父のケルン
| 昨日の雨がうそのようだ。 春にしては強い陽ざしの中、K君と私は汗を流しながら三俣山を登っていた。 九州の九重連山に連なるこの山は、もうすこし経てばミヤマキリシマに覆われ、それは美しく染まるのだが、 まだその季節には早い今は、潅木だらけで日かげもない。 花の時期を避けたのは、父のケルンを探すためだった。 ミヤマキリシマが咲けば、このあたりは山道を行列して歩かなければいけないほどの登山客で 埋め尽くされてしまう。 そんな中では、十数年前に作った、はっきりした場所もわからないケルンを見つけるなんて無理や、 とK君から聞かされたからだ。 彼は九重の山荘で働いている。休みの時にはカメラを抱えて国内外を旅したり、山を歩いたりしていた。 のんびりした裏表のない気性のK君が撮る旅先や山の写真には、 彼の性格をそのままうつしとったように気負いのない美しさがあった。 父のケルンの話をK君にしたのはつい最近のことだ。 小学生の時に父が亡くなり、そのすぐ後に父の友人の方々と三俣に作ったケルンには、 中学生になって一度詣でで以来、なんとなく機会を逃したまま訪れていなかった。 K君が山を降りてきたとき見せてくれた写真の中に、三俣があったので、 たまたまそんな話になったのだった。 そりゃ行かんといかんねえ、とK君はいい、山荘で一泊して温泉にでも浸かって次の日登ればいい、 と簡単に計画は決まってしまった。K君の山荘は三俣のすぐ裏手なので、庭同然らしい。 「でも、俺はそれらしいケルンは見たことないけどなあ。」 「小さいからね、気をつけないと分からないよ。」 何年も行こうと思いながら行ってなかったのに、私はあっさり山荘を訪れることになったのだった。 三俣にはその名のとおり、3つのピークがある。 ケルンは、最初の頂上からすこし下った斜面にあるはずだった。 テラス風に張り出した部分の、ミヤマキリシマの繁みの中にセメントを流して作った覚えがある。 「さて、探すぞう。」頂上についたK君は張り切って言うが、肝心の私の記憶は曖昧で、 どこも同じように繁ったミヤマキリシマの原っぱのどの辺を探したものか途方にくれる思いだった。 「なんか前は道がついてたような気がするんだけどないねえ、そんなとこ。」 「ここなのは間違いないんやろう、まあ見つかるって。」 K君は斜面を下って藪の中に入っていく。私もK君と違う方向に下りていった。 もっと下だったけなあ、でも子供の足で降りられたんだからそんなに下ってないのかもしれない。 私はミヤマキリシマを手でわけて、白いセメントのケルンを探した。 ずいぶん長い時間をかけて、場所を変えながら下っていったけれど、なかなか見つからない。 浮いた石に乗って滑りそうになったとき、山に登るといつも父から言われていた言葉を思い出した。 山道で木の根っこを踏んだり、ぐらぐらした岩に立って転びそうになった私に、父は 「俺の歩いた跡を踏まんから転ぶったい。お父さんの行った通りの道を通れば大丈夫。」 と、有無を言わせない調子で諭すのだった。 山のベテランである父の言葉は絶対で、私ははい、と言うしかなかった。 それで不満だったかというと全く逆で、 父の強い言葉は、ただ父を信頼してついて行けばいいという安心感を与えてくれるものだったのだ。 その父は、仕事中の事故で亡くなった。 ボイラーの故障での一酸化炭素中毒。現場に倒れていた人たちを助けに行って、そのままだったらしい。 俺の跡をついてくれば大丈夫、といっていた父は、あっさり消えてしまったのだ。 父たち六人が横たわる病院の部屋で、 「あなたのお父さんは仲間を助けようとして亡くなったんだよ。」と泣きながらいっていた、 知らないおじさんの言葉が忘れられない。 人のために自分を犠牲にしたという父は私の誇りだった。 それに父がいないことで引け目を感じるような目にあったことはほとんどなかった。 十年ほど経って、祖父が亡くなり、その際の遺産相続のトラブルで、 私たち姉妹は母と一緒に自分の生まれ育った家から、実の祖母の手によって追われることになった。 家は祖母の名義になっていたからだ。 手続きのため、裁判所への出頭もしなければならない。 「自分の育った、自分の家にこのまま住みつづけたい。」という、 私にしてみれば当たり前に思える考えも、調停委員の 「年寄の名義の家に居座った若いもんがわがままをいうんじゃない。」の言葉で一蹴された。 家を出てからも、その家の建っている敷地の分割をめぐっての裁判が続いている。 私はこの時初めて、もう私の前を歩いてくれる人はいなくなってしまったということを実感したのだった。 第一、父がいればこんなトラブルがおこったはずもないのだ。 よその人を助け、この世界を離れる結果になった時、父は何を思っていたのだろう。 自分の踏んだ足跡をそのまま辿って、後ろからついてきていた私たちのことが頭に浮かんだだろうか。 自分の跡をついてくれば大丈夫、などとという人は、もう現れなかった。 私は先にたつ人を失ったまま、この生を過ごしていくのだろうと、いつもぼんやり考えているのだ。 私は体を起こして、 「もういいよ。こんなんじゃ見つかりっこないし。上に上がろう。」 とK君に言った。父が悪いわけではないと分かってはいるが、なにか腹がたってしようがなかったのだ。 しかしK君は 「もうちょっとなあ。」 と答えてやめようとしない。 私は思わず 「もういいってば!」 と叫んでしまった。 しまった、と思ったがもう遅い。K君がこっちを見て、 「俺がさがしたいんや。」 ひとこと言って、かがみこむとまた潅木を分け始める。私はただ斜面に立っていた。自分が情けない。 しばらくして、K君が 「ちやぞちゃん、これは違うかア?」 と大声をあげた。あわてて駆け寄る。 そこには色こそ真っ黒になっているが、確かに見た覚えのある小さなケルンがあるではないか。 「ああ、これだ!でもなんでこんな色してるんやろう。セメントで固めたんだけど。」 「このあたりは硫黄山から硫化ガスが上がってくるからなあ。表面が風化してしまったんや、多分。」 私はケルンのまえにかがみ込んだ。 風雨とガスにさらされて、知らない人が見たら人の手で作ったものには思えないほど、 まわりの岩に馴染んでしまっている。K君はよく分かったものだ。 K君はだまって見ていたが、急に 「ちやぞちゃんのお父さんがおって、お友達がおって、ずーっとつながったから、 俺たち一緒にここにおるんやなあ。」 と言った。静かな口ぶりだった。 K君には、私の父がとうに亡くなったということしか話したことはない。 裁判のことも、私がひとりよがりの孤独の中にいることも知らないはずだ。 彼自身がどういう意味でそう口にしたかは分からない。 ただ、私には、これまで一人で道を辿ってきたつもりになっていたけれど、 実は私のずっと先にたっていた父や、その周りの人々がいたからこそ、 歩いてゆける自分というものが今あるのだと、一人で歩いていると思っている時でも、 ともに進んでゆく人が必ずいるのだとKくんは言っているように、聞こえた。 「ごめんね。」 K君に言ったのか、父のケルンに向かって言ったのか、自分でもよく分からなかったが、 とにかくそうつぶやいて、私はケルンをなでた。 この山行のはじめから、いや、下界にいるときから胸の中にわだかまっていたものが、 遮るものもなく私たちの上にある空に、広がって溶けていくような気がする。 K君はいつもそうするように、ごく自然なふうにカメラを取り出して、 はたはた、とシャッターを切った。 下りは山荘とは反対側の、長者原の方向に下りていった。 黄色いペンキのマークを目印にしながら岩だらけの斜面を下りきると、 あとはコンクリートで舗装した白い道が続いている。 日差しはあいかわらず強いが、すぐにやってくる夕暮れの光がまぎれこんだ色に変わってきた。 「ちやぞちゃん、先に行ってくれ、後ろから撮ろう。光がいいから。」 言われるままに先に立って道を歩く。かすかにシャッターの音がした。 しばらくして、山から封筒が送られてきた。 山荘、坊がつる、ケルンと私、たくさんの写真が入っている。 一番最後に後姿で歩いていく私の写真があった。 私の前には光と白い道だけ、けれど後ろからはK君と、父が眠る三俣山とが見ている。 |
*ウズラワークス*