
4冊目を公開! 完結しました!
私が教育技術関係の本を読んでいたのは、今の塾で講師を始めた頃で、当時はそれこそ「読みあさって」いました。本屋に行くと、教師向けのコーナーがあって、たくさんの本が出版されていて驚いたのを覚えています。教師で執筆活動をする人はたくさんいるのです。「なんとか大全」とかいう文学全集のノリのものもありました。公務員が印税で儲けていいのかわかりませんが、現役教師も書いているようでしたから、大丈夫なのでしょう。
大学予備校講師はいろいろ本を出していますが、ターゲットは生徒向けの参考書がほとんどです。教師向けの執筆は単なるお金儲けでなく、自分なりの一つの教育活動としてなされているのだと思いますし、意義のあることだと思います。
生徒向けにしろ、教師向けにしろ、塾講師の執筆が少ないのは、きっと「忙しさ」にあるのでしょう。
すでにベテランの人は、本を読んだところで今さら「新しい発見」もないでしょうが、今の自分の授業を振り返る意味でも、時に本を読んでみるのは良い刺激になるでしょう。やる気が再燃焼してきます。
「発問上達法」
大西 忠治 民衆社
発問について勉強しようと買った本です。他にもいろいろ読みましたが、発問に関しては私にはこれが一番ためになりました。まったく新しい概念が出てくるわけではありませんが、「発問の何たるか」を考えるのに助けになりました。
講師を始めた頃の私の命題の一つに、「なぜ塾に来て勉強しなくてはいけないのか」というものがあります。「参考書を読めばいいではないか」「テレビ・ラジオ講座とどこが違うんだ?」という疑問です。本やテレビの方が、内容がしっかりしている上に、圧倒的に「安い」のです。言いかえれば「塾(または授業)の存在意義は何なのか」という命題で、答えはいろいろあるのですが、そのうちの一つが「発問」なのです。「本・テレビ・ラジオ」と「授業」の明確な違いの最たるものは、「講師と生徒との直接のやり取り」であり、授業における「やり取り」とは「発問」なのです。
「なぜ発問するのか?」「発問のねらいは何なのか?」「良い発問とは、どんな発問なのか?」 そういう「発問の方針」を自分なりに固めるのに読んでみるのをお薦めします。ただ、実践に重きを置いている本でなく、やや理屈っぽい本なので、そういうのが苦手な人には面白くないでしょう。また、マイナーな出版社で、かつ、私が買ったのも12年前ですから、まだ出版されているのか定かではありません。
「ザ・プロ教師」シリーズ
河上 亮一 洋泉社
本当のお薦めは、シリーズ1冊目の確か「プロ教師の道」という本だったと思います。今、手元にありませんので「プロ教師の覚悟」を載せましたが、これは実は読んでません。
この人も学校教師ですが、内容は授業技術ではなく、学校運営に関してです。「プロ教師」は映画化もされています。シリーズでたくさんの本が出版されていますが、内容はほぼ同じです。
学校のあり方、教師のあり方を提示しています。世間的にはテレビドラマ的な先生が「理想」とされていますが、そういう「愛情」を前面に押し出したスタイルを否定し、「上から管理すべきだ」という理論を展開しています。
生徒管理、クラス運営に関して、多いに考えさせられた本です。生徒への迎合は愛情でもなんでもありません。「説教は意味がない。きちんと罰するべきだ。」「警察を入れるべき時には入れろ」 それらをきっぱりと言い切る姿勢に感心しましたし、共感しました。現場ではそう感じていても、踏み切れなかった、または、口に出せなかったことを、理路整然とメディアで打ち出したところにすごさがあります。「母性」と「父性」に分けるならば、この本は「教育は父性で行うべき」と主張している気がします。「はみ出した生徒の扱い」だけでなく、行事の盛り上げ方とか学校組織の活性化とか、「運営面」に関して、彼の著作からは様々なアドバイスが得られます。人を動かし集団を管理するという点で、その手法は、塾講師にも応用がきくものです。
「授業の腕をあげる法則」
向山 洋一 明治図書
授業技術のハウツー本として、最初に読んだ本です。塾講師を始めた頃、そういう本を探しに本屋に行って、まだ何も知らないながらこの本を選んだ自分の選択眼を素晴らしいと思います。後から考えたら、この手の本ではおそらく一番メジャーです。
「超整理法」に私は感心しました。あの本は、一般的な手法である「ジャンルによる分類」を否定し、「時間軸に沿った整理法」という、それまでになかった考え方を提唱したことがすごかった。この「授業の腕を上げる法則」でも、「授業は技術である。誰がやっても結果の出るものこそが定石として認められる。」と言い切っています。とかく、教育というと「愛情」とか「熱意」とか、抽象的で精神論的な言葉で片付けられがちです。法則として、技術として、授業を文学的な言葉ではなく、科学として扱おうというアプローチが、私には新鮮でした。
この本の方針をひとことで言うならば、「具体的に細かく」ということです。
例その1:<確認の仕方>
地図を開いて大阪市を探させたとする。その確認の方法として
○「見つかりましたか?」は素人である。
●「大阪市に人さし指をあてなさい」そして本当に探せたか念を押したい時はさらに「となりの人と比べてごらんなさい」となる。
例その2:<発問>
電車の車掌の仕事を教えるとする。
○「電車の車掌さんはどんな仕事をしてますか?」は素人の問い。
●「電車の車掌さんは笛を鳴らします。誰に聞かせるのでしょう?」という発問をさがしだすのは少し腕のある教師。さらに「『○○に聞かせる』とノートに書きなさい。」と指示を出し、「1分後」に止めさせて、「発表したい人、手をあげなさい(6名発表させる)」とやって、「運転手に聞かせる」と「お客に聞かせる」の意見に分かれるから、その後、理由を言わせると大論争に発展していく。
「教育の門」でも書きましたが、私は新しい先生にはいつもこの本を薦めていました。(私の本を貸したというのも「教育の門」に書いた通りです。)読んだ感想は「読みやすい」「一気に読めた」がほとんどでしたが、それはつまり「読んでてわかりやすく面白かった」ということです。10時間くらいべったりついて研修するくらいの内容は、この本によって学べます。
2〜3年も経験を積んでいる先生が読んだら、「当たり前」のことばかりですが、では本当に日々のレベルで、満点の授業を実践できているかというとそうでもありません。「もっと良い発問はなかったか」とか、「あそこはほめるべきだったか」とか、「あの時の図は、こう書いた方が良かった」とか、反省点は考えさえすればいくらでも出てくるはずです。授業の最初から最後までパーフェクトなんて滅多にないでしょう。
「愛情」「熱意」に限らず、「やる気」とか「勇気」とかは「ある」「持っている」と心で思っていても、あまりにも抽象的なため、ほとんど意味がありません。「熱意」は、「より良い発問を探しあてる」「教具を開発する」など、具体的な行動に結びつけてこそ初めて意味を持ちます。
知りませんでしたが、「続・授業の腕をあげる法則」「実践・授業の腕をあげる法則」「論争・〜」なんていう本も出版されているです。読んでみるつもりです。
「新しい児童心理学」
ピアジェ+イネルデ
(文庫クセジュ) 白水社
私のお薦めはピアジェです。
講師業を始めた時は、「『知能』とは何だろう?」と思わされる時がありませんでしたか? できる子とできない子が存在する。学力は確かに努力によって大きく左右されますが、理解の早さや深さは子供によって明らかに違う。
スポーツと同じだと思いますが、勉強に関しても、能力の差はかなり決定的なファクターです。が、講師として教える以上「違うもんだ」のひと言では済まされません。
「もっとカッコ良く(かわいく)なりたい」と思った時に、「鼻を高く」とか「目をパッチリ」とかは整形手術でもしない限り、変えようがありません。しかし、髪形とか化粧とか、どうにかなる部分は努力しようがある。また、「知性や人格を磨く」という内面での努力もできる。生まれもった外見のカッコ良さは決定的で、それをくつがえすことは出来ないかもしれませんが、その人なりの改善・向上はできます。
ある生徒がなかなか成績が上がらない時に、「この子はできないから」で終わらせていたら、講師としてお話になりません。どういう部分が努力しがいがあって、どういう部分が努力しがいがないのか。遺伝によって決まっている能力とはどんな能力なのか。どれくらいの努力で、どれくらいまでの成長が見込めるのか。講師はそういう知識を求められます。
「発達」という考え方も重要です。小5の段階ですでに能力に差がある。では、その差は何才くらいでついた差なのか? 生まれたての赤ん坊に、能力の差が決定的にあるとは思いにくい。どこでついた差なのか? 「いつ」「どうやって」いれば、望ましい能力が形成されたのか? また、小5で習得すべき(=やれば伸びる)能力とは何なのか? 逆に、中学生くらいになってから伸びる能力(=小5でやっても伸びない能力)とは何なのか? そういうことを理解しなければ「今やるべきこと」を決められません。
昔、「知能とは何なのか」の答えを求めて、私はピアジェの「認知構造論」を購入しました。クセジュ文庫だったのは覚えていたので、クセジュで探したのですが、ありませんでした。で、内容的には同じものということで、「新しい児童心理学」をお薦めします。ピアジェ理論の総決算的な著作です。概論的なので、授業で直接使える内容はほとんどありませんが、「知能」について洞察があるのとないのとでは、講師としての力量に差が出てくるでしょう。
「イナイイナイ、バアー」をされて喜ぶということは、顔を隠した時に「本当に」いなくなったと思うことであり、逆に、喜ばないということは、手の向こうに隠れてはいるが、「そこに顔があるはずだ」という確信を持っていて、不思議でも何でもないということです。これは「目に見えるものがすべて」という知能段階と、「目には見えないけど、あるはずだ」という「物質の保存」に関する知能を得た段階との差です。では、その知能は生後何ヶ月で得るものなのか。それは、「イナイイナイバアー」をしても喜ばなくなった瞬間です。
ピアジェは、こういう多数の実験を繰り返し、その結果から結論を導き出していきます。ただ、紹介している本は、例や実験を大幅に省略していますから、非常に読みにくく、また、難解であることも合わせて紹介しておきます。