、シンは鳴咽しながらすすり泣いた。胸からは苦しみがいっぱいに
なってあふれだし、シンはテーブルにつっぷした。
風がひゅーっと吹き込み、シンは身震いした。突然、体中が動き出した。ふ
と、食べ物の香りと手についている肉の脂のにおいを感じた。
空腹感が、腸をえぐるように、肝臓を引き裂くように、猛烈に、悲しみさえ遮るかの
ように湧き起こった。シンは抵抗したかった。忘れてしまいたかった。
だが、できなかった。空腹感は、潮が砂浜に押し寄せるように、体中に広がった。風
が吹くたび、味付け肉の脂っぽいにおい、焼き色のついたパンの香りがした。
鼻孔が自然に開き、その香りを強く吸い込んだ。香りは腸や肝臓まで達した。骨の髄
にまで染み込んだようだった。
シンは首を傾けて、テーブルの下に散らばった食べ物を見た。周
りを見渡すと、マイはもうそこに立っていなかった。
シンは、躊躇しているかのように、怯えているかのように、おずおずと手を伸ばし、赤い肉をつかんだ。
シンはがつがつと貪った。噛んだり呑んだりするのももどかしかった。
手の中に肉切れをしっかりと握り、脂でべたべたになりながら、何も考えず、ひたす
ら口にほうりこんだ。
包装されていた食べ物は食べ尽くした。あとは油じみのある紙にくっついている小さ
なかけらだけだ。
お腹が熱くなってきた。伸びをして、気分よく息を吐いた。
だが、シンは手紙や、札束のことを思い出した。
マイが壁にもたれて喉を詰まらせながら泣いていた時の声を思い出した。
軽蔑をこめた、皮肉たっぷりの、辛酸な言葉の数々を思い出した。
自分の怒り、苦しみのことをも・・・。
情けない気持ちが、じわじわと体中に広がった。シンは両手で顔を覆い、下を向いてすすり泣いた。
(原題:DOI 著者:THACH LAM 1936年 翻訳:佐藤葉子 2000年)
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短編小説「怒り」
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